気が付くと、濃い霧の立ち込める川の中にいた。
それまでどこに居たのかはっきりとは思い出せない。記憶がバイト先に向かって道を歩いていた所で途切れている。身体を見下ろすと、いつも着ているオーバーサイズの黒いパーカーに同じく黒のチノパンを身に着けていた。膝から下は川に浸かっていて、澄み切ったせせらぎの中、赤いスニーカーが揺らめいている。
冷たい。というかなんで川の中に……。
ポケットを探る。スマホが無い、財布も無い。そういえば両方とも肩に掛けていた通勤のトートバッグに入れていたはずだが、何故かそれが見当たらない。
マジか……。
項垂れたその時、ポケットの中で動いていた手が何かに当たり、ピタリと止まった。バイトの休憩時間に飲むためにポケットに突っ込んであったインスタントコーヒーのスティック。それが二本とも入っていた。
それにしてもここは、どこなんだ。
霧の中である事は周りを見れば一目瞭然だ。しかも、かなり深い霧。足元を流れる川の水は冷たく澄み切っていて、川底にはきれいな丸石が敷き詰められている。
もしかして、これが三途の川とかいうやつか。
いや、まさかそんな事ないだろう。死んだ覚えはないのだから。
とりあえず、歩いてみる。
むやみやたらに歩くと、迷う恐れがあるということは分かっていた。だけど既に自分がどこにいるのか分からない以上、この場に居続けても同じことだ。
しばらく進むと霧が薄くなっていき、やがて丸石が敷き詰められた川岸と、その向こうに深い森が見えてきた。
何故か喉がカラカラに乾いていたので、とりあえず萌え袖になっているパーカーを肘までまくり上げ、川の水をすくい、一口飲む。喉が潤い、少し生き返った気分になる。
いや、そもそも死んでない死んでない。
見上げると、空は青く晴れ渡っていた。日が高い事から察するに、正午を迎える少し前か、少し後くらいだろう。目印になりそうな高い山などは一つも見えない。
のどかだ……。
さっきまで街の中に居たはずなのに、今はどういうわけかせせらぎが聞こえる緑豊かな自然の中に突っ立っている。
それから何となく左右を見回して、左手の方で目が留まった。
河原にポツンと、木の枝を組み木の葉をその上に載せて作った、簡素なシェルターのような物があったのだ。
川岸に上がり近づいてみると、傍らにすり鉢状の窪みがあり、その中で黒くなった薪が燻っていた。シェルターの中には人はおらず、キャンプ道具だろうか、木製の食器や金属製の見た事のない形の道具がきれいに整頓されて置かれていた。
中に足を踏み入れようとしたその時、耳元で低いしゃがれ声が響いた。
「……何者だ」
思わずビクリと身体が震える。と同時に、首筋に冷たく鋭いものが当てられているのを感じた。
それまでこちらに一切の気配を悟らせず背後に忍び寄った誰かが、首に刃物を押し当て何者かと尋ねているのだ。
……答えなければ殺される。
いや、きっと答えを間違えても殺される。
何となく、そんな気がした。勝手にシェルターをのぞいたくらいで他人にいきなり刃物を押し付けるような人間だ。頭のイカれたヤバイ奴に違いない。
「き、霧の中に迷い込んだんです。こちらに歩いてきたらシェルターがあったので、だっ誰かいないか覗いてみただけです」
「いつからつけていた……」
「つけてなんかいませんっ……」
「……ここへ来る前はどこにいた」
「ふ、普通に道を歩いてました」
「……冗談はよせ」
「ほっ本当です。気が付いたら霧の中にいたんです。本当です、〝 信じて下さい〟」
「……」
不思議と納得してくれたのか、声の主が首に押し付けていた刃物を下げた。当たっていた所が少しヒリヒリする。手で押さえてみると、掌にぬるりとした感触があった。目の前に持ってきた手が真っ赤に染まって——
……血。
その瞬間、視界が白み始め、間髪入れず全身の力が抜けていくのを感じた。
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