人間は日々様々なストレスに苛まれていますが、実はこれらのストレスのすべてが『人間関係』にあるのです。そう断じてあたらしい心理学『アドラー心理学』を立ち上げた人がいました。そうです、アドラーさんです。
今回はそんなアドラー心理学についてほんのすこし触れてみましょうか。
心理学とはその字のごとく、人の心を科学する学問です。古くは哲学の分野として考えられてきましたが、人の心理が科学的に実証できるという研究が発表されると次々と心を科学する研究が栄え、やがて心理学という学問が生まれました。心理学者として有名なのは『フロイト』『ユング』などですが、この『アドラー』という方は彼らと共に研究した期間もある素晴らしい心理学者です。そして彼は心理学を通して人間とはどう生きるべきかの答えを示してくれました。
アドラー心理学と通常の心理学の違い
心理学と聞いて、みなさんはそういった印象を受けるでしょうか? 例えば悲しさという『感情』にはどういった心理が込められているでしょうか?
心理学で一般的に考えられていたのは、悲しい出来事があってそれが原因と成って涙を流す。つまり心理的行動の『原因』となる存在です。人間は経験や感情が原因と成って行動を起こすもの――しっくりきますね。しかしアドラーはそうとは考えませんでした。
人間は不幸があったときなどに「同情してもらいたい」という『欲求・目的』が生まれます。その時この悲しいという『感情』をつかて涙を流すのではないかと考えたのです。これは『目的論』といいアドラー心理学では重要な要素となります。 感情はただの機能に過ぎず、それを人間はなんらかの目的を達成するために利用しているに過ぎない。
フロイトらが心理学において人間が行動する『原因』に着目していたことに対し、アドラーはその『目的』に着目していたのです。
もう少し掘り下げた解説をしましょう。例えば目の前にヘビがいたとします。通常の考えでは、過去にヘビで痛い経験をした人は怖いという感情が産まれて逃げる、という行動につながります。ただこれは『自分の意志』によるものではない、という問題がつきまといます。そうであれば怖いものと対面すればぜんぶ逃げみたいな選択をする生き物が生まれてしまいますよね?
アドラー心理学では過去にヘビで痛い思いをした記憶を利用し、そのときの感情を利用して人が自ら逃げるという行動を起こすことになります。その人が『逃げたい』という意志をもち、記憶の中にある『怖い』という感情を引っ張り出してくるのです。あまり代り映えしないように思えますが、この順番がひとつ違うだけで心理学上では天と地ほどの差があるのです。
こういった感情を利用して行動するには目的が必要不可欠です。そして人間の目的とはすべて『人間関係』に集約してきます。
人間関係の心理学
例えば、周囲の同情を得たいという目的は周りの人間に関係することです。褒められたいという目的もキレイになりたいという目的も痩せたいという目的も、富も名声も金もその他もろもろの欲望もすべてが人間関係によるものです。ある意味では、世界に人間が自分ひとりであればそれらの悩みはすべてキレイさっぱり消え去ることでしょう。
それらの悩みはすべて他人いるからこそ浮かぶもので、その裏には『相手に依存している』心があるとも言えます。相手に依存しているからこそ同情されたいなどの目的を達成するために必死に考えますし、同情してくれない相手に対して言いようのない理不尽な感情を覚えることもあります。ですが、それこそがさらなるストレスの元となり、アドラー心理学ではこの状態を良しとしません。
では、この対人関係のストレスをどう対処すればよいでしょうか?
アドラー心理学の言葉のなかに『課題の分離』というものがあります。ざっくばらんに申し上げれば、自分ができることと相手ができることをしっかりと区別するということ。できることというのは『最終的に責任をとることになるのは誰か』と考えた時です。たとえばダイエットなどではどうでしょう? 痩せるという行動の裏では他人から羨望の眼差しが欲しいという目的、欲求があります。別に悪いことではなく、むしろ素晴らしいことだと思います。ここで気をつけてほしいのは、あなたを羨望の眼差しで見つめるかどうかは相手が決めることであり、痩せるための行動はあなたが決めることであるということです。これが課題の分離です。
痩せようとダイエットする。これはあなたの課題です。いろんなダイエット法に挑戦して、筋トレなどもやるでしょう。続ければ体は引き締まりたくましい身体を作り出すことができます。将来肥満による病気になったり、逆に健康的な毎日を送れるように成ったりと、最終的な責任はあなたに帰ってくるのですから。
では羨望の眼差しについてはどうでしょう? これはあなたの課題ですか? 違いますよね? その痩せてたくましくなった身体を見つめて「ステキ……」と思うのも「ゴツゴツしてる」と思うのも「案外弱そう」と思うのも「キライ」と思うのもすべて他人の感想でしかありません。もしあなたが超パワーをもっていて相手の心を思うがままに操るすべをもっていたらその限りではありませんが――。
問題なのはそこです。あなたがあなたの責任でどうにかできる範囲をきちんと見つめることができればストレスとは無縁の生活も可能なのです。どうすることもできない問題だと知っていればすぐに思考を切り替えたり切り捨てたりすることができるでしょう? 100円のアイスと1億円のアイスどっちを購入するかと問われた時だれもがすぐに100円のアイスを選ぶと思います。1億円というどうすることもできない選択肢をそうそうに切り捨てることができるからです。もし、これが120円のようなものだったら後々こちらを選んでおけば、とかどっちもほしかったな、などの葛藤にさいなまれることでしょう。
人間関係の中で自分ができる範囲を見極め、他人が判断するところに口出しをしない。これこそが課題の分離の最適解と言えます。とはいえ社会にあるなかでそうそううまくはいかないもの。なかにはこの課題の分離がまったくできておらずあなたに依存しまくる人もいるかもしれません。また他人の仕事を引き受けすぎてがんじがらめになるような人も同じことが言えます。その仕事は果たして自分の課題なのかをよく考える必要があります。
だからこその『嫌われる勇気』
アドラー心理学に関係する著作の中に『古賀史健』氏と『 岸見一郎』共著の『嫌われる勇気』があります。これは現在でもベストセラーとなっていますね。青年がある哲人の家に押しかけて論破してやると思ったら逆に洗脳されてアドラー心理学の教信者になったという話です……たぶん、ウソは言ってません。だって読んだらさ、はじめ意気揚々と論破しようとしてた青年が次第に哲人の言葉にほだされてって最後にゃすっげーキャラ変わってたんだもん! まあ、青年はアドラー心理学における教義のあまりの鬼畜っぷりに怒りを覚えて哲人のもとへ押しかけたストーリーなのでそうなることもしかなたいでしょうけど。
ええ。アドラー心理学はなかなか厳しい教えを説いてます。まず、立ち上がるのはあなた自身です。人間は目的のために行動しているという話をしましたね? これはつまり、精神的に参ってふさぎ込んでいる人は、自らがその選択をしたのだということにほかなりません。そんなことない! 辛い状況じゃないかと声を挙げられても、アドラー心理学によればひきこもりなどをしている人間はすべてその人が選択した結果なのです。著作によれば、そういった人々はそうすることで周囲の同情や視線を得られる=『人間関係を形成できる』という発想の元行われています。なので、極端な話ひきこもりは自ら扉を開かなければどうすることもできないのです。
他人に依存すること、つまり課題の分別ができないままでいると自らやるべきことが曖昧になりストレスがかかります。自らの課題を分別できることはそれだけ生きやすくなります。しかし社会ではわりと歓迎されない思考ですよね。場合によっては嫌われることだってあります。けど、それでいいのです。余計な荷物をもってストレスを抱えるよりも、自分の課題を精一杯やることこそが必要なのです。そして、著作にある『勇気』とはそのために足を踏み出せるかどうか、ということです。
アドラー心理学は日本語訳で『個人心理学』とも言います。これはアドラーの言う「心と身体は切り離せない」という発想に基づきます。個人として生きていくにはどうすればよいのか。複雑化する社会において、この意味がより深く問われていくのかもしれませんねぇ。
PS:ちなみに、嫌われる勇気の続編として『幸せになる勇気』も出版されてますよ。
自分にとって本当に必要だと思ったもの……自分の課題はちゃんと自力でやりましょうね?
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