赤信号。停止線の直前で車を停めて、我慢していたあくびを思う存分に味わう。眠気は体にぶら下げたまま。ぽわぽわとした、シャボン玉のようなものが複数、頭の中を漂っている。まぶたはまるで、壊れた自動式シャッターのよう。勝手に降りてきては、降り注ぐ太陽光を遮断しようとする。抑えなければ。気をつけなければ、今にも閉じてしまいそうだ。
やがて、青信号になった。前の車のテールランプが消えるのを合図にアクセルを踏み、再び気を取り直す。車内には、カッコいいという理由だけで選んだ洋楽が流れている。もちろん、歌手が誰だかよく分からないし、何と言っているかのかも分からない。
ルームミラーにはアメリカ旅行で買った可愛いディズニーキャラクターのキーホルダーが吊るして飾ってあって、アスファルトの道路の起伏で車体が揺れるたびにブンブンと振り回されている。
やがて、三叉路に突き当たった。隣の車線で左折していく観光バスがどこから来たのか気になりながら右折する。大通りに出たと思ったらすぐ左折。景色はあっという間に小さな道路に変わった。少し進むと、そこはマンションやら一軒家やら、学校やら。速度を落とし、徐行運転でこの閑静な住宅街を進む。アスファルトの道が緑に塗られて色分けされた歩行者専用通路には、手押し車にネギやらじゃがいもなんかの野菜をたくさん載せた老婆がとぼとぼと。
将来、自分もあんな生活ができるかもと淡い期待を抱いてみるも、やがて少し立派なアパートから出てきた黒いスーツを着た長髪の女を見つけて、その希望はあっさり潰えた。
……時間ぴったし。合流完了。車を停車させると、黒いスーツの女性は躊躇なくドアを開け、助手席に乗り込んできた。
「おひさー」
「ウイーッス。なんだお前、髪切るんじゃなかったのか?」
「なーんか長髪が気に入っちゃってね。そのまんまにしてんのよ」
助手席に座った女性がシートベルトをしたのを確認して、アクセルを踏む。再び大通りに出て、しばらく道のりだ。
「相変わらずエンジン音のやかましい車ねぇ。パンツァーレボリューションだったっけ? 部屋からでもアンタが来たって分かったわよ」
「バーカ、この音が良いんだろうが。あと、ランサーエボリューションな。ちなみにこれは7。いつになったら覚えんだ」
「そうでしたそうでした。それにしても、今どきよくMT車なんかに乗るわよねぇ。時代はATよ? なんでこんな忙しい車に乗るのよぉ」
「そんなもん、MTの方が面白いからに決まってんだろ。それに、エボは長年アタシと苦楽を共にしてきた相棒なんだよ。死ぬまで乗り続けるって決めてんだ」
「そういえば、前もそんなこと言ってたわね……。それよりさアンタ、なんか食べ物無い? 寝坊しちゃってさ。今朝から水しか飲んでないのよね」
「これはこれは、奇遇だねぇ。アタシも一緒」
「マジ?! ……ってことは?」
「グローブボックスにコンビニで買ったパンとかおにぎりとか入ってる」
「最高! すこぉぉしだけ貰ってもいいですかねぇ?」
「目ぇ輝かせんな気持ち悪い」
「お願い、少しだけ! んね、ホントよ?」
「ったく………。そのパンの袋開けてよ。4個入りのやつ。分けたげるから。1個ひと口サイズにちぎってアタシの口に運んで」
「さっすがプラムちゃん。分かってるぅ!」
「うるせぇ。いいから早くしろっての。あと、その名前嫌いだから仕事以外で使うなって何回言ったら分かるんだ」
「だってアタシあんたの本名知らないしー」
「プライベートの時はサユリでいいっていつも言ってんだろ。ったく、ホントに人の話聞いてねーよなぁ」
「どうせそれも本名じゃないんでしょー?」
「そりゃな」
「ケーチ。ケチケチケーチ」
「うっせぇ、規則だろうがよ。いいから早くパン食わせろ」
「ハイハイ分かりましたよ。ハイ、あーん」
ふたりの乗るランサーエボリューション7は、やがて6階建ての建物に辿り着いた。地下駐車場に続く敷地に入ると、懐かしい顔が見えてきた。ふたりと同じく黒いスーツを着ており、短髪で細身のこの男。プラムはフロントドアガラスを開けながらブレーキを踏み、停車した。
「よぉバン」
「やっぱプラムの姉貴だ!」
「久しぶり。元気してた?」
「ご覧の通り、いつものように警備係ですよ」
にこやかに話すバンは、視野をプラムからランサーエボリューション7に移した。
「しっかし、相変わらずいい車ですね。一発で姉貴だって分かりましたよ。あれ? アローの姉貴も一緒なんですね。珍しい」
助手席に座るアローは、ちょうどプラムからもらったパンを頬張っていたところだ。口の中に物が入っていては喋りづらいので、適当に手を振って、「久しぶり、お元気?」という意味のジェスチャーを送る。そんな彼女を見て、呆れた様子のプラムは親指でアローを指差した。
「こいつの車は今頃、東シナ海の魚と一緒に泳いでるからな。それっきり上からは運転禁止されててよ。仕方なく、あたしが送迎してんだよ」
そう聞いて思い出したのか、バンはケタケタと笑った。
「アハハ、そういえばアローの姉貴、どこぞの工作員とやりあって、自分の車ごとそいつを海に放り捨てたことありましたね」
笑うバンにつられて、プラムも笑い出した。
「そうそう。真夜中にさっむい港まで追い詰めてよ、向こうが馬鹿みたいに撃ってくるから、ボンネットとかフロントバンパーが穴だらけになってさ。防弾仕様のフロントガラスもヒビだらけになったもんな。それにブチギレて、そのままアクセル全開の突進で体当たりってな」
ハンドルを手のひらでポンポンと叩きながら、ゲラゲラと笑うプラムにつられて、バンもさらに笑った。
「バカ、余計なこと言わないでよね。大体、あの男が私の車の屋根にしがみつくのが悪いんでしょ」
「アンタが突進なんかするからでしょうが。お陰で助手席にいたアタシもカッタいアスファルトに向かってダイブする羽目になったんだぞ」
結局、工作員がしがみついたままの車は、止まることなく海にダイブし、両者とも浮き上がってくることはなかった。寸前で車から飛び降りたプラムとアロー両名は、打撲と擦り傷だらけの体で歩いて拠点まで帰る羽目になるという過去を持つのだ。
「とにかく元気そうで何よりです。リーダーも待ってますよ」
バンから発せられた、リーダーということ言葉に、プラムとアローは少しぎくりとした表情になった。
「え、もう来てんの? リーダー」
「ええ。最近何かの啓発本を読んだらしくて、朝早く来るようになったんすよ」
「相変わらずねぇ……あの人も」
「待たせるとまーたなんか怒られそうだな。チャチャっと行ってくるわ」
「いってらっしゃい!」
やりとりを終えると、プラムは地下駐車場に向けて車を発進させた。
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