陽が沈んでから程なくして、スエズに到着。メイミとエイトはレンタカーを営業所に返して、港に停泊しているノアザークに乗艦。メイミはエイトと別れ、居住区にある自室に帰った。
軍艦の居住用空間は限られており、基本的に個室は~長とつく役職の者だけで他は相部屋な中、人類の命運を背負った最重要人物であるメイミは貴賓室を個室として当てがわれている。
メイミは洗面所に向かい、顔を洗った。クレンジング材で化粧を落とし、化粧水、美容液、乳液を塗る……無心に作業を終えてから、ふと気づいた。
鏡に映る、ひどい顔。
いつから、こんなに。
部屋に入る前までは、ちゃんと笑顔を作っていたつもりだったけど。常に鏡を見ていたわけではないし、自信がなくなった。
「……ま、いいや」
服を脱ぎすて……着替えるのが面倒で、下着姿のままベッドに倒れこむ。電気を消して、枕の下に頭を埋める。ようやく楽な姿勢になると、長く大きな溜息が出た。
「はぁ~っ…………幻滅」
今の自分が始まった瞬間に胸に刻まれ、今日まで抱きつづけたエイトへの恋心が、冷めた。
振られてすぐに彼への執着が消えたので、届かぬ想いに涙することはなかったが。ただ自分を形作っていた大きな感情が抜けたことで、ぽっかり胸に穴が開いたような喪失感がある。
「君、きみ、キミって」
こちらが告白してから、エイトは何度も〖君〗と口にした。話している相手を差す二人称代名詞。だが実際に差していたのは【ミコト】だった。
思い出の中の、記憶を失くす前の自分。今の自分とは別人格の彼女のことを〖君〗と呼びやがった、あの男は。
「ワタシはミコトじゃない!」
それがメイミのアイデンティティー。人生経験がひと月にも満たないメイミには、自分が自分である拠り所がそれしかない。彼女と混同されるのは一番してほしくないこと。
そんな〖今の人格〗を尊重するのが艦の方針だと、艦長から通達されたはずだ。何千人もいる乗組員、中には守れない人がいても仕方ないとは思うが、よりによってエイトがそうだなんて。
ユウトは決して、そんな間違いは犯さなかったのに。
「しかも、ベラベラと」
自分は記憶を取り戻したくない。だから治療も受けない。思いだす要因になる、記憶を失くす前の自分に関する話は聞きたくない。その意思も伝え、全艦に通達されているのに。
エイトはユウトが語らなかったミコトとの思い出を、こちらに断りもなく話しだした。それは切ない話で、同情はした。だから怒らずに聞いた。
だが心は冷えきっていた。
己の悲しみに浸って、相手の地雷を踏んでいるとも気づかずに語りつづけるエイトに。その話を聞いても記憶は少しも戻らなかったのは不幸中の幸いだったが。
「でも、これで良かったのかも」
実のところ……OKをもらって交際したくて告白したわけではなかった。そんな先のことは考えていない衝動的な行動だった。
その衝動とは恋心ではなく。
精神の抑圧への反発だった。
ネフィリムの培養槽から出て、ユウトに迫られて、助けてくれたエイトに一目惚れして。運ばれた先のノアザークの医療区画で検査を受けて、記憶喪失と判明して、自分のことを聞かされて。
自分が結婚していて、しかも相手はエイトではなくユウトだと分かって、あの時は絶望した。ユウトを変質者と思ったのは誤解と分かっても、すぐには嫌悪感を拭えなかったから。
だが会ってみたら、ユウトはエイトとは対照的に冴えない感じではあるが、優しくて良い人で。苦手意識は薄れて、好きになっていった。
それが嫌だった。
この船に自分が彼の妻だったことを知らぬ者はいない。いくら記憶がないとはいえ、その自分が彼以外の男に恋したら誰だって『えぇ……』と思うだろう。自分も思う。
その恋が実って……たら、妻を寝取られたユウトがあまりに不憫で、そんなふうに彼を悲しませる自分を嫌な女と思うだろう。自分も思う。
だけど。
ユウトを好きになって元鞘に納まるなら八方、丸く収まる。それが一番で、そうなるべきで、だから自分は他の男に目移りせずに、ユウトだけ見ていればいい。
皆そう思ってる。
自分もそう思う。
それが嫌だった。
自分はメイミ。ミコトじゃない。誰を好きになろうが自由で、誰にも文句を言われる筋合いはない。ユウトだって過去を気にせず自由に生きていいと言ってくれた。
なのに、気にせずにはいられない。
ユウトを好きになるほど目に見えない強制力に従わされている気がした。そのやりどころのない怒りを、なにも悪くないユウトにぶつけてしまいそうで怖かった。
そんなことに悩まされながら、エイトとは話す機会もなくて〖エイトに恋する乙女〗としては少しも行動できてない。
そう行動するのはユウトに悪いが、そう思ってしまうことへの反感を支えに、やはり行動することにした。今にして思えば、欲求不満が爆発したのだと分かる。冷静ではなかった。
結果、このザマ。
エイトを想う心は砕け散って。
ユウトを想う心だけが残った。
もう強制とか気にせず、素直にユウトを好きだと思える。とんだ回り道だったが、ユウトだけを想うために必要な過程だった。そう思うと少し気が楽になった。
「ユウトさん……」
その名を口にすると胸がドキドキして、温かくなった。いつまでもエイトに怒っているより、ユウトのことを考えていたほうが心が休まる。
「好き……」
どうしようか。今すぐ彼の部屋に行って告白してしまおうか。いや、エイトとデートして帰ったばかりでは尻軽女と軽蔑を……いや、ユウトはミコトの二股を許し……ミコト……?
「あ、れ……?」
血の気が引いた。なんで、ユウトになら告白すれば成功すると思ったのだ。今の自分に興味がなく、昔の彼女のことしか見ていない。それはユウトも、エイトと同じはず。
違うのは、態度に出すか出さないかだけ。
エイトに自分を通りこして彼女を見ている姿を見せられ彼への気持ちは冷めたが、お陰でユウトの自分への接しかたが、どれだけ得難かったか分かった。
自分を前にして彼女を想わなかったはずがない。それでも一貫して、自分をメイミとして扱ってくれた。それが、ずっと嬉しかったんだ。そんなユウトだから、こんなにも愛おしいのに。
この想いは、届かない。
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