隠れジョブ

自然の支配者で脱ボッチな異世界生活
破滅
破滅

どうも、どうやら宿の飯は強化ドラッグな勢いのようです

公開日時: 2025年6月27日(金) 23:00
文字数:3,646

鬼のガルド――。

Aランクの冒険者。その圧倒的な威圧感と、去り際に投げかけられた「死ぬなよ」という短い言葉が、ギルドを出た後も俺の頭の中で反響していた。


シャルテンの街は、夕暮れの茜色に染まり始めていた。仕事を終えた人々が家路につき、あちこちの酒場からは陽気な音楽と楽しげな声が漏れ聞こえてくる。昼間の喧騒とは違う、穏やかで温かい空気が街を包んでいた。


だが、俺の心は落ち着かなかった。冒険者としての一歩を踏み出した高揚感とは裏腹に、今夜の寝床すら決まっていないという現実的な問題が、ずしりと肩にのしかかる。騎士から奪った金と、王から与えられたなけなしの支度金を合わせても、裕福とは程遠い。無駄遣いはできない。


(……死ぬなよ、か)


ガルドの言葉を、俺は反芻する。あれは、きっと脅しや侮蔑ではない。この世界で冒険者として生きることの厳しさを知る、本物の強者からの、不器用で、しかし真摯な忠告なのだろう。「半端な覚悟で冒険者になるなら、死ぬぞ」という警告であり、同時に「何があっても、無様でも、生き延びろ」という激励のようにも聞こえた。


(いつか、あの人みたいな強者に……)


漠然とした目標が、心の内に生まれた。今はまだ、足元にも及ばない。だが、いつか肩を並べられるような、あるいは認められるような存在になってみたい。そのためにも、まずは今夜を生き延びなければ。


俺は気を引き締め、宿を探して大通りを歩き始めた。いくつかの宿屋の看板が目に入るが、どこも値が張りそうだ。扉の隙間から見える内装は綺麗だが、客層も裕福な商人や貴族ばかりに見える。今の俺のような、薄汚れたなりの中古の鎧を着た小僧が泊まれる場所ではなさそうだ。


大通りから外れ、何本か路地を曲がったあたりで、俺は途方に暮れかけていた。日はとっぷりと暮れ、腹の虫がぐぅ、と情けない音を立てる。その時だった。どこからか、ふわりと食欲をそそる匂いが漂ってきたのだ。それは、野菜と肉をじっくり煮込んだシチューのような、温かく家庭的な香りだった。


匂いに誘われるように、俺は足を進める。すると、小さな路地の突き当りに、一軒の宿屋がひっそりと佇んでいた。オーク材で作られた古びた建物で、窓からはオレンジ色の温かい光が漏れている。看板には、丸みを帯びた文字で『やすらぎ暴食亭』と書かれていた。


(暴食亭、か。名前の割には、ずいぶんと落ち着いた雰囲気だな)


他に当てもない。俺は意を決して、その木の扉に手をかけた。


ギィ、と心地よい音を立てて扉が開く。中に足を踏み入れた瞬間、先ほどのシチューの香りが、より一層強く俺の鼻腔をくすぐった。店内は、カウンター席とテーブル席がいくつかあるだけの、こぢんまりとした空間だった。だが、掃除は行き届いており、中央の暖炉ではパチパチと薪がはぜて、客たちの冷えた体を温めている。客は三人ほど。皆、俺と同じような冒-険者だろうか、武骨な装備を傍らに置き、静かに食事を楽しんでいた。ギルドのような殺伐とした雰囲気は、ここにはない。


「いらっしゃいませー!」


カウンターの奥から、鈴を転がすような快活な声が聞こえた。そこに立っていたのは、俺と同じくらいの歳だろうか、青い髪をサイドテールにまとめた、快活な笑顔が印象的な少女だった。


その姿を認めた瞬間、俺の思考は完全に停止した。

いや、違う。停止したのではなく、常人には理解不能な速度で、超高速回転を始めていた。


(け、ケモミミ……!?)


彼女の頭には、ぴこん、と動く、紛れもない狼のものらしき獣の耳が生えていた。そして、カウンターから乗り出すように身を乗り出した彼女の背後では、ふさふさの尻尾が、楽しげに左右に揺れている。


(狼獣人……だと!?マジか、異世界に来て、こんなにも早く、本物のケモミミ少女に出会えるなんて……!しかも、なんだこの破壊力は!太陽のような笑顔!快活な声!完璧じゃないか!ここは天国か!?いや、この宿こそが俺の目指すべき理想郷、ユートピアだったんだ!)


俺が内心でそんな歓喜の嵐に身を任せ、硬直していると、少女は不思議そうに小首を傾げた。


「……あのー、お客さん?どうかしましたか?」


「はっ!?」


いかん、いかん。あまりの衝撃に、意識がどこかへ飛んでいた。


「あ、あぁ、悪い。えっと……ここは、『やすらぎ暴食亭』で合ってるか?」

「はい!合ってますよ!それで本日は、お泊まりですか?それとも、お食事だけでしょうか?」


少女は、俺の薄汚れた身なりや、なけなしの金しか持っていなさそうな雰囲気を一切気にすることなく、眩しいほどの笑顔を向けてくる。王城で向けられた、あの値踏みするような視線とは何もかもが違った。この世界にも、こんな風に温かく接してくれる人がいる。その事実が、ささくれ立っていた俺の心を、少しだけ癒してくれた。


「あ、ああ、一泊、させてもらいたいんだが」

「はい、ありがとうございます!一泊ですと、お食事とお風呂がついて、1500ウォルになります!」


1500ウォル。銀貨一枚と銅貨五枚。俺の全財産からすれば決して安くはないが、食事と風呂付きなら妥当な値段だろう。俺は革袋から震える手で金を取り出し、カウンターに置いた。


「ありがとうございます!これがお部屋の鍵になりますね!お食事の時間になりましたら、お部屋まで呼びに参りますので!あっ、それから、私の名前はシュタ・ミリアレールって言います!みんなからはシュタって呼ばれてるので、お気軽にどうぞ!」

「……俺は、ショウだ。よろしくな、シュタ」


シュタに案内された二階の部屋は、豪華ではなかったが、驚くほど清潔に保たれていた。ギシギシと音を立てるベッドも、どこか懐かしい木の匂いがして、かえって落ち着く。

部屋に一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。城からの追放、騎士との死闘、冒険者登録、そして、ケモミミ少女との出会い。あまりにも、濃すぎる一日だった。俺は、そのままベッドに倒れ込み、泥のように眠ってしまった。


コンコン、と控えめなノックの音で、俺は目を覚ました。

「ショウさーん、お食事の用意ができましたよー!一階の食堂までお越しください!」

シュタの声だ。腹が、まるで合図を待っていたかのように、ぐぅ、と鳴った。


食堂に下りると、すでに他の冒険者たちがテーブルについていた。俺が席に着くと、シュタが湯気の立つ料理を運んできてくれる。


「はい、お待たせしました!本日の日替わりディナーセットです!」


テーブルに並べられたのは、見たこともない料理の数々だった。

ごろごろと大きな肉や野菜が入った、赤みがかったスープ。香ばしく焼かれた、少し黒みがかったパン。そして、皿からはみ出さんばかりの、巨大な骨付き肉のグリル。ハーブとスパイスの香りが、俺の空腹を容赦なく刺激する。


「……いただきます」


俺が、故郷の習慣でそう呟いて手を合わせると、シュタが「?」と不思議そうな顔をした。


「ああ、これはね。俺の故郷の習慣みたいなもんで、食事を作ってくれた人と、食材になってくれた命に、感謝を込めて言うんだ」

「へぇー、そうなんですか!素敵な習慣ですね!じゃあ、私も……いただきます!」


シュタはにこりと笑うと、真似をするように可愛らしく手を合わせた。

俺はまず、スープを一口。


「――ッ!?」


なんだ、これは。

口に入れた瞬間、様々な野菜の甘みと、肉の濃厚な旨味が、爆発するように広がった。それでいて、後味はハーブのおかげか驚くほどすっきりしている。一口、また一口と、レンゲが止まらない。スープが喉を通り、胃に落ちるたびに、体の芯からじわじわと温まり、凝り固まっていた疲労が溶けていくのがわかった。


次に、骨付き肉にかぶりつく。野生的な見た目とは裏腹に、その肉質は驚くほど柔らかい。歯を立てると、じゅわっと肉汁が溢れ出し、未知のスパイスがその旨味をさらに引き立てる。噛めば噛むほど、力強い生命力が、俺の体中に漲っていくような感覚だ。


(うまい……。うますぎる……!こんな美味いもの、生まれてこの方、食ったことがない!)


俺は我を忘れ、獣のように貪り食った。あっという間に皿は空になり、名残惜しさを感じながら、最後のパンをスープに浸して口に放り込む。


「……ごちそうさまでした」


満腹感と、今まで感じたことのないほどの幸福感。俺は、この宿を選んで本当に良かったと、心の底から思った。


部屋に戻り、満たされた腹をさすりながら、ふと、自分の体の変化に気づいた。疲労が完全に抜け、むしろ力がみなぎっている。気になってステータスを確認してみると、俺は自分の目を疑った。


Lv.1 HP58 MP88 魔力 58


(……は?HPとMP、魔力が、それぞれ30も上がってる!?)


食事をしただけで、ステータスが、これほどまでに。


(まさか……この宿の飯、とんでもないドーピング効果があるのか!?)


俺は、この『やすらぎ暴食亭』という宿と、シュタという少女が、ただ者ではないことを確信した。そして、このとんでもない幸運に、打ち震えるのだった。

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