あんな傭兵など見たことも噂ですら聞いたことがなかったが、自分が知らないだけで名のある傭兵なのだろうか。それとも、もともとはどこかのお抱え騎士で傭兵となったのは最近のことなのか。
その男の周囲には自分のように傭兵仲間のような存在はなくて、男はただ一人で敵兵に剣を振るっているように見えた。
いずれにしても利用できるとイザークは瞬時に判断をした。
「おい、フスタフ!」
強面が揃う黒い羽の中で最も小柄で人当たりのよいフスタフの名をイザークは呼んだ。フスタフは返事をして、一瞬だけ背後のイザークに視線を送る。
「あそこの化け物と一緒に逃げるぞ。上手く交渉してこい。あいつと血路を斬り開く」
その言葉にフスタフは軽く頷くと、周囲の敵兵を牽制しながら長剣を振るうあの男に向けて駆けて行く。
交渉は上手くまとまったようだった。すぐにフスタフがあの男を連れて戻ってくる。
「隊長、グレイって名前だとよ。俺たちと同じで傭兵だが、一人で雇われていて仲間はいないらしい」
その言葉にイザークは無言で頷くとグレイと呼ばれた男に視線を向けた。改めて見ても大きな男だった。背もそうだが体全体に尋常ではない量の筋肉を纏っているのだろう。体全体の厚みが凄い。この体躯があるからこそ、あの見たこともないような大きな剣を振り回すことができるのだろう。
「俺はイザーク。小さいが傭兵団の隊長をやっている。この戦いはもう駄目だ。正規兵の奴らは俺らを囮にして逃げ出している。このままでは敵中に俺たちは孤立する」
グレイと呼ばれた男が頷くの見てイザークは更に言葉を続けた。
「俺と一緒に先頭で血路を斬り開いてくれ。俺とお前の背後はこいつらが守る。左にある森林に逃げ込めば何とかなるはずだ」
「他の奴らは?」
「どうせ寄せ集めの傭兵だ。自分たちで何とかするだろうよ」
冷たい言い方かもしれないが、他の奴のことなどは知ったことではない。もっと言えば、雇い主である王国の連中もそうだった。
傭兵として最も大事なことは、金を貰って後は死なないようにすることなのだから。
グレイは笑ったつもりなのか少しだけ唇の端を歪めたようだった。いや、それは皮肉の笑みだったのかもしれない。イザークは頭の隅でそんなことを思った。
しかし、皮肉だろうと何だろうと今はそんなことなどはどうでもよかった。包囲されてしまう前にここから抜け出すこと。それが最優先の事柄なのだ。この男にしてもそれは間違いないはずだった。
「行くぞ!」
決意を込めた声を発してイザークは長剣を片手に前へと足を踏み出したのだった。
まだ完全に包囲されてはいなかったものの、包囲しつつある敵陣を突破するのは容易ではなかった。戦いの前に北方の異民族は好戦的だと聞いていたのだったが、確かにその言葉通りなのかもしれない。
包囲を脱して逃げようとする傭兵たちを彼らは執拗に追いかけ攻め立てた。通常の戦場であれば、必死の反撃による被害も考えて逃げ出す兵などはあまり相手にしないものなのだ。
それを執拗に追い掛けるということは異民族の王国に対する恨みがよほど強いのだろうか。それとも、この戦いには異民族たちの中で期するところがあって、自分たちはたまたまその時に当たってしまったのか。
可能性としては後者に近いように思えた。もっとも、真実がどちらであったとしてもこの場では関係がなく、イザークたちは包囲を辛うじて抜けた後も執拗に追い立てられたのだった。
そのような執拗すぎる追撃戦の中、イザークたちは辛うじて追手を振り切れたようだった。森林の中で追手を振り切ったイザークたちは身を潜めて荒い息を整えていた。
「ドルチェ、怪我した奴は?」
イザークが副長のドルチェに尋ねる。
「バルテルが腕をやられた。死にはしねえが、剣は持てねえな」
ドルチェの言葉を聞いてイザークはバルテルに視線を向けた。今年、四十歳になるイザークの五つ下、三十五才になる男だった。
痛みからなのだろう。バルテルは髭面の顔を大きく歪めていた。その顔には脂汗が浮いているようだった。
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