「僕が千春ちゃんの“昨日”を、“今日”に変えてあげるよ。」
そう言った久遠の言葉が、千春の胸に残っていた。
放課後の帰り道。空は夕焼けに染まり、茜色の雲がゆっくりと流れていく。千春は久遠と並んで歩いていた。
「……どうして、そんなこと言うの?」
ふと、千春は尋ねた。
「ん?」
「私の話を毎日忘れてしまうのに、それでも聞き続けるって……意味があるの?」
久遠は、足を止めた。
「意味……かぁ。」
彼は考えるように空を見上げたあと、ふっと微笑んだ。
「千春ちゃんは、覚えていることに意味を求める?」
「……?」
「例えば、今日この景色を見て、明日には忘れちゃうとする。でも、今この瞬間、僕は夕焼けが綺麗だなって思ってる。」
久遠は指を空に向けた。オレンジ色の光が、ビルの隙間から溢れている。
「それって、意味がないことなのかな?」
千春は答えられなかった。
「覚えていなくても、今感じていることには意味があるんじゃないかな。だから、僕は千春ちゃんの話を聞きたい。それがたとえ明日消えてしまうとしても。」
彼はそう言って、笑った。
「……ばかみたい」
千春は小さく呟いた。
「うん、よく言われる。」
「普通なら、昨日のことを忘れるのは怖いものよ。」
「そうかもね。でも、千春ちゃんは“昨日”を忘れられないことが怖いんでしょ?」
千春はハッとした。
「……違う?」
久遠はまっすぐ千春を見つめていた。彼の目には、余計な詮索も、憐れみもなかった。ただ、千春の言葉を待っているような、そんな優しい瞳だった。
「……そうね。」
千春は少しだけ笑った。
「じゃあ、約束しよう。」
久遠は手を差し出した。
「明日になったら、僕は今日のことを忘れてる。でも、千春ちゃんがまた話してくれるなら、僕はまたちゃんと聞く。」
千春は、その手を見つめた。
(この人は、本当に……不思議な人。)
一日しか続かない記憶。
一日しか続かない約束。
でも、それが「今日」という確かな時間の中にあるのなら——。
千春はそっと久遠の手を取った。
「……うん。」
夕焼けの光が、二人を包んでいた。
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