逃げるといったところで、どこに逃げるというのか。逃げる場所などがあるはずもなかった。
訴えたところで、あの領主のことだ。その訴えが認められることなどは決してないだろう。
武器を持って立ち上がったとしても、制圧されるのは目に見えている。領主は兵を抱えていて、兵とは戦いの専門職なのだ。農民が武器を手にしたからといって、容易に立ち向かえる相手ではない。
同じように困窮に喘ぐ近隣の村々に声をかけて一斉に立ち上がることができれば、もしかすると数をもってして領主を打倒することが可能なのかもしれない。だがそうしてしまえば、きっと多くの者たちが傷つき死んでしまうことだろう。
更に領主を打倒した後はどうなるのか。王国が領主を殺した農民など許すはずがない。反乱として王国から多くの兵が派遣されることだろう。それら全てを農民でしかない自分たちが退けられるとは思えなかった。
結局、この冬以降に死ぬのか、今、死ぬのかの違いでしかないのかもしれない。だが、どちらにしても死んでしまうのであれば、ネイサンが言うようにこのまま緩やかに死んでいくよりも、少しの希望を求めて立ち上がるときなのかもしれないとも思う。
だけれども、そこまで簡単に割り切れることではないのも事実だった。それこそ、もしかすると来年は豊作となるのかもしれないのだ。そうなれば、村人たちの暮らしも少しは改善するはずなのだから。
難しい顔で黙りこくってしまう村人たちをネイサンは苛立ちを露わにした顔で見渡した。そして、口を開く。
「黙っていてもどうにもならないんだぞ。今、どうするかなんだ」
「ネイサン、お前の言っていることは分かる。だけれども皆だって、俺だってそんなことは急には決められない。生き死にの話なんだ。それにネイサン、お前自身はどうすればいいと思っているんだ?」
話の流れとネイサンの様子で彼が考えていることは訊くまでもなく分かってはいたが、シヴァルはそれを皆に知らしめるために敢えて口にした。
「……逃げる」
ネイサンは短くそれだけを言った。その言葉を聞いて車座になっている村人たち全てから、張りつめた糸のような緊張が発せられる。
「どこにだ。レズリーが言ったように老人や女子供だっているんだ。それとも、それをお前は見捨てるつもりなのか?」
シヴァルの反論にネイサンは苦しそうな顔をする。
「もちろん、連れて行ける者は連れて行く」
「馬鹿な……親や兄弟だぞ。それを見捨てる者もいるってことか? それで、どこに逃げるつもりだ」
「ルーサー侯だ……」
ネイサンが呟くようにぽつりと言う。
ルーサー侯。シヴァルもその名前は知っている。ここの領主と同様に小さな地域の領主だが、民に優しく善政がしかれているとの噂だった。
「ルーサー候……確かに慈悲深い領主だとの評判だ。だけれども、俺たちを快く受け入れてくれるかも分からないのに、その評判だけを頼るなんて無謀だ。ルーサー候が俺たちを受け入れてくれなかった時はどうするんだ」
シヴァルはそう口にしながらネイサンの顔を見る。ネイサンは口を真一文字に結んだままで答えようとはしなかった。ネイサンの返答を聞くまでもない。そこに明確な確信や保障があるはずもなかった。
そもそもネイサンだってあのように突き放すかのような言い方をしたくはないはずだった。だが、そうしなければ、村人全員が共倒れになるかもしれない。
ならば、自分はどうするのか。
シヴァルは自身に問いかけた。ネイサンが言うようにルーサー侯を頼って村から逃げ出すのか。
そう思うと同時にシヴァルの脳裏には年老いた両親の顔が浮かんだ。本格的な冬の訪れはまだ先だとはいえ、ルーサー候の領地まで二か月以上はかかるはずの長旅に年老いた両親が耐えられるはずはなかった。
「俺は駄目だ……両親を置いていくことなんてできやしない。だけど、ネイサンの言い分も分かる。間違ってはいないとも思う。だから、ネイサンと行きたい者は行けばいい。このまま村にいるよりも、生きられる可能性は高いのかもしれない」
自分の言葉にネイサンが息を飲む気配をシヴァルは感じた。もしかすると、自分はついて来るものだとネイサンは考えていたのかもしれないとシヴァルは思う。
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