女みたいな名前を持った、弱気で華奢ないじめられっ子。それが僕だった。
「やい、女っ子! これでも食らえ!」
「ユニー、こっちもやっといてくれる? いいよね!」
「掃除が遅いっ!」
「あ、ユニ! いつまでも来ないから、ご飯片付けちゃったじゃない! どんくさいんだから!」
毎日毎日、飽きずに蹴られ殴られ、みんなの仕事を押し付けられた。ヘトヘトなのに、作業が遅れるからご飯もない。疲れが溜まってさらに作業が遅れ、全部終わる頃には夜遅く。空きっ腹のせいでろくに寝られず、眠いままに朝早く起こされる。そんな毎日が繰り返されていた。
僕がいるのは古い孤児院。僕の寝床は雑魚寝部屋ですらないボロボロの倉庫。隙間風が吹き込むから本当に寒い。お情けでもらえた薄い毛布をかぶって、隅に固まるのが習慣になっていた。その胸に、虎のぬいぐるみを抱えて。
「ティギー……寒いよお……」
その日は、酷く寒い夜だった。いつもより小さくなって、一枚の毛布にくるまっていた。涙が一つ、ぬいぐるみに落ちる。名前はティギー。孤児院に来たときから、ずっと一緒だった。
「ああ、寒いな。クソ寒い」
「ひいぃ!? ティギー、ティギーなの!?」
だからその返事は突然で、僕は慌ててぬいぐるみを落としかけた。しゃがれただみ声は、僕に構わず言葉を続ける。
「なんだこのしみったれた場所は。こんなとこに、ホントに俺の種が……いや、ガキに抱かれてるってーのは、そういうことか」
「……ティギー、声を抑えて。誰かに聞こえたら殴られちゃう」
そんなティギーを、僕はたしなめる。だけど。
「るせえ! ……こんなとこ出るぞ。今からだ」
「え」
返ってきた言葉に、僕は耳を疑った。今、なんて。
「お前タコか!? ここを出る、つってんだよ。もうすぐザコどもが迎えに来る」
「え、あ……」
「うるさい! とっとと外へ出ろ!」
だみ声に急き立てられ、僕はこっそりと外へ出た。中も寒いけど、外はさらに寒い。洗濯もさせてもらえないボロ着の隙間から、身を切られるような痛みが走る。
「止まるな! 走れ!」
更にだみ声。僕はぬいぐるみを抱いて走る。視界の片隅が、明るく光る。見張りに気付かれてしまった。殴られる恐怖が、僕を焦らせた。足がもつれて、草むらにすっ転ぶ。
「っあ!」
その痛みが、僕の限界だった。息が荒い。肺が苦しい。素足も痛い。
「このタコ! おい、起きろ!」
だみ声がうるさく僕をせっつく。怖い。嫌だ。そもそもなんでティギーが喋っているんだ。怖い!
「タコ! 耳をふさぐんじゃねえ! 選べ!」
耳をふさいでも、だみ声がすり抜けてくる。嫌だ。もう動けない。でも殴られるのも嫌だ。
「いいからどっちか選べ。このままだとお前は捕まる。するとまた殴られることになる。いや、逃げたからもっと酷いことになるかもしれん。俺は声しか出せないから助けられねえし、下手すりゃゴミ箱に捨てられてお別れだ」
「う……」
想像して、目をつぶる。今でさえ辛いのに、これ以上ひどい目にあう。ティギーもいない。無理だ。いつか死ぬ。ぬいぐるみを抱きしめて、僕は震えた。
「痛え! 緩めろ!」
「あ、ごめん」
「よし、このくらいなら喋れるな。まあその反応になるよな。で、俺から提案だ。捕まるのが嫌なら、俺の言う通りにしろ。それも嫌なら俺を捨てて逃げろ。勝手に捕まっちまえ」
「あ……」
ぬいぐるみを目線に掲げて、僕は考えた。僕を探す声が、近付いていた。いやだ、と口が動いた気がした。
「よし、なら俺を抱えて立て」
「え……」
「いいから立て。お前が声を出してなくても、俺には聞こえた。お前の心の声がな」
「……んっ!」
足を踏ん張って立ち上がれば、心なしか痛みが引いていた。これなら。
「いたぞ!」
「手こずらせやがって!」
孤児院の年上組。大人達。集まってくるのは、僕をよく殴る人たちだった。足が震える。今にも漏らしそうだった。ぬいぐるみを抱える腕も、たぶん震えている。しかしぬいぐるみは何も言わない。包囲が迫って、ようやく口を開く。
「もうちょい待て。後三歩詰まったら、俺を掲げろ」
僕は小さくうなずいた。ジリジリと、僕を取り逃がさないように、怒りに満ちた目が迫ってくる。心臓が、重く波打っていた。
「二……一……やれ!」
「あああああ!」
がむしゃらに叫び、ぬいぐるみを掲げる。すると、ぬいぐるみがまばゆい光を放ち、空から別の光を招き寄せた。
「ヒャハハハ! ほんっとに旦那がぬいぐるみになっちまってら!」
「クロガネ、うるさい。早く引き上げるわよ!」
「ボス、遅くなってすまなイ。もう大丈夫ダ」
「無事、祝着。医者、可なり」
上空の光。その向こうから響く、複数の声。うるさいけれど、楽しそうな声だった。一方、僕たちに迫っていた人々は腰を抜かしていた。神に祈るように、ひざまずいている人もいた。
「うるせえ! 相変わらずだなザコども! まず俺たちを引き上げやがれ!」
「ヘイ!」
「はっ!」
「それが済んだら、急上昇で大気圏脱出! ずらかるぞ!」
「分かっタ」
「委細、承知」
ぬいぐるみが大きく叫び、次々になにかを言う。途中、僕にはよくわからない言葉も混じっている。ともかく孤児院で聞かされた指示とは、どこか違う気がした。曖昧な言葉が、一切なかった。
「宇宙は、曖昧だと死ぬからな」
僕の疑問を察知したのか、だみ声が小さく返ってきた。だけど次の声は、元に戻っていた。
「まずはここから出る。それが第一だ」
光が一段と強くなる。僕を追っていた連中は、もはやパニック状態だった。この世の終わりだと叫んだり、ひざまずいて伏し拝んだり。僕も混乱してるから、仕方がない。
「気張れ……ねえよな。リラ、頼む!」
「はいっ!」
それが最後に聞こえた声だった。僕の意識は、光の中で遠くなっていく。いつしか視界は、真っ黒になって……。
……次に目が開いた時には、いつもとはぜんぜん違う天井が見えていた。
「……えっと、あれ?」
記憶を振り返れば、ついさっきまで起きていたことが次々と浮かんでくる。ティギーが急に喋り出して。抱きかかえて逃げ出して。言われるがままに、天に掲げて。
「……孤児院に、なにも言い残してない」
「あんなトコ、気にしてるんじゃねえ」
どこか外れた感想に、あのだみ声が返ってきた。
「そうだね」
僕がゆっくりと身を起こそうとすると、背中に手が添えられた。手の主は、結い上げた金色の髪が映える、きれいなお姉さんだった。ティギー『だったもの』は、僕の隣で寝かされていた。
「お目覚めかい、俺の種」
ティギーは動かない。動かないけど、だみ声でしゃべる。
「ったく。この俺様の種を、あんな所で眠らせやがって。こんな形でなけりゃ、根こそぎ壊してやるところだったぞ」
「キャプテン、それはそうですしお怒りには共感しますが、説明もなにも済んでおりません」
「それもそうだな。リラ、コイツの容態は?」
ティギーの言葉でお姉さんが動いた。リラさんは僕の首が痛くなるほどに背が高かった。その上胸が大きかった。見とれそうになって、思わず目をそらしてしまう。肌に張り付く感じの服が、妙に僕をドキドキさせた。
「私はリラと言います。すみませんが、じっとしててくださいね」
リラさんのお願いで、僕は身を縮こまらせた。殴られるとは、思えなかったけど。
「あー、大丈夫だ。ちょっと目の前が暗くなるけどな」
ティギーの声。次の瞬間、頭になにかが被せられた。外側からウィンウィン音が聞こえる。会話から考えるなら、僕の調子を見ているのだろうか。
「バイタル、全て正常ですね。記憶の乱れもないようです」
リラさんの声。だみ声とは違う、きれいな声だった。
「おし。んじゃあザコどもと会わせても問題ねえな」
「よろしいかと。個人的にクロガネに会わせたくはありませんが」
「それはお前の問題だ。全体を考えろや、リラァ」
申し訳ありません。
わかりゃええ。
「行くぞ」
「いえ、お待ち下さい」
胸に抱えたティギーが口を開くが、リラさんが待ったをかけた。
「どうした。時間は有限だぞ」
「いえ、彼がこれではかわいそうです。身だしなみに、お時間をいただけると」
僕は鏡の前に立たされる。ボロ着こそ寝間着に変えられていたが、ボサボサの髪に傷だらけの肌。状況が変わったのに、格好が変わらない僕がそこにいた。
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