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完結済 短編 現代世界 / 日常

夢をみたの~ある少女の祈り~ ぼくは幸せなんて知らない。だから不幸も分からない。

公開日時:2025年4月24日(木) 14:34更新日時:2025年4月24日(木) 14:34
話数:1文字数:5,288
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 「夢をみたの」

 

 ぼくの傍らでアスファルトの上に寝ていたアイ。彼女は目を覚ますと、ぼくに向かってすぐにそう言った。

 

 場所は新宿東宝ビルの脇。世間ではトー横と呼ばれているところだ。まだ夜は明けたばかりで夜の名残りと一緒に、どうにもならない閉塞と絶望が周囲に色濃く漂っていた。

 

 前の日に客が一人もつかず、仕方なくぼくたちは深夜に路上で寝たのだ。今日こそは客を捕まえないと、路上で寝るどころか食べる物にも困ることになる。

 

 アイの言葉に取り合わずに、そんなことを考えていたぼくにアイが再び口を開いた。

 

「ねえ、夢をみたの」

 

 アイがまた同じ言葉を呟いた。ぼくが返事をしなかったのが不満だったのだろう。

 

「どんな夢を?」

 

 仕方がないので、ぼくはそう訊き返す。

 アイはしつこい。訊き返さないと壊れた機械仕掛けの人形みたいに、何度でも同じ言葉を繰り返す。

 

「えっと、遠くに小さな空が浮かんでたんだ。誰かが世界の端をそっと破って、空だけをちぎって貼りつけたみたいな。私はそれに触りたくて、そこに行きたくて、祈りながら手を伸ばすんだよ。でも、絶対に手は空には届かないし、行けないんだ。でも、そこに行けるとね……」

 

 アイが一生懸命に話している。でも何を言っているのかが分からなくて、あとの言葉は頭に入ってこなかった。

 

 ちぎって貼りつけた小さな空。

 そもそも最初から意味が分からない。それに手が空に届かないなんて当たり前だろう。市販薬の飲み過ぎで、頭の中にある歯車が回らなくなってしまったのだろうか。

 

「そっか、それは大変だったね」

 

 他に言葉が浮かんでこなくて、ぼくはそう言った。

 

「んー。大変だったんだよー」

 

 アイがふにゃっと笑う。ぼくはこの笑顔が好きだった。手を伸ばして、ぼくはアイの頭に優しく片手を置く。

 

「えへへっ」

 

 そうするとアイも嬉しそうで、再びふにゃっと笑う。アイが何歳なのか、ぼくはよく知らない。以前は十七歳と言っていたが、つい最近では十五歳だと言っていた。

 

 もっとも年齢なんて、ここでは大した意味がない。それは意味のない記号に近い。ぼくだって自分が十六歳なのか十七歳なのか、分からなくなってたまに混乱してしまう。

 

 ここは時間が剥がれ落ちてしまった場所。ぼくにはそう感じられる瞬間が度々ある。

 

 今日は風が少しだけ強いようだった。脱色を繰り返し、白に近くなってしまったアイの傷んだ髪の毛が宙で踊っている。それがなぜか、ぼくには寂しげに見えた。

 

 アイの小さくて痩せた体。その胸に膨らみなんてほとんどなかった。これでは特殊な性癖でもなければ、彼女を性欲の対象として見るのは無理がある。そんな体では路上やネットで、客を捕まえるのも難しいだろうとぼくはいつも思う。

 

 そしてやっと客を捕まえても、地回りのヤクザに売上の一部を払わなければならない。きっと今日も夕方頃には、昨夜の分の集金にくるはずだった。

 

 そう思っていたら、通りの向こうから騒がしい音が聞こえてきた。

 

「おら、起きろ!」

 

 どこから見てもヤクザと思える三十歳半ばぐらいの男だった。まだ明け方の早い時間にこういった男が来るのは珍しい。

 

 男は路上で寝ていた女の子の脇腹を無造作に蹴っていた。男の背後にはホストのような格好をしている若い男がいる。

 

 いつも集金に来るヤクザとは違うようだった。若い男が手にしている写真を指差して歳上の男が何ごとかを喚いている。  

 

 やがてこの二人がぼくたちの前にやって来た。

 

「おい、こいつらを知らねえか?」

 

 歳上の男が若い男の持つ写真を指差して、同じ言葉を繰り返す。

 

「えー? 知らなーい」

 

 アイが少しだけ間の抜けたような言葉を返した。男の眉間に皺が寄った。

 

 嫌な顔だった。ぼくの体を買う客にも、こんな顔をした奴がたまにいる。そういう客は大半が暴力的な性行為を求めてくる。

 

「おい、ガキ、大人を舐めるなよ?」

 

 顔には既に剣呑なものが浮かんでいる。ぼくは慌てて間に入った。

 

「ごめんなさい。こいつ、クスリが抜けてなくて、まだラリっていて……」

 

「あ? てめえは何だ?」

 

 歳上の男がぼくに顔を向けた。眉間の皺。細められた目。

 ぼくに向けられた顔を見て、ぼくは思わず唾を飲み込んだ。やはりいつものヤクザとは、同じヤクザでも明らかに種類が違うようだ。

 

「友達です」

 

「友達だ? 気持ち悪いことを言いやがる。てめえはこいつらを知らねえのか?」

 

 男が指す写真には、二十代半ばぐらいの男女が写っていた。二人とも派手な格好で、明らかに夜の商売をしているといった感じだった。

 

「見たことないです」

 

「あ? 嘘じゃねえだろうな?」

 

 ぼくは黙って頷いた。

 

「おい、そっちのガキは? 本当に知らねえのか?」

 

 男がアイに再び顔を向ける。

 

「えー? 何もー知―らなーいっ」

 

 炭酸が抜けてしまったような間延びした返答に、男が顔をしかめた。

 

「斉藤さん、もう行きましょうよ。あいつら、マジで新宿にいませんって」

 

 若い方の男がそう声をかけてきた。

 

「あ? ハジメ、手前は黙ってろよ? 馬鹿どもの居場所なんて、ここしかねえんだよ。こいつらと一緒だ。馬鹿だし、馬鹿だから新宿でしか生きられねえんだよ」

 

 馬鹿、馬鹿とうるさいな。ぼくはそう思う。写真の二人が何をしたのかなんて知らないけども、いずれにしてもこんなヤクザに追われているのだ。きっとろくなことじゃないのだろう。

 

「まあいい、こいつらを見つけたら連絡しろ。俺は斉藤だ。その辺にいるヤクザもんに、斉藤から頼まれたと言えば、すぐに繋いでくれる。何、礼ぐらいはしてやるぞ」

 

 そう言って、斉藤と名乗った男は少しだけ口元を緩めた。案外、悪い人ではないのかもしれない。

 

「はい、分かりました」

 

 悪い人ではないのかもしれないけれど、例え見つけても連絡なんてするわけがない。そんなことでトラブルに巻き込まれるのは御免だった。そう思いながらも、ぼくは大人しく頷いた。

 

「はーい」

 

 何が面白いのか、アイはニコニコしながら片手を上げている。

 

「ちっ、ガキだってのに、イカれてやがんな」

 

 アイを一瞥して、斉藤と名乗った男は踵を返した。慌てたようにハジメと呼ばれた若者もそれについていく。

 

「何だかオジサン、怒ってたねー」

 

 アイがふにゃふにゃと笑っている。強面のヤクザにある意味で恫喝されていたのに、アイは何も気にしてはいないようだった。

 

 これではヤクザに壊れていると言われてしまうのも無理はない。

 

「ねえ、アイ……」

 

「んー? 何かなー?」

 

 向けられた顔には、ふにゃふにゃとした笑顔が変わらずに浮かんでいる。その顔を見てぼくは少しだけため息をつく。

 

 その顔を見ていたら口に出そうとしていた言葉が、霧のようにどこかへ消えてしまったのだ。ぼくは代わりに他の言葉を口にする。

 

「今夜は客を捕まえられるといいね。じゃないと、またここで寝ることになるもんね」

 

「そだねー」

 

 アイは大して気にしていないように頷いて言葉を続けた。

 

「お客が来るように神様にでもお願いしようかな。そういえば、あの神父さん、来なくなったねー」

 

 アイが言う神父さんとは、たまに姿を見せるボランティア気取りの人だった。

 

 その神父に何の使命があるのか、ぼくには分からない。でも、こうしてこの辺りにいる子供たちに神の教えとやらを説いて回っていた。

 

 さっきのヤクザもそうなのだ。ここに来る大人たちは、ぼくたちから何かを搾取しようとするか、したり顔で正論を説きにくるかのどちらかだ。

 

 そして、このどうでもいいようなアイとの会話。

 それがぼくとアイの交わした最後の会話だった。

 

 

 

 

 アイが死んだと言う話を聞いたのは翌日、夕方近くになってからのことだった。別にここでは、死の匂いがする話もそれほど珍しくない。

 

 客に暴力を振るわれた。市販薬の飲みすぎで病院に運ばれた。誰それが死んだらしい。そんなのはよく耳にする言葉だ。

 

 でもぼくにとって、もの凄く身近な人間の名を耳にするのは初めてだったかもしれない。

 

 前の日の夜からアイの姿を見ていなかった。でも、ぼくは気にしていなかった。きっと路上で捕まえた客と、ラブホにでもいるのだろうと思っていたのだ。

 

 その日は昼間から警察車両のサイレンがうるさいとは感じていた。ただ、ここは新宿なのだ。それが日常とまでは言わないが、サイレンの音がうるさい日だって珍しくはない。

 

 だから前日の夜から姿を見せないアイと、そんなサイレンの音を紐づけて考えるなんて思いつきもしなかった。

 

 アイは酷い死に方だった。下半身の穴にはそれぞれ異物が突っ込まれて、全裸で首を絞められて殺されていた。

 

 どこから情報を持ってきたのかは知らないが、誰かがそう得意げに語っていた。

 

 変態はどこにでもいる。そもそも同性のぼくを金で買っている客だって、根っこの部分では変態なのだ。ただ変態にも程度の問題があって、ぼくはたまたまそういった客に出会わずにすんできただけだ。

 

 いや、違うのかとぼくは思い直す。今までだって行為の最中に首を絞められたことなんて何度もあった。きっと、たまたまぼくは今まで死ななかっただけなのだ。

 

 ぼくはそう思って軽くため息をついた。

 

 姿を見せなかったアイと、うるさかったサイレンの音を紐づけて考えるなんて、きっと神でもなければできるはずがない。

 

 神でもなければ……。

 そう思っても、喉の奥が少しだけ震えてしまうのをぼくは感じる。

 

あの時アイが言っていた、たまに姿を見せるボランティア気取りの神父。

 

 君たちはここから抜け出す必要がある。なぜなら、君たちは神様の子として生まれたのだ。だから幸せにならなければいけない。だから神様に祈りなさい。

 

 その神父の口ぐせだった。正直、言われていることがぼくには分からない。

 

 幸せって何だろうとぼくは思う。そのための祈りって何なのだろうか。

 

幸せにならなければいけないということは、今が不幸だということなのか。こうしてここにいることは不幸なのか。

 

 ぼくは幸せなんて知らない。だから不幸だって知るはずがない。

 

 幸せがあるから、その対になる不幸があるのだ。だから幸せを知らなければ、不幸だって知るはずもない。

 

 生まれた時から親に虐待されて育ってきた。施設に保護された後だって、待ち受けていたのは日常的な虐めと性的な虐待だ。

 

 そんな世界が不幸だと言うのなら、きっとそうなのだろうとぼくも思う。理屈での不幸は分かるけど、じゃあやっぱり幸せって何なのだろうか?

 

 そんな世界ではないところが幸せなのだろうか。そんな場所から逃れるためにぼくはトー横にやってきた。それなのにトー横の世界は幸せではないのだろうか。

 

 分からない。

 ぼくは幸せなんて知らない。

 だから不幸も分からない。

 

 殺されたアイは不幸なのだろうか?

 神父が言う神の子だったのに、アイは不幸だったのだろうか?

 

 ぼくは、ため息をついた。答えの出ない思考が、ぐるぐると回っている。ぼくは目を閉じてアスファルトの上に寝転がった。ゴツゴツしていて背中が少しだけ痛い。

 

 そうしてふと目を開くと、あの時アイが言っていた景色が視界にあった。

 

 小さな空。

 誰かが世界の端をそっと破って、空だけをちぎって貼りつけた届きそうで届かない空。

 

 ……夢をみたの。

 アイはそう言ってふにゃっと笑っていた。

 そう。アイはふにゃっとよく笑う子だった。

 

 そびえ立つビルに囲まれた小さな空。貼りつけられたように浮かんでいる小さな空が、そこにはあった。その空は小さいけれども、どこまでも青い。

 

 いつもはうるさいぐらいに思える街の喧騒が遠くに聞こえる。まるで新宿のどこかに騒音を吸い取る大きなスポンジが、いまこの瞬間に生まれたかのようだった。

 

 アイは夢の中で手を伸ばしたと言っていた。行きたかったと言っていた。手を伸ばしても届くはずもないその空に、彼女は何を見たのだろう。

 

 彼女は何を祈ったのだろうか?

 彼女はどうして手を伸ばしたのだろうか? 

 彼女はどうして行きたかったのだろうか? 

 

 そこに幸せがあるとでも言うのだろうか。ならば、アイはぼくと違って幸せを知っていたのだろうか。

 

 もっとアイと話をしたかった。アイと交わした会話を思い出すと、アイと過ごした日々を思い返すと胸がざわつく。これは何なのだろうか?

 

 今日はあの時に感じた風が少しも感じられない。ぼくにはそれが少しだけ悲しく感じられた。

 

 意識しないまま涙が伝う。これは何の涙なのだろう。

 胸がざわつく。心がざらついている。

 

 名前をつけるには、まだ遠すぎる自分の感情を持て余したままで、ぼくは貼りつけられた小さな空に片手を伸ばした。

 

 アイが夢でみた小さな空にぼくの手は届かない。

 届くようにといくら祈ってみても、ぼくの手は届かない。ぼくの祈りがどれだけ切実で真剣だったとしても、嘲笑うかのようにぼくの祈りは周囲へ溶け込んで消えていくだけだ。

 

 夢をみたの。

 あれは祈りの言葉だったのだろうか。

 アイの声が今も耳の奥に残っている。

 

 壊れてしまった機械仕掛けの人形みたいに、同じ言葉を繰り返すアイ。その声が今もぼくから離れていかない。

 

 君たちは神様の子。

 幸せにならなければいけない。

 だから神様に祈りなさい。

 

 ボランティア気取りだった神父の口癖だ。

 

 でも幸せも、祈りの意味さえもぼくはまだ知らない。

 それでもアイの夢が、祈りが届くことを静かにぼくは祈るのだった。

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