The Manuel Ⅲ
《目次》
13. Group EmmaとALPHABETに見る『運と実力の無慈悲』
Group Emma(ここでは日本支部を指す)とALPHABETには、勝負における運と実力の無慈悲さを取り入れました。
Group Emma→運
ALPHABET→実力
です。
ALPHABETは暗殺のプロ集団。生半可な戦力では太刀打ちできません。
個々の戦闘力においては、ビットを除き、Group Emmaなど相手にもなりません。
なのに、ALPHABETは三度もGroup Emmaに敗れました。しかも、相手はあのポンコツコンビのプラムとアロー。
そりゃあ、主人公に近い存在のプラムたちが勝つに決まってる!
……これは否定できません。
実際、プラムとアローは奇跡的な確率を引き当て、絶体絶命のピンチを潜り抜けています。
なんだ! 結局ご都合主義じゃん!
………いいえ。これはハッキリと否定できます。その理由とは?
そう。運です。
運がプラムとアローに微笑んだ結果なのです。
詳細は省きますが、プラムとアローは実力を最大限活かして敵に挑みました。それに加えて、運にも恵まれていた。だから、実力こそ全てのALPHABETに勝つことができたのです。
実力で勝る者が必ず勝つほど、この世は甘くない。
時に、説明のつかない奇妙な力が働いて、その場の勝負を決することさえある。
実力のある者でも負けてしまうことがあるという、この世の無情を示しています。
少し分かりづらいかもしれません。
なので、レベルの概念が採用されている世界観の作品と比べてみましょう。
レベル10の魔物に対して、主人公は未だレベル5。これでは勝てない……という展開があるとします。強さが数値化されていて分かりやすい。いいシステムです。
しかし。仮に、勇者がレベル100になったとして、レベル100以下の魔物に必ず勝つ保証はあるのか? 相手よりレベルが高ければ必ず勝つのか? 相手よりレベルが低ければ必ず負けるのか?
違うはずです。
勝負は何が起こるか分からない。レベルが高い方が必ず勝つ設定こそ、ご都合主義だと個人的に考えます。
トゲがある言い方になってしまいましたが、私はご都合主義が苦手なのです。
14. カルト教団=インターネットの住民+自称運動家
作中で突然、カルト教団が現れたのを覚えていますでしょうか。
儀式の最中にも関わらず、何の遠慮も無しにランエボとFDに蹴散らされてしまった、あの可哀想なカルト教団です。
カルト教団の正体は、前回連載していた『Where Are You』という作品に登場する、川村京子という女の子が所属していた、超少数派宗教団体です。
本作に出したきっかけは単純です。
・舞台が同じ現代世界だったから。
・ベルさん率いるGroup Emma日本支部にメチャクチャ睨まれてる設定にしたら面白そうだと思ったから。
・個人的に嫌いなので、プラムとBにボコボコにして欲しかったから。
うむ。大人気ない(汗)
さて、本題に移りましょう。
このカルト教団。ただ嫌いだからという理由で他作品から引っ張ってきたわけではありません。
見出しにもある通り、このカルト教団にはインターネットの住民+自称運動家の要素を入れました。
インターネットの普及により、現代は急速に情報社会へと姿を変えました。
政治、経済、戦争、環境、文化……かわいい動物の映像から、芸能人のどうでもいいつぶやきに至るまで、ありとあらゆる情報が、たった数秒で世界中に拡散される時代です。とても便利ですよね。世界中の活動範囲が格段に広がった素晴らしい時代です。
しかし、それと同時に、個人の視野が狭まったのも否めません。
インターネットはさまざまな情報で溢れかえっていますが、それが真実である保証はどこにもありません。
加えて、人間という生き物は、
「信じたい事柄を優先して信じようとする」
「一度信じた事柄が嘘だとしても信じ続ける」
「自分に都合のいい情報だけ集めようとする」
……傾向にあります。
意外かもしれませんが、人間は閉鎖的な思考の持ち主なのです。
インターネットが普及し、さらに個性と多様性の尊重が騒がれる今、自身の世界観に溺れる人々が増えてきました。
動画の切り抜きだけを見て「あの人が悪い、この人が可哀想」といった具合に、実際に見たわけでも触れたわけでもないのに「いま、この国は駄目だ」「あの団体の活動は許せない」と断定してしまう。
誰もが指先で『正義』を叫べるようになった現代、液晶画面越しでしか見ていない世界を、まるごと理解した気になっている人が増えてしまったのでしょうね。
だから自称運動家がコバエのように増える。
道路を塞いでCO2削減?
美術品にスープをかけて食料への訴えを示す?
可哀想だから熊を撃つな?
……バカバカしい。ため息が出ます。
叫ぶことしか能がない自称運動家より、タバコの吸い殻を拾って近くのゴミ箱に捨てる高校生とか、海岸のゴミ拾いをするボランティアの方がよっぽど世界が観えていますし、信頼できます。
名も無き彼らと、各分野の問題提起を武器に名声を得ようとする自称運動家。天地の差がありますね。
世界のあらゆる問題に関心を持つことはいいことなんですけどね。
インターネットの住民や自称運動家は、匿名で安全な場所から騒いでいるだけ。翔斗と同じです。自分は何も捨て切れていないのに、まさか他人に「ゴミを捨てろ」と言うつもりか?
そんなお馬鹿さんたちは一度、名前を捨てて戦うプラムのランエボと、BのFDに跳ね飛ばされでもして、目を醒まして欲しいものです。
……彼らとカルト教団には、世間を拒絶した閉鎖的な思想を持っているという共通点がある。
というわけで、カルト教団には星になってもらいました笑
15. プラムがBに勝てたのは運のお陰ではない
あれ? さっき、運と実力の話してたよね?
なんでまたこの話? しかも、さっきは運が良いとか言っていたのに、ここでは運のお陰ではないって……ドユコト?
しかも、なんでBなの? 普通、ラスボス的な立ち位置にいるAに持ってくる要素じゃない?
……これを説明するには、かなりメタな言い方をしなければなりません。
実は本作。プラム vs Bで終了する予定だったのです。
当初の私は「Aは出さない!」「エマさんも出さない!」と、意気込んでいました。何故かと言いますと……
この作品を読み終えた読者様が……
「あのキャラクター、最後まで登場しなかったけど、結局何者だったんだろうな」
……って思ってもらえる自称小説家こそカッコいい!! こんなにイケてることは他にない!!
……と勘違いしていたからです。
なので、本当にこれで終わろうとしていたのです(今考えると自分がバカすぎる)。
もちろん、最初から「運と実力って無慈悲だよね」という要素は入れていたし、ここで終わってもいいかなとは思っていました。
けど、直前になって投稿を思いとどまります。
理由は簡単。
オチがない!!!
何度も読み返していてやっと気づいたのです。
え? 何、この物語。オチはどこ? っていうか、結局何が言いたいの? バカじゃないのッ?!
……と。
逆◯のシャアじゃないんだから……オチがないのは流石にまずいと焦った結果、本作は『打ち上げロケット発射阻止』までストーリーが延びているのです。
……というわけで、当初の名残により、本作のピークはプラム vs B戦にあるのです。だから、この話題の主役はAではなくBなのです。
長くなりましたが、本題です。
プラムとアローがALPHABETに勝てたのは、運によるところが大きいという話をしました。
実力のある者でも負けてしまうことがあるという、この世界の無情を示している。
これは事実です。
しかし、対B戦だけは違います。この時だけ、プラムは運で勝っていないのです。
翔斗の身柄を引き渡す際、Bの襲撃によりアローが負傷。戦闘不能に陥ります。ビルの爆破時間が迫っていたので、プラムはアローをランエボで退避させました。
よって、プラムはBを相手に、ひとりで翔斗を守りながら、尚且つ逃さなければならないという圧倒的に不利な状況に置かれます。それにも関わらず、結果はプラムの勝利。
一体、何が勝敗を分けたのか?
これは、決着のシーンを振り返ると簡単に分かります。
Bに圧倒されたプラムは、負傷した身体を引きずって、BをT字路の廊下におびき寄せます。
おびき寄せた方法は、アローから嫌々貰っていたデコイボイス。臨場感たっぷりの音声を5分間流してくれる、情けない道具です。
このデコイボイスの臨場感たっぷりの情けない音声を聞いたBは、まんまとT字路廊下の突き当たり……その左右どちらかにプラムがいることを確信します。
はい、ここ! ここですでに決着はついています!
どういうことかと言いますと……。
この瞬間、Bは「この廊下の突き当たり……その左右どちらかにプラムがいる」と思い込んでしまったのです。
そう、この勝負。実は、Bこそが運に身を委ねてしまったのです。無意識にですけどね。
逆に言えばこの勝負は、実力では敵わない相手に対して、決着の場を実力がほぼ影響しなくなる運勝負という場に持ち込んだプラムの実力勝ちということなります。
あれ? なんだかおかしくないか?
なんでプラムばっかり運が良くて、Bは運が悪いの? そんなの変でしょ!
分かります。確かに、プラムたちばっかり運が良く見えるんですよね。これにも理由があります。
それは、プラムやアローは、信仰心を持っていないからです。運などハナから信じていないのです。
だから、最初から最後まで自分の実力を信用して駆使する。その上で「勝つ時は勝つ」「死ぬ時は死ぬ」という、シンプルな構造の思考なのです。
最初から運頼みの人よりも、最後まで諦めず、自分の持てる力を駆使し続ける人にこそ、土壇場で運が味方するのです。
そしてそれは、Bも同様です。彼も、最後まで実力を駆使して戦う側の人間でした。なのに何故、無意識のうちに運頼みになってしまったのか。
それは、Bが復讐心に囚われ、理性を半分失ってしまったからなんです。
作中で、BとCが恋仲だったことが、バーテンダーとの会話で明らかになっています。殺されてしまった恋人。相手はどこの馬の骨かも分からないポンコツコンビ。
ここで、Bは戦闘における不要な感情『憎悪と怨恨』が芽生えてしまうのです。
彼は『任務の遂行』という意識を、わずかに『Cの仇討ち』に割いてしまった。
「お前みたいな運だけの奴に、私の恋人は殺されたというのか!」
と、感情的になってしまったB。
この隙をプラムに突かれ、最後は敗北してしまったのです。
16. 必死に『豊かさ』にしがみつく大人たち
『豊かさ』とは何でしょうか。
・満ち足りて不足がないさま
・経済的に恵まれ、ゆとりのあるさま
・心や態度に余裕があるさま
などなど、ほかにも多岐にわたる意味合いを持つことから、人によって、または環境によって『豊かさ』というワードは定義が違ってきます。
人が豊かである時はどんな時でしょう。
ご飯を食べる時? 給与をもらう時? 欲しい物が手に入った時? 家族や友人と時間を共にする時?
どれも『豊か』と言えます。
どうやら『豊かさ』とは、あらゆる手段で生へのよろこびを感じることのようです。
さて、Group Emmaの構成員に視点を移しましょう。
彼らは、表向きは民間企業という化けの皮を被っています。その裏で民衆に見えぬよう、国家権力から睨まれぬように、地道な裏仕事を行っています。
裏仕事の内容も、とても褒められたものではない。ポンコツコンビとして雑務をやらされているプラムとアローでさえ、何人か始末している。
作中には滅多に登場しませんが、諜報課や実行部隊などは、プラムやアローの仕事の数十倍の危険を有しながら、敵地に潜り込んでいます。
彼らは皆、著しく豊かさに欠けているのです。
無法行為が当たり前の世界で、豊かさを求めることの方がおかしい気もします。「自分を捨てておいて、それは贅沢だよ」と。
正論ですね。そして、そのことは本人たちが最もよく理解しています。
しかし、彼らもまた人間。神ではなく、我々と同じ姿をした生き物です。所詮、欲求には逆らえないのです。
その上で、表社会の人々よりも遥かに危険な日々を送っている。人一倍『豊かさ』に貪欲になるのも頷けます。
しかし、彼らの日常で『豊かさ』が自然発生することはない。
なら、どうするか。
実は、我々と何も変わりません。
ベルは読書や骨董品集めに熱中し、ビットは掃除に精を出す。プラムはランエボの運転に没頭し、アローはたくさんおしゃべりをする。
一般の表社会に生きる我々と変わりない手段で、彼らは『豊かさ』を感じています。
最大の違いは、豊かになることへの貪欲さ。
表社会に生きる我々は、生きているだけで充分に生へのよろこびを感じる機会があります。
しかし、裏社会に生きる彼らは常に危険です。その環境下で、いつか自分が崩れてしまいそうになる。自分という存在が、まるでロボットや将棋の駒のように思えてきてしまう。
だからこそ、趣味やルーティンを作って、言わば人工的に『豊かさ』を感じようとするのです。
すべては、自分がひとりの人間であるということを、忘れないために。
本日はここまでです。
The Manuelも、あと少しで終わりです。
終わったら、何をしようかな。
と、先を考えてしまうところが私の未熟なところですね。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!