異世界トレイル

果ての樹海のその果てに
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第十二話 窮地

公開日時: 2020年10月10日(土) 20:08
文字数:2,240

 アルセンさんが周囲を警戒するように見回した。顔からいつもの落ち着きが消え、代わりに動揺が色濃く表れていた。額に浮かぶのが汗なのかそれとも雨粒なのかすぐには分からなかったが、自分の顔にも同じものが伝うのを感じきっとその両方だったのだろうと推測した。


 アルセンさんによると、熊狼達は巨木の幹に爪痕を付ける事により縄張りをマーキングしていく習性があるという。爪痕自体は古いものから新しいものまで森のあちらこちらで見られるため、縄張りを頻繁に移動させる彼等の特性上、そのマーキングがある場所が現在の縄張りの中であるか判断するには相応の経験が無ければならないという。


 そして彼はその判断を誤ってしまった。

 

 道中でいくつか目にした爪痕を古いものだと判断したか、そもそもそれに気付けなかったのか、そのどちらかだ。そして、アルセンさんは目にしてしまった。縄張りの中心を示す無数の新しい爪痕が付いた巨木が眼前に聳え立っている事に。


 原因は恐らく雨なんかじゃない。


 僕のせいだ。


 僕がずっと拗ね続けていたから、気を取られてしまっていたのだろう。


「アルセンさん、熊狼は近くに居るんですか」

「ああ、恐らくな。気付かれる前に縄張りから抜け出せると良いが……」

「前回は、あっという間に倒していたじゃないですか」

「あれは常に単独行動をするオスの成体が一頭だけだったからだ。子供を連れた母親に比べれば危険度はぐんと下がる。厄介なのは子を守るために母親の凶暴性が増している事と、それに加え子供も狩りに参加するという事だ。そして子供は一頭や二頭じゃない……」


 アルセンさんが言いかけたその時、後方からメキメキと枝が踏み折られる音が聞こえて来た。二人で恐る恐る振り返った先――およそ百メートル程後方に、母親と思しき巨大な熊狼に連れられ十頭近い子供の熊狼達がこちらへ歩いて来るのが見えた。


「ゆっくり木の後ろに回れ。奴らの死角に入ったら一直線に走るんだ」


 アルセンさんに従い、熊狼を注視しつつ身を屈めながらゆっくりと巨木の裏に回る。アルセンさんは先程の場所からまだ動いていない。


「アルセンさん」

「今だ、行け」


 行けるわけがない。


「アルセンさんは」

「すぐに追う、〝振り返るな。行けッ!〟」


 行きたくない。


 だが身体が勝手に動いた。そうしなければいけないという強い衝動が湧き上がったのだ。そして気付いた、きっとこれが“言葉の加護”の力だ。


 巨木の幹を押し、弾かれるように踵を返し、駆ける。


 “振り返るな”というアルセンさんの言葉が、振り返ろうとする衝動を思考の奥底に押し留める。右足を前に、左足を前に、雨粒を受け、風を切りながら、前へ前へ走り続ける。


 木々の間を縫い、茂みを突っ切り、何度も転びそうになりながら、どれくらい走っただろう。前方から明るい光が差し、やがて森を抜け河原に出た。


「アルセンさんっ!」


 ようやく身体が自由になり、振り返る。森の暗がりの向こうから、地鳴りのような足音が響いてくる。熊狼がこっちへ向かって来ているのだ。


 すると、左手の茂みから弓を手にしたアルセンさんが飛び出してきた。


「ヤヨイッ! 〝立ち止まるなッ!〟」


 アルセンさんが森の方へ向き直り、弓に矢をつがえて構える。アルセンさんが今しがた飛び出してきた茂みが文字通り爆ぜ、そこからヒグマほどの大きさの熊狼が跳びあがり、大気を咆哮で震わせながら彼の眼前に迫った。


 その刹那、アルセンさんが放った矢が熊狼の頭部を抉った。高速で螺旋の風を纏った矢が、熊狼の左側頭部を吹き飛ばしたのだ。


 しかし、熊狼の身体は勢いを殺すことなく、手斧を取り出して振り上げたアルセンさんに激突して押し倒した。


「アルセンさんっ!」


 叫ぶが、返事はない。身体が動く。丸石の河原をアルセンさんの方へ駆ける。動きを止めた熊狼がアルセンさんの身体に覆いかぶさっていた。


 ゴワゴワした毛皮に覆われた熊狼の身体をどけようとするが、重くて中々動かない。獣の匂いが鼻の奥を突く。何度も体当たりするように身体全体を使って押し、ようやく少しだけずらす事が出来た。アルセンさんは血まみれになっている。熊狼の血なのか、アルセンさんの血なのかは分からない。力の抜けた腕を両手で掴んで引っ張る。


 目の前の森の中から、子供の熊狼達が次々に現れた。力を込めてアルセンさんの身体を熊狼の下から引き出す。アルセンさんがようやく目を開いた。


「ヤヨイ……何故逃げなかった……」

「“立ち止まるな”と……そう言ったんですよ。アルセンさん」


 そのまま、肩を組むようにして立ち上がる。アルセンさんの顔が苦痛に歪む。脚を怪我しているようだ。顔を上げ振り返る。この川もまた霧に覆われていて、対岸は見えない。霧に紛れることが出来れば、もしかすると撒くことが出来るかもしれない。


「川へ、逃げましょう」

「〝俺を置いて……逃げろ〟」

「〝嫌ですッ! 嫌だ!!〟」


 アルセンさんの“言葉の加護”が僕の身体を動かし、無理矢理逃げようとさせる。


 絶対に置いていくものか。


「〝僕はアルセンさんと逃げるんだ!〟」


 腕に力を込める。川に入り、一歩ずつ進む。動かぬ兄弟の死体を見て、少なからず狼狽えているのか、背後でいくつもの低い唸り声が聞こえる。だがいつ飛び掛かってきてもおかしくない。


 膝下までの水の中を、アルセンさんに肩を貸しながら進む。前方の霧の中へ一歩一歩近づいていく。


 だがその時、背後で空を裂くような咆哮が響いた。母親が来たのだ。


 河原の丸石を踏み鳴らす音がゆっくりと近づいて来る。


 もうダメだ。


 死ぬ。

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