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迷子の句読点
迷子の句読点

【第九話】授業

公開日時: 2024年6月18日(火) 17:00
文字数:3,075

 さて、今しがた理事長室で起こった一連の騒動は、理事長室が学園の最上階にあったことと、全校が朝のホームルーム中であったため、奇跡的に大人数の認知を避けることができた。アローの電話一本で派遣清掃員が訪れることになり、この件は闇に葬られることとなる。

 すべての打ち合わせ確認を終えたプラムとアロー、そして黒川翔斗は、各々の役割を待って3年1組の教室に向かうことになった。

 教室にはまず、黒川翔斗から入った。


「……すみません、寝坊しました」


「そうか。まあいい。座りなさい」


 時刻はすでに1限の終わりかけ。クラス中の視線が翔斗に集まる。遅れたというのに、誰ひとりからもお咎めがない。減点さえされているかも分からない。ただ冷ややかな目で「アイツの親父は有名な政治家だから、先生はビビって何もできない」と言いたげだった。クラスメイトの皆が、そう感じているかどうかは問題ではない。少なくとも黒川翔斗本人には、クラスメイトからの視線がそう映ってしまう。

 普段からいじめを受けているわけではない。普通の高校生として、みんなと接しているつもりだ。なのに、父親の影が見え隠れする。みんなその影の機嫌を伺って、翔斗本人に接しているようにしか見えない。それが、翔斗本人には辛かった。自分の存在を押し殺すように席まで行った翔斗は、通学カバンを床に置き、着席した。


「おい翔斗」


 カバンから教材を取り出していると、隣の席に座る内村健人うちむらたけとが話しかけてきた。


「ん?」


「お前が寝坊って珍しくね?」


「……俺もびっくりしてる」


「お前、意外と夜更かしする感じ?」


「………まあ。結構遊ぶ時は遊ぶかな」


 ……嘘だ。現状、身の危険から夜中に自由に動けないのは仕方がない。けど、命を狙われる運命など想像もしていなかったその昔から、夜は家政婦から監視されて、父から勉強を強要されて……。夜に、誰かと外に遊びに行ったことなど、まるでない。


「ほぇー、お前でも夜更かしすんだな」


「うん……」


 やがてチャイムが鳴った。授業終了の礼をし、もう一度席に座り直すと、また健人が話しかけてきた。


「俺さぁ、最近『黒人が怒ってる動画にビート流したらヒップホップになった』っていう動画にハマっててさ。何つってるか分からんけど、笑えんだコレが」


「何だよそれ」


「面白いから一回見てみ?」


「今度見とく」


「お前が最近ハマってる動画とかある?」


「ん〜。そうだなぁ」


 ……考えてみたら、無い。もちろんスマートフォンは持っている。みんなが知っている動画サイトの閲覧や、ゲームアプリだってひとしきりやってきた。けど、心から面白いと思ったものなんて、あっただろうか……。


「なーんでもいいよ。言ってみ」


「んー。年越しお笑いコント番組とか見てるかも」


「おぉー! お笑いか。いいな! お笑い芸人で一番好きなの誰よ?」


「……ブンブンダンプかな」


「あ〜! 知ってるわ! 3年前くらいにグランプリ獲ったコンビやん! 面白いよなぁ」


 いつの間にか10分の休憩時間が過ぎており、2限の始まりを知らせるチャイムが鳴った。この時間は日本史。休憩時間が終わったばかりの騒がしい教室に、担当教師の中塚なかつか先生が入ってきた。日本史の教師でもあり、このクラスの担任だ。小太りで、薄毛で、メガネの中年。少しの私語も聞き逃さず、授業中3回は生徒に注意をする厳しさで有名だ。

 普段は席につけ〜、と言って教室に入ってくる中塚だが、今日はいつもと様子が違う。彼の後ろに連れられて、ふたりの女性が入ってきたのだ。しかも、怒られている。周りが騒がしいので聞き取りづらいが、教育実習初日から遅刻とは何事か! という旨のお叱りを受けているようだ。女性ふたりも反省しているのか、ショボンとした態度を見せている。

 見たこともない女性に、黒川翔斗意外の全員が「誰?」という視線を集めた。まもなく、中塚先生は教壇に立ち生徒たちと対面した。


「授業始める前にひとつ。教育実習生のふたりを紹介する。例年とは違う予定らしいから、ふたりでひとつの授業をしてもらうことになる。それでは、お願いします」


 中塚先生が教卓から外れ、女性ふたりがそこに立った。ひとりは平均的な身長のショートボブ。黒いスーツに黒いネクタイ。眠たそうな顔をしていて、少し怖い。もうひとりは、ショートボブの女性よりも身長が高い、クールビズ姿のロングヘアの女性。ニコニコ笑顔が可愛らしくて、親近感が湧く。

 まず初めに手を挙げて自己紹介を始めたのは、ニコニコ笑顔が特徴的な、ロングヘアの女性だった。


「皆さんはじめまして! このたび教育実習生として授業に参加させていただく西春子にしはるこでーす! よろしくお願いしまーす!」


 先ほどまで中塚に怒られていたのが嘘のような、アローの元気のいい自己紹介に、男子生徒はニヤつき、少しそわそわしている者もいる。女子生徒たちはというと、男子の単純さに呆れる者が大半だった。続いて、隣にいたプラムも自己紹介を始めた。


「どうも、東夏子ひがしなつこです。よろしく」


 気だるそうなあいさつ。男子生徒たちのテンションが、少しだけ下がったのが分かったのと同時に、女子生徒の間で「感じ悪い」という囁き声が聞こえた。黒川翔斗はというと、少しだけ笑っていた。


 ……単純な名前だな……。


 西春子(アロー)と東夏子(プラム)……。あのふたりは本当に、自分の正体を隠し通す気があるのか……?

 彼女たちが裏社会の人間であることを知るのは、この教室では黒川翔斗ただひとり。彼以外は、ふたりの存在自体に軽い疑念さえ持つことはない。自分だけが真実を知っているという特別感と、彼女らが名乗ったあまりにもシンプルな偽名に、少しだけ、翔斗は笑みをこぼしたのだ。


「何か質問ある人ー! 今なら、私も夏子先生(プラム)も、何でも答えまーす!」


「はーいはーい!」


 陽気な男子生徒たちが一斉に手を挙げる。まるで、餌を求めて群がる池の鯉のようだ。


「はーい、じゃあそこの君!」


「はい! えーっと、西先生は彼氏いますか?」


「うわ、お前それ聞くかよ!」


「失礼やな〜!」


 クラス中に笑いが起こる。中塚先生も、少しだけだが苦笑いしているようだ。しかし、アローは笑顔を崩すことなく答えた。


「いませーん! 他に何かあるかなぁ?」


「はい!」


「じゃあ東先生は彼氏いますか〜?」


「ん? あたし? いないけど」


 クラス中の男子がざわついた。この若い女性2人組。年齢も決して遠くない。そんな両者に、彼氏がいない。男子たちが姿勢を正し始めたのを見て、女子生徒たちは呆れにも似た態度で頬杖をつくのであった。


「西先生、時間も限られているから、質問コーナーはまた後にしてもらおうか」


 中塚先生の横槍が入り、質問コーナーは男子生徒に惜しまれながら終了を迎え、日本史の授業が始まった。中塚先生が授業をする中、プラムとアローは見学ということで、最後列の壁際に座る翔斗のすぐ後ろで待機することになった。

 この位置はベルの指示により決められたもので、事前の席替えで外から最も遠く、かつ教室全体が見渡せる場所……つまり廊下側の最後列。そのそばにプラムとアローのどちらかを配置することで、敵の急襲に備える。

 さらに、教室のカーテンを遮光ミラーレースに変え、全て閉じておくことで、スナイパーを封殺する。この事で、敵の校舎外からの攻撃手段は限りなくゼロに等しくなる。


 今は中塚先生の授業を見学中なので、黒川翔斗のそばにはプラムとアローのどちらもいる。既に、理事長室で殺し屋に仕掛けられている。校舎内に誰かがいても不思議ではない。ふたりは万全を期して敵に備えたが、意外にも敵が来ることはなく、時間だけが過ぎていった。



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