「ミラーナ様、いい加減にもう起きて下さい」
何度目の呼びかけだっただろうか。流石にうるさくなってきた。ミラーナは嫌々ながらも目を開けて、寝台の上で上半身を起こした。毎朝のことなのだが、どうしても朝の目覚めだけは不機嫌になってしまう。
寝惚け眼で金色の髪をミラーナが掻き回していると、ミラーナを起こした張本人のミアが寝台の上に腰を下ろした。
「ミラーナ様、朝食の準備はとっくにできているんですよ」
「うん……」
ミラーナが不明瞭な返答を返すと、ミアが両手を伸ばして両側からミラーナの頬を挟む。
「ほら、しゃきっとして下さい。これからは一人で起きなくてはいけないんですよ。大丈夫なのですか?」
やれやれ、この八年の間に随分と生意気な口をきくようになったものだとミラーナは思う。大体、ミアと一緒に暮らす前は千年以上も一人で暮らしてきたのだ。だから大丈夫に決まっている。
ミラーナは自分の頬を両手で挟んで、頬をむにむにしているミアの手から逃れて食卓に向かう。
ミアが言うように食卓には既に朝食が並べられていた。少しだけ冷めてしまったかもしれない。
いつものことだと言えばいつものことなのだが、作ってくれた朝食を冷ましてしまったことで少しだけミラーナは申し訳ない気持ちになる。
「ねえ、本当に旅立つのかい?」
ミラーナに続いて食卓を挟んで正面に座ったミアにミラーナは口を開いた。そう訊きながら、今更なのだがと自分でも思ったりもする。ミアが旅立つのは明日なのだから。
「私ももう十六歳ですからね。色々と見聞を広めたいですし、きっと自立するにはいい頃合いですよ」
ミラーナとしてはまだ十六歳じゃないかと思わなくもないが、自分たちと同じ時の感覚で人族の彼女を語ってはいけないことも分かっていた。何せ自分たちは数千年を生きてしまうのだから。
「そんな顔をしないで下さい。悲しくなるじゃないですか」
「そんな顔などはしていないさ」
反射的にそうは言ったものの、自分はどのような顔をしていたのだろうかとミラーナは思う。
「永遠の別れになるわけじゃないんですよ」
「それは知っている」
これもミラーナは反射的にそう言った。そして、手にしていた箸で食卓の上にある目玉焼きの黄身を突っついてみる。
「ただ、心配なんだ。人族の世界はお世辞にも平穏とは言えないからね。悪く言えば、悪意で満ちているんだ。そこに世間知らずで、身を守る術もないミアが行くなんて……」
その言葉に反論する甲高い声があった。その声は低い位置。限りなく床の方から聞こえてきた。
「心配するな、耳長。ミアには、おいらがいるのだからな!」
ミラーナは声がした床に青色の瞳を向けた。そこには濃い緑色をした熊のぬいぐるみが、腰に手をあてて二本足で立っている。ミラーナはあからさまな溜息をついてみせた。
「ぬいぐるみ、貴様の創造主に向かって気安く耳長などと言うな。名づけ方がどこぞの種族と同じではないか。そのような奴に安心しろと言われても、安心などできるものか」
「うるさい、耳長。耳が長いから耳長なのだ。耳長こそおいらをぬいぐるみと呼ぶな。失礼だぞ。おいらにはミアから貰った抹茶という名前があるんだ」
自身の失礼な言葉などは意に介さずに、抹茶はそう言って軽く体を逸らした。胸を張っているつもりなのだろうか。その様子を見てミラーナは再び軽く溜息をつく。
ミアの話し相手、そしてお守りとしてこのぬいぐるみを生み出したのはいいが、創造主に対するこの口の利き方は何とかならないものだろうかとミラーナはいつも思う。
もっとも、この抹茶が四六時中ミアについているのであれば、不測の事態が起こる心配などはいらないのだが。
「おいらの魔法は強力だからな。ミアを守ることなんて簡単だ」
その強力な魔法を授けたのは誰なのだとも思ったが、また妙な理屈を振り回されるのだろうから面倒になってそれは言わないでおくことにする。
「抹茶がいてくれるので私は安心です。一度、父上と母上の国に行ってみたいのです。父上が何を守ろうと思ったのか。娘としてそれを見てみたいのです。そして、父上と長く旅をしたところも見て回りたい」
その話は何度も聞いたとミラーナは思う。それこそミアと暮らし始めてからすぐにミアはそのことを口にし始めたような気がする。
「父様か……」
「はい、父様です」
頷くミアの明るい空色の瞳。その中からミアの思いを読み取ろうとしたが、上手くいかなかった。いずれにしても、その言葉に嘘などはないということなのだろう。
「両親の国とはいっても最早、跡形もないはずだぞ。もう二百年近くも前の話なのだからな。人族の移り変わりは早い」
「そうでしょうね。それでも名残りはあるはずですから……」
この話も何度となくしたはずだった。ミラーナは再び溜息をつく。
「分かった。もう何も言わないよ。人族のミアが人族の世界を見たいというのは当然だろうからね。私はミアの帰りをここで待つよ。何、人族の数年などは、私にとっては一瞬だ」
そう言って同意をしたミラーナにミアは優しく微笑んでみせたのだった。
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