翌日の早朝、調教を眺める環の近くに、環太郎が歩み寄ってくる。環が少し驚く。
「おじいちゃん、じゃなかった、先生?」
「なんだよ、その反応は?」
「い、いえ、いつもモニターを確認するだけじゃないですか。わざわざこうしてコースの方まで見に来るなんて珍しいなって思って……」
「ふん……春とはいえ朝はまだまだ寒いんだよ。年を取ると堪えるんだ、この寒さは」
「それなのにきたということは……グレンノイグニースに期待を寄せているんですね!」
「声を張るな、ドラゴンたちが驚くだろう……」
「す、すみません……」
環は慌てて口を覆う。環太郎は無精ひげをさすりながら答える。
「……半分正解だな」
「え?」
「期待を寄せているっつうことだよ。あのドラゴンは近年ウチに来た中では久々の素質を感じさせる竜だ」
「おお……それでもう半分は?」
「不安だ」
「不安? ケガの様子などは見られませんよ」
環が首を傾げる。
「そうじゃねえよ……俺が言いたいのは、屋根のことだ」
「屋根……乗り役のことですね」
「そうだ……あのペーペーには正直荷が重いぜ」
環太郎がため息交じりでグレンノイグニースに跨る炎仁を眺める。環が呟く。
「でも、紅蓮騎手が騎乗することが、オーナーサイドからの条件でしょう?」
「ああ、そうだ……」
「他に頼める人もいないからしょうがないんじゃないですか?」
「専属騎手がいねえわけじゃねえぞ?」
「もちろんそれは知っています。ですが今週は皆さん予定が埋まっちゃっているし……」
「珍しいことにな」
「有力なジョッキーさんに頼もうにも、先生、露骨に避けられているじゃないですか」
「ぐっ……お前な、孫ならもう少し遠慮した物言いをしろよ」
「孫だからこそ正直に申し上げているんです」
「ふん……」
「ですが、調教を見る感じ、紅蓮騎手とグレンノイグニースの相性はとても良さそうに見えます。流石、孵化の瞬間から立ち会っただけありますね」
「へっ、新竜戦の前もあんな感じだったよ……期待させるだけさせといてよ……スタート直後に落竜って……」
環太郎が軽く頭を抑える。環がフォローする。
「紅蓮騎手にとってもデビュー戦でしたし、緊張もあったんでしょう」
「それにしても粗削り過ぎるぜ。まあ、短期課程卒業者に期待した俺が馬鹿だったか……」
「失望するのはいくらなんでも早いんじゃないですか」
「それはそうだがな……」
「先生も光るところを感じたから、彼をスカウトしたんでしょう?」
「まあな、俺の目がまだ節穴じゃなければ良いんだが……」
「きっと大丈夫だと思います」
「そうだと願いたいね」
環太郎が笑う。
「はっ!」
二人の前を炎仁とグレンノイグニースが走り過ぎる。環がストップウォッチを確認する。
「タイムは……です」
「ふむ、悪くねえな。さてと……後は任せるぜ」
「え?」
「どうしたよ?」
「い、いや、そろそろ未勝利戦に向けての対策を紅蓮騎手にアドバイスしてあげた方が良いんじゃないかと思いまして……」
「同じレース場で、同じ距離とコースだ。新たに対策立てなくても問題ねえよ。色々言っても小僧が混乱するだけだろう」
「い、いや、そうは言っても、相手も変わるわけですし……」
「この時期に早々と未勝利戦に出してくるなら、それなりに期待されている素質竜か、あるいは超のつく早熟か、はたまた有力竜が本格的に出揃う前にちゃっかり勝ち上がりか賞金上積みを狙う空き巣犯か……なかなか読めねえ、対策とってもあんまり意味がねえよ」
「そ、そうかもしれませんが……」
「どうしてもというなら、お前がアドバイスしてやれば良いだろう」
「わ、私が……?」
「ああ、それで不安がなくなるならな……じゃあ、お先……」
環太郎が片手を挙げて、調教コースを後にする。環はその後ろ姿を見て、ため息をつく。
「はあ……ウチの厩舎にとって久々の大物かもしれないのに、あの様子ではとても……これは私がしっかりしなきゃダメね!」
環は力強く拳を握りしめる。
「中山芝1200m……新竜戦と同じですね」
厩舎事務所のホワイトボードに貼られたコースの図を見て、炎仁が呟く。環が説明する。
「三角形のような形状の外回りコースを使用しています。その頂点に当たる第2コーナーの終わり辺りがスタートです。そこから最終の第4コーナーまで緩やかなカーブが続きます。道中はずっと下り坂で、ハイペースになることが多いです。内枠がかなり有利になりますね。直線は310mと短めですが、途中、高低差3.3mの急坂があります。差しや追込竜がよく勝つ傾向ですね」
「なるほど……ということは?」
炎仁が環の顔を見る。環が笑う。
「脚質としては追込のグレンノイグニース向きです」
「へえ……」
「内枠が取れれば言うことはありませんが、外枠でもそう悲観することはありません。スタートさえしっかり決まれば……」
「スタート……」
炎仁が苦い顔になる。環は慌ててフォローを入れる。
「た、多少出遅れても大丈夫です。先ほども言いましたが、ハイペースになることが多いので、そこに焦らずについていき、中団辺りでじっくり脚を溜めるのが良いでしょう」
「勝負は直線ですね」
「そういうことです」
炎仁の言葉に環が頷く。炎仁がぶつぶつと呟く。
「ハイペースに惑わされず……道中は中団待機……直線勝負……」
「正直、グレンノイグニースならばもう少し長い距離の方が向いているかなと思いますが、十分に勝てると思いますよ」
「ふん……」
部屋にいた環太郎が椅子にふんぞり返る。環が目を細めながら尋ねる。
「何か用ですか、先生?」
「俺の事務所に俺がいて悪いのかよ」
「悪くはないですけど……やっぱりなにかアドバイス無いですか?」
「別に無えよ……」
「……冷やかしなら出ていってもらえますか?」
「ああ、もう昼過ぎだしな、帰るわ……ん?」
席を立った環太郎が机の上にある紙を手に取る。炎仁が告げる。
「あ、今度の未勝利戦の出走予定表です」
「小僧……一つだけ忠告がある」
「は、はい!」
「レースは最後の最後まで諦めるな」
「は、はあ……」
環太郎が部屋を出る。
「何を当たり前のことを……」
環が呆れる。そして、未勝利戦の日がやってきた。
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