しんと静寂が包み込む夜。背の高い街路灯の頼りない光に群がる虫。雲の隙間からこちらを覗く月。生暖かい風が草を揺らし、さわさわと音を立てている。山道の脇、広めの路肩に車を停めたプラムは、この暗闇で車中泊をすると、アローと翔斗に告げた。時折通る車を横目に、3人はカップ麺を食べていた。
「ん〜! おいしッ! 久々にキャンプみたいで楽しいわねぇ〜!」
カップうどんの麺をすするアローの笑顔は、暗闇でよく見えない。翔斗は、夕方に見た死体の山を思い出し、麺がなかなか喉を通らずにいた。
「どーしたの翔斗くん。ちゃんと食べとかないと、いざって時に力出ないわよ〜?」
「う、うん……」
正気か、この人……。あんな死体の山を前にして……。
そのすぐ隣で、うどんを完食したプラムはカラになったカップをゴミ袋に入れると、アローに目配せをした。アローがウィンクをしたのを確認すると、プラムは静かに立ち上がり、ランサーエボリューション7の運転席に戻って行った。ちょうどカップ麺を食べ終わったアローが、プラムの置いていったゴミ袋にゴミを捨てると、その場であぐらをかいて座り直した。
「はぁ〜! 食べた食べたぁー!」
アローは、雲の隙間から覗く月を見ながら、なかなかカップ麺を食べ終わらない翔斗に語りかけた。
「翔斗くーん」
「……ん?」
「ちょっと話しとかないとイケないことがあってさ〜」
1台、また1台と、車が通り過ぎていく。月を見上げるアロー。暗闇に目が慣れた翔斗からは、彼女の笑顔が少し、歪んでいるように見えた。
「………なんですか?」
「翔斗くんのさ、おとーさんいるじゃん?」
「……はい」
「彼さぁー、君のこと売っちゃったのよ〜」
「…………」
手のひらから、指先にかけて力が抜けていく。持っていた割り箸が、鉄塊のように重くなった。アローは、いつもと変わらぬ口調で続けた。
「ってことで君は、児童養護施設に引き渡されることになりました〜! パチパチパチィ〜!」
にっこりと笑い、嬉しそうに拍手をするアロー。祝福のムード。翔斗は、まるで乗り気になれなかった。
「そう……ですか」
アローは説明を続けた。翔斗の父である黒川一博は、日本民栄党の派閥抗争で敵対していた白山団次郎を裏工作で殺害し、党首に上り詰める。しかし、これに激怒した白山派が世界的暗殺組織『ALPHABET』に黒川翔斗の暗殺を依頼し、黒川一博の政治活動の妨害に入る。
対抗策として、一博は『Group Emma』に息子である翔斗の護衛を依頼する。その中で、ALPHABETを管轄する『39委員会』という巨大組織の存在を知り、提携・後ろ盾とすることで自身の地位確立に目が眩んでしまう。結果、彼はGroup Emmaと翔斗を裏切った……というのだ。
「意外に驚かないのね」
「……別に、父なんて尊敬してませんし。命を狙われるようになってから、何が起きてもおかしくないとは思ってましたし」
「え〜! 気にならないのー? おとーさんはどうなるんですか、とか〜!」
「……別に。これで父が殺されても何とも思わないし、おかしくもないです」
「いい心掛けじゃーん!」
笑いながら、翔斗の肩をパシパシと叩くアロー。翔斗は父のことなど、もうどうでもよかった。それよりも、ただひとつ。どうしても引っかかっていた。
「あの……」
「ん? なにー?」
「僕は、養護施設に入るんですか?」
「そうよー!」
「………いつからですか?」
「明日よー」
「え…………」
「急でホントごめんね〜。ベル姉からの通達でさ〜。なんか困るの?」
「僕の警護の契約期間は3週間じゃないんですか? あと1週間以上残ってるのに……」
「あーソレはねぇ。君のおとーさんが裏切ったから、自動的に契約破棄されたことになっちゃったのよ。つまり今現在、翔斗くんは私たちの警護対象でも何でもないのよね〜」
そんな…………。
翔斗の胸の奥から、言葉にはできない、何か重いものが込み上げてくる。
「あの………」
「もう、会えないんですか?」
「そうよ〜! 多分もう二度と会わないわね〜」
にこにこと笑うアロー。翔斗は食べかけのカップ麺をアスファルトの地面にそっと置くと、その場で体操座りをして、わずかに俯いた。草木の中から聞こえてくる虫の声が、やけに大きく、翔斗の耳を覆っていく。暗闇の中。見えるものなどほとんどない。なのに、目を瞑ってしまいそうになる。街路灯に照らされた地面でさえ、視界に受け入れたくなかった。
「お別れ、なんですか……」
「そうよ〜! よかったわね! あたしらみたいな連中と、やっとオサラバできるのよー?」
ぼそり。翔斗が、何か呟いた。
「ん? 何か言った?」
「まだ……何もお礼してない」
「いらないわよー」
「でも……」
「んー、じゃあ気持ちだけ貰っとくわねー」
……………。
もう、これ以上は話せない。これ以上は、言葉より先に溢れてしまいそう。出会った時は、本当に嫌だった。父に頼まれて、自分を守りにきた女の人たち。ひとりは明るい笑顔で社交的。ひとりは常に眠たそうで無口。クールな人たちなのかと思っていたら、意外とポンコツで、上司っぽい人に電話越しで怒られてて、余計に騒ぎを大きくして……。憎くて、怖くて、情けなくて。嫌で嫌で仕方がなかったのに。人間味のあるふたりの姿に、今では親近感さえ抱いている。
もう、会えない……か。
翔斗はカップ麺を全て食べ尽くすと、ゴミ袋にカップを捨て、立ち上がった。
「……寝るね」
「うん! おやすみー!」
翔斗はランエボのドアを開けると、乗り込む寸前で動きを止めた。
「アローさん」
「ん?」
スマートフォンをモバイルバッテリーに接続していたアローが、翔斗の方を向いた。暗闇に浮かぶ彼女の顔は、穏やかな女性であった。
「……またね……明日」
「ん? うん!」
そのままランエボの後部座席に乗り込み、ドアが閉まる。アローは、にこりと微笑んだ。
ま、君が行く養護施設は、Group Emmaの管理施設なんだけどね〜。
横になる。車内では、珍しくプラムが助手席にいて、シートを最大まで倒して寝転がっていた。後部座席に横たわった翔斗のことなど気にする様子もなく、スマートフォンに有線のイヤホンを接続して、車のレース動画を黙々と見続けている。
…………。この人たちにとって、出会いとか、別れとか。そういうものは、まったく大きなイベントではないんだな……。仕事だから、たまたま出会って、仕事だから当たり前のように別れる。僕だけじゃない。今までもずっとそうやって、望んだわけでもない出会いと別れを繰り返してきたんだ。プラムさんも、アローさんも……。いや、この世で働く全ての人が、きっとそうなんだ。
寝そべったままの翔斗の喉、鼻の奥に、ツンという痛みがのぼる。ランエボの天井。暗闇の中だというのに、潤んで歪む景色がはっきりと見えた。
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