プラムが運転するランエボは、やがて黒川邸の門に繋がる、細い一方通行の道路に差し掛かった。標識に従い、30キロまで減速して門に近づいていく。
後部座席に座る翔斗は、たった今手にしていた本物の銃の手触りを思い出していた。ずっしりとして冷たい、人を生かしも殺しもする道具。同時に、頭の中で「結局お前も他人事じゃないか」というプラムの言葉が駆け回る。
……他人事? そんなバカな。僕はいつだって真剣に世の中を考えてきたはずだ。それこそ、父さんなんかよりもずっと……。
思い悩む翔斗など知らず、プラムは今日の夕飯のことを考えている。昨日は家政婦とアローの共同作業で肉じゃが。その前はシチュー。どれもこれも美味しかったが、やはり初日に食べたハンバーグの味は忘れられない。日頃から自炊する習慣がなく、夕飯はいつも外食かスーパーのお惣菜。だからか、久々の手料理に心を打たれてしまったようだ。どこか、もう一度あのハンバーグが食べたいと願っている自分がいる。
やがてプラムは、もうすぐそこに見える黒川邸の門を潜るため、左にウィンカーを出した。自動で門が開き、ランエボを広い庭に停める。
「着いたぞー」
「うん」
「なんだ、起きてたのかお前」
「え? うん」
プラムはエンジンを停止させると、ドアを開けてランエボから降りた。続くように、翔斗もランエボを降り、玄関のドアに向かう。
「ずっと下向いてたから寝てんのかと思った」
「そんな呑気なことしないよ。どういう政治家になろうかって、真剣に考えてただけ。銃の世界的な規制強化とか、反社会勢力の撲滅とかさ」
「ふーん」
相変わらず、適当な反応。まぁ、何をどれだけ言っても、この人には分からないだろう。何も考えてなさそうだし。軽くため息を吐いた翔斗は玄関のドアを開け、靴を脱ぐ。しかしその時、珍しくプラムが言葉を続けた。
「別に何でもイイんだけどさ、政治家だの世の中だの平和だの、ウンタラカンタラ言う前に、家政婦さんの飯作る手伝いでもしたら?」
応接間に入り、通学カバンを畳に置き、ひとまず応接ソファに座ろうとした翔斗の背中が固まった。プラムは気にすることなく、淡々と続けた。
「飯じゃなくてもよ、自分の服は自分で洗濯するとか、部屋の掃除するとか、色々あんだろ。出会って数日しか経ってないから、普段どーなのかは知らねえけどさ」
「いや、だって、僕疲れてるし」
「お前、うるせえ割に何もしねーじゃん」
……!
耳が熱くなっていく。今、背後にいるプラムの方を振り向けば、必ず赤くなった顔に何か言われる。
「……どういう意味?」
「意味? え〜っとね……つまり、お前はつまんねえヤツってこと」
違う……! 僕は……!
「違う。違うよ。僕はまだ高校生だ! 行動を起こせないんだよ。25歳からでしか議員に立候補できないの知らないの? その時が来るまで待ってるんだよ!」
翔斗の大声が聞こえたのか、奥の部屋から家政婦が飛び出してきた。
「おぼっちゃま! お帰りだったのですね。お夕食の支度中でしたもので、気づけませんでした。………どうかされたのですか?」
家政婦が、ギロリとプラムを睨みつける。
「いや〜なんかコイツ、生意気だなって」
「うるさい! 僕は僕だ! プラムさんに、僕の何が分かるってんだよ!」
今までに無いほど、声を張り上げる翔斗。その様子に驚いた家政婦は、信じられない表情で翔斗を見つめた。
「僕が一生懸命考えてるのに、なんでプラムさんはいつも揚げ足ばっかり取ろうとするんだ!」
「数年前、お前ぐらいの歳の子が殺されたよ」
翔斗と、家政婦の目が大きく開いた。
「バンコクの坊主でさ。夜の街を裏で仕切ってたド腐れ政治家を白昼堂々銃殺したんで、政治家を買収してたマフィアにやられたんだ」
プラムは応接間に入り、スーツを脱いでワイシャツ姿になると、黒いネクタイを首から解いてソファの背もたれに掛けた。すぐに自身もソファに座り、膝に肘を置いて、わずかに俯く。ショートヘアの前髪が、彼女の目に覆い被さり、影をつくった。
「坊主の家は貧しくてね。父ちゃんは蒸発、母ちゃんはヤク中……親戚にも見放されて、学校にも行けない。坊主の、たったひとりの姉が違法風俗とか、奴隷同然でビルの清掃員として働いて。カラダ張って、やっとその日の生活費を稼いでた」
翔斗と家政婦は、いつにも増して重々しいプラムを、黙って見つめることしかできてない。
「いつの間にか、実の姉もクスリに溺れてた。たぶん、仕事中にその筋の客に盛られたんだろうな。坊主が唯一尊敬してた姉も、いよいよ働けない体になっちまった」
プラムの声色が、さらに暗みを帯びた。
「坊主は怨んだよ。街も、人も、クスリも、みんな怨んだ。そして、自分と姉の人生をクソにした元凶の政治家に復讐した。その後、報復としてマフィアに消されちまった。事件にも事故にもなってない。タイにいる誰もが知らない話だ」
プラムが顔を上げた。あの眠たそうな目つきが、凍てつく吹雪のような冷気を帯びて、つららのような鋭さで翔斗を貫いた。
「姉がそういう店で働いてたとは言え、坊主は一般人。お前と同じで、普通の子供だ。……分かるか? そんな奴が、でけえ街をひとつ消しかけたんだぞ」
「………」
「表とか裏とか関係ねえ。薄汚えドブネズミが最後の最後に勇敢で華々しいトラの首を喰い千切ったんだよ」
プラムは、目を逸らそうとして逸らせずにいる翔斗の目を逃がそうとしない。
「お前はどうなんだよ。さっきから御託ばっか並べやがって。平和のために、世間様に代わって泥に塗れる覚悟、てめえにあんのか?」
翔斗は、何も言えなかった。ただ拳を固く握りしめ、小刻みに震えているだけ。そんな彼に、プラムは静かに言い放った。
「ハッタリもかませねぇならこれ以上喋んな」
静かだが、圧倒的。台風で吹き荒れる暴風のような衝撃が翔斗に走り、その場に重苦しい空気をもたらした。家政婦はただ黙って、プラムと翔斗を交互に見るしかなかった。
「あ、家政婦さん?」
唐突。長く続く沈黙を最初に破ったのは、いつもの眠たそうな顔をしたプラムだった。
「は、はい?」
「あたし今日サバの味噌煮食べたいんだけど。あと豚汁」
「サ、サバですか……?」
「うん、サバ。無い?」
「いや、ありますけど……」
「え、じゃあ食べたい。今めっちゃサバの味噌煮の口」
「いや、どうしてあなたがお夕食を決めようとしてるんですか!」
「え〜、ダメ?」
「ダメです! おぼっちゃまの食べたい物が優先です! おぼっちゃま、何を食べたいですか?」
翔斗は、その場に立ち尽くしたまま、小さな声で呟くように言った。
「……サバでいい」
少し驚いた表情を見せる家政婦。しかし、すぐに気を取り直す。
「……わ、分かりました! ご用意しますね」
「……う」
「はい?」
「僕も、手伝う……」
呆気に取られる家政婦の方をまっすぐと向いた翔斗。その背中を、プラムは眠たそうに眺めている。
「いえ、おぼっちゃま。学校が終わってお疲れでしょう。お休みになってくだ……」
「いいから。手伝わせて。……何すればいい?」
「……あ、では、お野菜を洗ってもらってもよろしいですか?」
「……分かった」
大きく歩き出した翔斗を追うようにして、家政婦とプラムはキッチンに向かった。
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