さて、今しがた理事長室で起こった一連の騒動は、理事長室が学園の最上階にあったことと、全校が朝のホームルーム中であったため、奇跡的に大人数の認知を避けることができた。アローの電話一本で派遣清掃員が訪れることになり、この件は闇に葬られることとなる。
すべての打ち合わせ確認を終えたプラムとアロー、そして黒川翔斗は、各々の役割を待って3年1組の教室に向かうことになった。
教室にはまず、黒川翔斗から入った。
「……すみません、寝坊しました」
「そうか。まあいい。座りなさい」
時刻はすでに1限の終わりかけ。クラス中の視線が翔斗に集まる。遅れたというのに、誰ひとりからもお咎めがない。減点さえされているかも分からない。ただ冷ややかな目で「アイツの親父は有名な政治家だから、先生はビビって何もできない」と言いたげだった。クラスメイトの皆が、そう感じているかどうかは問題ではない。少なくとも黒川翔斗本人には、クラスメイトからの視線がそう映ってしまう。
普段からいじめを受けているわけではない。普通の高校生として、みんなと接しているつもりだ。なのに、父親の影が見え隠れする。みんなその影の機嫌を伺って、翔斗本人に接しているようにしか見えない。それが、翔斗本人には辛かった。自分の存在を押し殺すように席まで行った翔斗は、通学カバンを床に置き、着席した。
「おい翔斗」
カバンから教材を取り出していると、隣の席に座る内村健人が話しかけてきた。
「ん?」
「お前が寝坊って珍しくね?」
「……俺もびっくりしてる」
「お前、意外と夜更かしする感じ?」
「………まあ。結構遊ぶ時は遊ぶかな」
……嘘だ。現状、身の危険から夜中に自由に動けないのは仕方がない。けど、命を狙われる運命など想像もしていなかったその昔から、夜は家政婦から監視されて、父から勉強を強要されて……。夜に、誰かと外に遊びに行ったことなど、まるでない。
「ほぇー、お前でも夜更かしすんだな」
「うん……」
やがてチャイムが鳴った。授業終了の礼をし、もう一度席に座り直すと、また健人が話しかけてきた。
「俺さぁ、最近『黒人が怒ってる動画にビート流したらヒップホップになった』っていう動画にハマっててさ。何つってるか分からんけど、笑えんだコレが」
「何だよそれ」
「面白いから一回見てみ?」
「今度見とく」
「お前が最近ハマってる動画とかある?」
「ん〜。そうだなぁ」
……考えてみたら、無い。もちろんスマートフォンは持っている。みんなが知っている動画サイトの閲覧や、ゲームアプリだってひとしきりやってきた。けど、心から面白いと思ったものなんて、あっただろうか……。
「なーんでもいいよ。言ってみ」
「んー。年越しお笑いコント番組とか見てるかも」
「おぉー! お笑いか。いいな! お笑い芸人で一番好きなの誰よ?」
「……ブンブンダンプかな」
「あ〜! 知ってるわ! 3年前くらいにグランプリ獲ったコンビやん! 面白いよなぁ」
いつの間にか10分の休憩時間が過ぎており、2限の始まりを知らせるチャイムが鳴った。この時間は日本史。休憩時間が終わったばかりの騒がしい教室に、担当教師の中塚先生が入ってきた。日本史の教師でもあり、このクラスの担任だ。小太りで、薄毛で、メガネの中年。少しの私語も聞き逃さず、授業中3回は生徒に注意をする厳しさで有名だ。
普段は席につけ〜、と言って教室に入ってくる中塚だが、今日はいつもと様子が違う。彼の後ろに連れられて、ふたりの女性が入ってきたのだ。しかも、怒られている。周りが騒がしいので聞き取りづらいが、教育実習初日から遅刻とは何事か! という旨のお叱りを受けているようだ。女性ふたりも反省しているのか、ショボンとした態度を見せている。
見たこともない女性に、黒川翔斗意外の全員が「誰?」という視線を集めた。まもなく、中塚先生は教壇に立ち生徒たちと対面した。
「授業始める前にひとつ。教育実習生のふたりを紹介する。例年とは違う予定らしいから、ふたりでひとつの授業をしてもらうことになる。それでは、お願いします」
中塚先生が教卓から外れ、女性ふたりがそこに立った。ひとりは平均的な身長のショートボブ。黒いスーツに黒いネクタイ。眠たそうな顔をしていて、少し怖い。もうひとりは、ショートボブの女性よりも身長が高い、クールビズ姿のロングヘアの女性。ニコニコ笑顔が可愛らしくて、親近感が湧く。
まず初めに手を挙げて自己紹介を始めたのは、ニコニコ笑顔が特徴的な、ロングヘアの女性だった。
「皆さんはじめまして! このたび教育実習生として授業に参加させていただく西春子でーす! よろしくお願いしまーす!」
先ほどまで中塚に怒られていたのが嘘のような、アローの元気のいい自己紹介に、男子生徒はニヤつき、少しそわそわしている者もいる。女子生徒たちはというと、男子の単純さに呆れる者が大半だった。続いて、隣にいたプラムも自己紹介を始めた。
「どうも、東夏子です。よろしく」
気だるそうなあいさつ。男子生徒たちのテンションが、少しだけ下がったのが分かったのと同時に、女子生徒の間で「感じ悪い」という囁き声が聞こえた。黒川翔斗はというと、少しだけ笑っていた。
……単純な名前だな……。
西春子(アロー)と東夏子(プラム)……。あのふたりは本当に、自分の正体を隠し通す気があるのか……?
彼女たちが裏社会の人間であることを知るのは、この教室では黒川翔斗ただひとり。彼以外は、ふたりの存在自体に軽い疑念さえ持つことはない。自分だけが真実を知っているという特別感と、彼女らが名乗ったあまりにもシンプルな偽名に、少しだけ、翔斗は笑みをこぼしたのだ。
「何か質問ある人ー! 今なら、私も夏子先生(プラム)も、何でも答えまーす!」
「はーいはーい!」
陽気な男子生徒たちが一斉に手を挙げる。まるで、餌を求めて群がる池の鯉のようだ。
「はーい、じゃあそこの君!」
「はい! えーっと、西先生は彼氏いますか?」
「うわ、お前それ聞くかよ!」
「失礼やな〜!」
クラス中に笑いが起こる。中塚先生も、少しだけだが苦笑いしているようだ。しかし、アローは笑顔を崩すことなく答えた。
「いませーん! 他に何かあるかなぁ?」
「はい!」
「じゃあ東先生は彼氏いますか〜?」
「ん? あたし? いないけど」
クラス中の男子がざわついた。この若い女性2人組。年齢も決して遠くない。そんな両者に、彼氏がいない。男子たちが姿勢を正し始めたのを見て、女子生徒たちは呆れにも似た態度で頬杖をつくのであった。
「西先生、時間も限られているから、質問コーナーはまた後にしてもらおうか」
中塚先生の横槍が入り、質問コーナーは男子生徒に惜しまれながら終了を迎え、日本史の授業が始まった。中塚先生が授業をする中、プラムとアローは見学ということで、最後列の壁際に座る翔斗のすぐ後ろで待機することになった。
この位置はベルの指示により決められたもので、事前の席替えで外から最も遠く、かつ教室全体が見渡せる場所……つまり廊下側の最後列。そのそばにプラムとアローのどちらかを配置することで、敵の急襲に備える。
さらに、教室のカーテンを遮光ミラーレースに変え、全て閉じておくことで、スナイパーを封殺する。この事で、敵の校舎外からの攻撃手段は限りなくゼロに等しくなる。
今は中塚先生の授業を見学中なので、黒川翔斗のそばにはプラムとアローのどちらもいる。既に、理事長室で殺し屋に仕掛けられている。校舎内に誰かがいても不思議ではない。ふたりは万全を期して敵に備えたが、意外にも敵が来ることはなく、時間だけが過ぎていった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!