霧の中に悪魔がいる

full moon
full moon

(5)

公開日時: 2021年5月31日(月) 12:10
更新日時: 2021年7月1日(木) 08:21
文字数:1,190

 皆は噴水の周りにある四人席に座っている。


老婆は一番壁際の席に座り、皆を見渡せる位置に居る。


 「正直、わしはまだ映画の撮影だと思ってるが、一応、外に出れない訳だし、皆、名前だけでもわかっていたほうがいいんじゃないか?」


老父はそう言い、ひと呼吸置いて話を続ける。


「わしの名前は、湯田。隣はわしの妻だ」


老父が言うと、老婦は小さく会釈する。


「じゃあ、次は私ね。私は田堂(たどう)よ。この子は息子」


老夫婦の隣の席に居る中年の女性が言う。


その息子は三十代後半位の容姿で車椅子に乗っている。


天井を見上げて、ずっとにやけている。


一定の間隔で膝を両手で叩き、リズムを刻んでいる。


何かの曲が頭の中で流れているのだろうか。


そのリズムに合わせて、上半身も上下に動かす。


ふと、その息子の表情がにこやかになり、満面な笑みで母の顔を見る。


リズムを見せつけるように叩く力が強くなる。


「わー」


その時、息子は大きな声を発する。


言葉ではないが、その息子の声は明るく、喜んでいる事がわかる。


空虚感のある店内では、その心から喜ぶ明るい声は雑音に聞こえる。


冷たい空気が流れる。


「ほら、大声は出さないの」


母は、子供をあやすように言うと、息子に一つ笑みを見せる。


「息子は障碍を持っているわ。皆さん、よろしくね」


母は、客の皆を見ながら明るい声色で言い放った。


その声は強くて曲がらない芯のある印象を受けた。


「あ、私は篠生(しのう)です。ギターが弾けます」


私の隣の四人席に座る男性が言う。


客の皆は特に何の反応も示さない。


「じゃあ、私達ですね。富竹(とみたけ)です。こちらが妻と娘です。ハイキングに行く予定でした」


私は言う。


「ハイキングか、それは残念だったな」


老父が言う。


間もなくして、白杖を持つ男性が話し始める。


「郷珠(ごうたま)と申します。僕は目が見えませんので、ご迷惑になってしまうかもしれませんがよろしくお願いします」


最後に残るは老婆だった。


老婆は分厚い本を広げて、ページを凝視している。


目線が集まっている事に老婆は気が付いた。


一瞬、目を大きくさせて皆を見渡す。


しかし、すぐに目線を分厚い本のページに向ける。 


「それじゃあ、婆さんでいいか」


老父は言う。


それを聞いた老婆は、ちらりと老父を見て、一つ、鼻で笑った。


老父は左上に目線を流し、天井を目で仰ぎながら、はははと微笑する。


「婆さん、感じ悪いなあ」


居心地の悪さを拭おうと明るく言う。


「婆さん、一応、念の為、聞いておくが、何が起きているんだ?」


老父は訊ねる。


老婆は口をつぐみ、瞳を左右に大きく動かす。


そして、左上に瞳を動かして止まると老婆の口が僅かに開いた。


「神の御技が届かぬ時、暗黒の深淵に封印されし悪魔の巣宮の入り口は開かれる」


老婆は時々言葉を詰まらせながら言う。


その声色はしわがれ、引きずるように重い。


聞き慣れない言葉が、真実味を感じさせる。


私の背中にぞわぞわっと緊張が走った。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート