――ジリリリリッ
朝、十時半。
狭いアパートの一室に、騒々しい電子音が響き渡る。
「んぁ……?」
寝ぼけておかしな声を出したのは、その寝床の主(あるじ)だ。
薄らとしか開かないまぶたの隙間からその電子音の出所を探す。
何度か布団を叩くように手を彷徨わせ、ようやく見つけたそれを操作すると、部屋には再び静寂が訪れた。
「んーっ……、と。ふぅ」
それから体を起こしたその若者は、大きくのびをして、溜め息を吐く。
若者は先ほどまで五月蝿く喚いていた小さな画面を見て時間を確認すると、億劫そうに布団から這い出し、それからゆっくりと立ち上がった。
はだけた寝間着代わりの肌着を直して、洗面所へ向かう。一度、名残惜しそうに布団を振り返ったが、間もなく授業が始まってしまうと思い直して歩みを進めた。
歯ブラシを濡らし、歯磨き粉をつけ、口に含む。
そうして歯を磨きながら、机の上に置いたままにしてあるパソコンを起動した。
――メールは、この後の授業の連絡だけか。
まだボンヤリしているらしい頭でそれだけ確認すると、授業で使っている通話アプリへとカーソルを合わせる。
若者の視線が画面の右下にある時刻表示を向いた。
十時三十五分。始業五分前だった。
『――then, it is ……』
十二時。
パソコンから大学の教授が読み上げる英文が聞こえるなか、若者は冷蔵庫を開ける。
「タマネギと、ベーコンがあるのか……」
それから一つ頷くと、いくつかの材料を手に取って冷蔵庫の扉を閉めた。
若者はS字フックで壁にぶら下げてあったまな板を取り、蛇口のレバーを倒す。まな板に水の当たる音が、一瞬授業の声をかき消した。
水気を拭き取られたまな板に並べられるのは、大きなタマネギに、厚みのあるベーコン。
慣れた手つきでタマネギの茶色くなった葉が剥かれると、真っ白な葉が現われた。その新鮮さを表すように、艶やかに光りを反射している。
シンクの下の扉を開いて取り出されたのは、よく手入れされた包丁だ。
若者は左手でタマネギを抑え、その中心に包丁の刃を当てる。そして前に向かって押した。
サクっと音を立て、タマネギが割れる。同時に、辺りに甘い香りが漂った。
「あっ……」
しまった、とばかりに顔を歪めたのは、一玉丸々使うつもりがなかったことを思い出したからだろう。若者はタマネギを切った体勢のまま、一瞬動きを止める。
それから少し考え、まあいいかと呟いてからラップを取り出してタマネギの半分を包んだ。
ラップに包んだ半分をまな板の脇に置いた若者は、改めて包丁を握る。
サクッサクッ、とタマネギをクシ切りにする音の後ろでは、教授が読み上げた英文の解説をしている。
タマネギを切り終えた。包丁を置き、二つ並んだガスコンロの右手側のスイッチを押す。
置きっぱなしにしてあったフライパンの下でチッチッチッチ、と火花が散り、青い炎が着いた。ガスの臭いが辺りに漂う。
若者がバターを手に取り、包丁で一欠片を切り出してフライパンに入れると、バターはゆっくりと溶けていく。
溶けたバターは手首でくるりと回されたフライパンの面に従って、薄く伸びる。そこへ落ちていく白は、ついさっき切ったタマネギだ。
軽くフライパンが振るわれ、タマネギの表面を先ほどまでとは違った光沢が覆う。
若者がつまみを操作すると、火が弱まった。
『あー、じゃあ、誰かにサマリーの穴埋めを解答して貰います。そうだな……』
若者の耳にそんな声が届いた。
急いで手首を返してタマネギを混ぜ、パソコンの前に移動する。
『岸田さん、いますか?』
若者は自分の名前では無い、別の人の名前が呼ばれた事に安堵して、再びフライパンの下へ向かった。
ジュー、という音が大きくなり、タマネギの甘い匂いが強くなっている。
若者もそれに気づいて、足を速めた。
『なんだ、いないのか? じゃあ、――』
続く名前を聞いた瞬間、ドタドタと音を立て、飛び跳ねるように火の前へ向かった若者は、急いでフライパンを返して回れ右をした。
『……はぁ、もうい――』
「ああ、はい、います。いますよ!」
教科書をめくりながら答える。
『っと、なら、サマリーを全文読み上げてください』
「はい。The resurch――」
全文読み終わり、間違いが無いことを確認すると、若者はほぅ、と溜め息を吐く。
それからマイクをミュートに入れ直して、急いでコンロの下へ向かった。
部屋は既に、タマネギとバターの甘い香りで満たされており、料理人のおなかをグルグルと鳴らす。
当然、本人にもその音は届いた。おなかに手を当て、軽くさすっている。
若者は気を取り直すようにして包丁を手に取り、ベーコンを包むビニールを切り開いた。
その内から取り出した取り出したブロックは、拳ほどの大きさ。それに包丁の手元側を当て、後ろに引いて切り分けていく。
厚さは、二センチ弱。
タマネギをフライパンの片側に寄せてスペースを作り、ベーコンを並べていくと、直ぐ肉の焼ける芳ばしい臭いがしてきた。
ますます大きくなるお腹の音を無視して塩胡椒をふる。
「ああ、これしまわなきゃ」
そう言って掴んだのはタマネギの残りだった。
冷蔵庫の扉を閉めると、コンロのつまみに手をかける。
コンロから噴き出すガスの音が大きくなった。
同時に、脂の弾ける音も。
菜箸を使ってタマネギを混ぜ、ベーコンを裏返していく。
ベーコンにはしっかり焼き目がついており、脂が溶け出しているのがよく分かる。
更に何度かタマネギをかき混ぜてから、もう一度弱火に戻した。
電気ポットに四分の一ほど水を入れ、電源を入れる。
すると直ぐに、電気ポットからジュオーという音が聞こえてきた。
「ふふんふん、ふんふふんふ~」
若者は鼻歌を歌いながら、手首を使ってフライパンを返す。
そして胡椒とオリーブスパイスを追加で振って、また、何度かフライパンを返す。
ベーコンの脂と、タマネギの甘い香りに、少しだけ刺激が混ざった。
一人前の乾燥パスタを用意して、焦がさないように時折フライパンを返して混ぜていると、カチリッ、という音が聞こえた。どうやらお湯が沸いたらしい。
長方形のプラスチック容器にお湯を注ぎ、パスタを入れて、塩を振る。
蓋をしたら電子レンジに入れて、六百ワット、六分。
「そろそろいっかな」
若者はコンロの下の扉を開けて、遮光のために暗い色をつけられた透明のボトルを取り出した。
その濃い緑色の蓋を逆の手で開け、フライパンの中に注ぐ。
オリーブ特有の爽やかな香りが鼻腔に広がった。
タマネギとベーコンを避け、チューブから溜まったオリーブオイルの中へ落としたのは、摺り下ろしたニンニクだ。その臭いが、更に食欲を刺激する。
菜箸でオイルに溶かし、フライパンをふるって具に絡ませた。
そこへ更に、赤唐辛子を丸ごと落とす。
バチバチとオイルが音を立て、真っ赤な鷹の爪が踊る。
タマネギがすっかり飴色になった頃、電子レンジが甲高い電子音を立てた。
電子レンジの扉を開け、パスタの入った容器を取り出す。
「あっつ!?」
蓋を開けると、蒸気が立ち上った。若者が投げ出した容器の蓋が、シンクに落ちて大きな音を立てる。
若者は片手をぶらぶらと振って冷ましながらパスタを軽く混ぜ、残ったゆで汁毎フライパンに流し込んだ。
フライパンが揺すられるたびにパスタは光沢を増していく。
パスタにしっかりオイルが絡まったところで火が止められた。
真っ白な平皿に、つやつやと輝く薄黄色のパスタが盛り付けられる。
皿を回しながら、円を描いて、高く。
そこにしんなりした飴色のタマネギを散らし、こんがり焼けたベーコンを並べて、頂上に鷹の爪を飾り付けたら、完成だ。
「よっし。いい感じ!」
スマホを取り出してパシャリとシャッターをきったのは、SNSに載せるためか。
そのシャッター音が一度しか鳴らなかったのは、若者自身、目の前のペペロンチーノが放つ、暴力的な誘惑に耐えきれなくなったからだろう。授業の声は、既に聞こえない。
食欲を誘うニンニクの香りが脳を揺さぶり、タマネギとベーコンの香りが心を蕩けさせる。そこに薄ら混じったカプサイシンの刺激は、自制心というものを完全に破壊してしまうようだ。
「それじゃあ、いただきますっ!」
手を合わせる暇すら厭い、感謝の言葉を口にしながらフォークを突き刺す。
まず若者が頬張ったのは、厚めに切ったベーコン。口に入れる前から臭いで主張するその旨味と脂は、噛むほどに口内を蹂躙した。
「ん~!」
そして直ぐに次を求める。
くるくると器用にパスタを巻いて、巻き込まれたしなしなのタマネギと一緒に口へ入れる。まず感じるのは、タマネギの濃厚な甘み。続いて唐辛子の辛みが舌を刺激し、ニンニクとオリーブオイルの香りが鼻へと抜ける。
それが過ぎると、パスタのデンプンが分解され、優しい甘みが口の中に広がった。
次は、タマネギごとパスタを巻いた上からベーコンにフォークを突き立てて食べる。
タマネギの甘みにベーコンの甘味が加わり、より複雑に、より深く若者の舌を刺激した。
パスタの甘みが来る頃になってもベーコンの旨味は消えない。その優しい甘さの中に、力強さを加えて、なおも若者を幸福へと誘う。
止まらない。
若者は一心不乱にパスタを口へと運び続ける。
だんだんと感じる辛さは強まるが、タマネギの甘みで中和されて、苦にはならない。なるはずが無い。寧ろ若い食欲を刺激して、更に手が早まる。
気がつけば、皿の上にあるパスタは一口分。
最後の一口を若干名残惜しそうに口へ入れ、ベーコンの最後の一欠片で追い打ちして若者はフォークを置いた。
「ごちそうさまでした」
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