午前10:45 白虎楼
藤原先輩。その名前には聞き覚えがあった。
下級メイドでありながら名前を持つ、いわゆる「名前持ち」の中でも特別な扱いを受けている人物だ。
館のどこかしこで「藤原先輩がいれば大丈夫」「藤原先輩ならなんとかしてくれる」「ああ、こんな時に藤原先輩がいたら」と囁かれている。
しかし、おさげは未だに藤原先輩なる人物に会ったことはなかった。他のメイドに尋ねても皆、顔を見合わせ「藤原先輩は、藤原先輩だよね」と笑うのだ。
ある日、下級メイドがメイド長に怒られた際「藤原先輩の指示です」と伝えた所「藤原先輩か、それじゃしょうがないな」と肩をすくめたこともある。
あの恐ろしいディーネメイド長が引き下がったことには驚いたが、それ以上に名前持ちとはいえ下級メイドに対してメイド長が「先輩」と呼ぶのも不思議だった。
種族は何だろう、藤原というのはあまり聞かない名前だ。発する言葉は時に難解で、理解しがたいとも聞いている。もしかしたら古代種なのかもしれない。だとすれば長命なエルフであるディーネメイド長が先輩と呼ぶのも納得できた。
おさげが白虎楼の裏手へ到着すると、すでに多くのメイドたちが働いていた。
ティースプーン800本は手に入らなかったものの、銀器庫にないということはディーネメイド長に報告するべきだろう。怒られるかもしれないが、耐えればいい。おさげは耐えるのは得意だった。
白虎楼は宴会向きの大部屋で披露宴などに使われている。覗き込むと下級メイドたちが二人一組で折りたたまれた円卓を運び、組み立てていた。上座には折りたたみ式のステージが設えられ、新郎新婦用の半円状テーブルが運ばれてゆく。今日は結婚式らしい。
「おい、邪魔だ。どけ!」
「は、はい!」
おさげが驚いて飛び退くと誰かにぶつかってしまった。顔を上げた先にあるのは短い銀髪に褐色の肌、そして眼帯。俗にダークエルフと呼ばれる出で立ちのディーネメイド長が不機嫌な顔をしている。長耳が神経質に動き、おさげは縮み上がった。
ディーネメイド長の眼帯には下級メイドの間で様々な憶測が立てられいる。第三砂漠世界ドルアージの武装勢力とやりあった際の傷であるとか、エイジア界の孤島に取り残された弓兵とゲリラ戦を繰り広げた際の傷であるとか、極東世界にあるというアシュガルマウンテンにてクマと一騎打ちした際に得た傷であるとか言われている。
ちなみにおさげは「クマと一騎打ち」が最も有力な説だと信じていた。
「はわわ……」
おさげがうろたえている間にも周囲の下級メイドたちはせわしなく働いている。使い古された折りたたみ式の長机を立て、皿を積み込み重くなった鉄台車を古い電話機にぶつけないよう丁寧に壁に寄せていく。
自分だけが取り残されていくような焦りを感じながら、おさげは精一杯の勇気を振り絞る。
「あの……あの……」
しどろもどろになったおさげをディーネメイド長が一瞥する。
「ああ、お前か。ティースプーンはどうした?」
一声かけられただけでおさげは「うひぃ」と変な声を上げてしまった。気を取り直して言葉を継ぐ。
「あの、えっと。あの……。すみません。銀器庫に行ってきたんですけど。スプーン足りなかったので、他の部屋を探してきますね!」
そう言い切るやいなや、おさげは返事も待たずに逃げ出した。
走り去るおさげの背が小さくなっていくのを眺めてディーネメイド長が首をかしげる。
「持ってるスプーンくらい置いていけばいいものを、何しに戻って来たんだあいつ……」
入れ替わるようにやってきたのは下級メイドたちだ。フォークがぎっしりと入った浅く蓋のない黄色い箱を机に置き「ミートフォーク、ばんじゅうに入れてきたッス」と報告する。
下級メイドたちは次々と机の上にナイフや銀の水差しが入った箱、ばんじゅうを置いては中身を報告していく。一瞥してディーネメイド長が頷いた、問題はないらしい。
「よし、ではめがねはステージの赤スカートを探せ。ツリ目はBarの連中にミルクとレモンをもらいに行ってこい、紅茶用のやつだ。ほくろは赤ワイングラスと白ワイングラスを400本ずつ、カットが入っていないものを、タレ目とまえがみも連れて行け」
「はい!」
短い返事の後、ツリ目と呼ばれた下級メイドがメイド長に尋ねる。
「あ、ディーネメイド長。おさげどうっスか? 大丈夫そう?」
他の下級メイドたちもそれとなくメイド長を見る。
名前を持たない下級メイドは皆、蜂の巣と呼ばれる大部屋で暮らしている。大部屋には簡素なベッドが積み上げられており、就寝時には蜂の子のように潜り込むのだ。
壁は薄くプライバシーはあってないようなものだが、反面噂話が広まりやすいので情報には事欠かない。皆、新入りの様子が気になるのだろう。そういえばツリ目のベッドはおさげの隣だった。
「人のこと気にしてないで自分の仕事をしろ。あと、もう脱走すんなよ」
「へへ、はーい」
下級メイドたちが各々の仕事へ戻っていく。現在のおさげがそうであるように、かつて自分がやっていけるのか悩んだことがあるのだろう。蜂の巣で何かしら会話があってもいいものだが、どうやらあまり打ち解けてはいないようだった。
館の仕事は膨大だ、人と協力しなければ遂行できない。集団に溶け込む素養もメイドに必要な適性のひとつだった。
ディーネメイド長がホワイトボードに円卓の周囲に配置する椅子の数を書き入れていると、しばらくしておさげが戻ってきた。隠れてるつもりのようだが、ばればれだ。
手にはティースプーンが入ったプラスチック容器がある。この短時間で他の部屋から回収できるわけもない、出て行ってすぐに戻ってきたのだろう。ディーネメイド長はおさげが何をするつもりなのか気になり始めていた。
ホワイトボードに向けていた手を止め、横目でおさげを確認する。
この見習いメイドはサボることこそないものの、やっていることがちぐはぐで、どうも仕事が遅かった。どんなに努力しても結果が伴わなければ役には立たない。メイドに必要な手際の良さがおさげには足りなかった。
おさげはひとしきり辺りを見回して長机にティースプーンを置く。机の上にはすでに他のメイドが集めたフォークや銀の水差しなどが並べられている。これだけ銀器が集まっていればいかにどんくさいメイドであっても、ここにティースプーンを置けばいいとわかるだろう。しかし、ここでおさげは謎の行動に出た。
肩の上あたりの空間に話しかけると、納得した様子で30本ほどティースプーンを取り出し等間隔に並べていく。並べ終えると残りのスプーンが入ったプラスチック容器を持ったままおさげはそそくさと立ち去った。
「……は?」
気になったディーネメイド長はおさげが置いていったティースプーンをあらためる。よく見ると、3本ほどずらして置かれていた。
まず、集めたものをすべて置かない理由がわからない。小さいとはいえティースプーンは金属だ、800本も集めたら相応の重さになる。一人で持ち運ぶのは大変なことだ。
また、おさげが肩の上あたりに語りかけているのが気にかかった。まるで、見えないものが見えているかのように。
「イマジナリーフレンドか?」
幼少期に空想上の生物に出会う例は多い。多くは妖精や精霊として現れ、子どもが対人関係を学び、健全な成長をすると消滅する。
逆に過剰なストレスを受けると消滅せずに残り続けることがあり、成長したイマジナリーフレンドは精神に大きな影響をもたらすと以前、本で読んだことがあった。
ある種のスキルとされ、精神汚染や狂気の結果であるとする説や、大いなる座標への道しるべであるとする説。本物の妖精や精霊であるという説があるが、正確なことはわかっていない。何にせよ人材として扱いにくいというのがディーネメイド長の評価だった。
この館には妖精が見えるメイドもいるが、総じて個性が強い。これがイマジナリーフレンドを持つもの固有の特性なのかは不明だが、面倒が増えるのはごめんだった。
そんな事を考えていると、ぱたぱたとツリ目が戻ってきた。手には真新しい封筒がある。
「ディーネメイド長、これ藤原先輩からッス!」
差し出された封筒を確認する、封蝋の押し印には三葉が象られていた。館のメイドを統べるあのお方――ハウスキーパーから賜った指輪を使用した正式な封印だ。封蝋を剥がせば誰にでも開封できるが、勝手に開封したメイドはタダでは済まない。心理的な封印だ。
「透かしてみても何も書いてないんスよね、これ。もしかして魔法的なアレッスか?」
機密文書を透かし見ようとするんじゃない。
「いいから。仕事しろ、仕事。」
へいへい、と頭をかいてツリ目が立ち去る。生まれつき好奇心が旺盛なグラスフットは素行が悪いことが多い。躾れば解決できるかもしれないが、そこまで世話を焼いていられるほどメイド長には暇がなかった。教育にはコストと時間がかかる。
受け取った封筒を確認し、封蝋を剥がすと、中身は白紙だった。メイド長が傍にあった固形燃料に火をつけ、紙を炙ると、インク代わりに使われた植物の樹脂が焼け、文字が浮かんでゆく。
『調査報告書 対象、おさげ』
内容はおさげの素行調査書だった。
余計な混乱を招くため下級メイドたちには伏せているが、藤原先輩はスキル〈ハートイーター〉を所持している。対象の心の一部を食らうことで、記憶や認識を「味」のように感じとることができるらしい。心そのものを解析するため嘘がつけない。ただ、『固く閉ざしている部分』については〈ハートイーター〉でも食べられない。固すぎて文字通り歯が立たないのだそうだ。
おさげがこの館に来た経緯はよくある没落、よくある破滅だった。農業従事者を統治する家柄だったらしい。バイオ産業という見慣れない単語もある。
スキル欄には〈イマジナリーフレンド〉使役、妖精一匹まで可とある。手早く流し読んでいくと、属性傾向欄に違和感があった。
「混沌・悪、あいつが?」
属性は性格傾向を大まかに分けたものだ。具体的には社会的倫理を混沌、中庸、秩序で、道徳を悪、中立、善で振り分ける。
重要なのは秩序・善であれば良いとも限らない点だ。過剰な秩序と善性を持つ者は時に独善的な性格になる。かといって、社会規範も道徳も重視しない利己的な混沌・悪が人材として使いやすいわけもない。
ちなみに、社会が決めたルールを破るものの、道徳的正しさにとことん従うツリ目は混沌・善。
社会が決めたルールは守るものの、道徳を無視する傾向にあるディーネメイド長は秩序・悪に該当する。
属性傾向が悪と診断されたからといって、ディーネメイド長は自分の在り方を恥じてはいなかった。そもそも道徳など守っていたら命が幾つあっても足りないのだ。人道への配慮などというものは富裕層のお遊びであり、余裕のある金持ちのすること。生き残るために属性が悪になったからといって、それが悪いことだとは思わない。
メイド長が調査書を読み進めると、備考欄に奇妙な記述があった。
(殺害数、数名。研修後、即拘束されたし……どういうことだ?)
拘束方法に細かい指定がある、人件費を使いすぎているような気もするが、重要なのはそこではない。ここまでしておさげを拘束する理由がメイド長にはわからない。
殺人歴があることはこの館においてそこまで大きな問題にならない。最近は戦争地帯などの劣悪な環境下から落ち延びてくるものも多い、暗殺者として育ち80名以上の殺害数を持つリンも今では立派に働いてくれているし、当のディーネメイド長自身も故郷で防人をやっていた頃に手を汚している。エルフは奴隷にすると高値がつくため、森に火を放ち混乱に乗じて略奪しようとする手合いも多い。防人が苛烈に抵抗すれば死人も出ようというものだ。
だがしかし、おさげは違う。裕福な生まれのおさげには人を殺す必要性がない。軍人でも暗殺者でもゲリラでもなく、殺し奪わなければならないほど困窮していたわけでもない。そして何より気になるのが、殺害数が数名という点だ。
山のように殺し続けてきたから何人殺したかわからないというならともかく、たった数人の殺害数で覚えていないというのはどういうことだ。わからないことはまだある。「研修後に即、拘束されたし」とあるが、これは何の為だ? 屍の山を築いたリンですら、そのような扱いは受けていない。
そもそも、おさげが危険人物なら研修そのものを取りやめて早急に解雇するべきでは?
「また厄介な奴がやってきたものだな」
読み終えた調査報告書を固形燃料の火にかけ、灰皿の上に放る。
炎が紙を舐め尽くし、秘密は灰になった。
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