「お前らもオレと遊ぼうぜえなああ!」
バンの躊躇いは書生の其言に壱切消え入った。スズはと云えば、不相変虛頓と爲た表情を見せるも、兎角彼の策に從う亊へ己れの尊嚴を賭けて居た。其眼は、今か〳〵と折を待ち侘びる。灼き擊つが如き闘志の潜む眸は何處か愉し気な顏附を爲乍ら、木蔭を飛び出す彼を、壱から拾迄見据える。灰色の雲の隙間から溢るゝ陽の目を見て彼は、——傍観者に見守られて、——怯み脚の動かぬ子ども達の許へ颯爽と駈け附けるが早いか、指差しつ、此樣に挑發した。
「おいッ! その子らを、放せ‼」
左の言に振り返った書生の眼は丸で玻璃玉の樣に、其藍色と縦長の瞳とを晃々と蓄える。
「はあ? なに、指図してンだよ萎えチン野郎ォォ……‼ 天才であるこのオレ、ルミクに楯突こうッてえのか屑⁉」
彼はテルルの髮を鷲摑みに爲乍ら立ち上る。片や左手には、庖丁が握られて居た。バンは左れを見聞き爲て、彼を落ち着かすのが先決と悟る。冷かな心頭が無機質に書生を諫めた。
「そうは言わない。ただ、その手を退けてくれないか。……遊びたいお年頃というふうにはとても見えないが、このままだと君は聞き分けがない子どもの一員になってしまう。」
バンは斯う云い乍ら、彼の持つ庖丁に対して憤りを隱し切れなかった。然し乍ら、聞き分け善い子ども達の爲にも、此處は己れを抑え、彼の意識を攪乱させる亊が必要不可闕である。
「なあんだってェェ? てめえ、この蒼い顔したガキィィにナイフ叩ッこまれてえのか‼」
彼は眼附を尖らせて庖丁を構えた。テルルの顎には、徒、其鋩の冷徹さ丈が据わる。膚と膚の間から、勢の好い悪寒が飛沫を上げる。若し、此様な書生も彼形の真善美を備えるならば? ——左う云う考がバンの頭を過る。彼は己れの優柔を愧じると共に、あの庖丁の攻略に苦しんだ。
(う、動けない。……なぜ今さら躊躇ったんだ、俺は?)
彼は融通の利かぬルミクを説得し樣と爲たのを後悔し始めた。表情が强張る。
(こうなればもうあいつに隙は……ない! ——)
霞む展望に打ち拉がれ、彼は強く眼を瞑った。左う爲る中、彼は脈搏に紛れる囁き言を聞いた。——囁き言? と云うにも、脈搏が肝腎な言を悉皆搔き消して仕舞うので、彼に対ては其何方も誼譟と爲て感ぜられた。彼が其聲を判然聲と認識したのは、或『豫覺』、亦烈しい悲哀が、彼の視野を𤆆色に変え、彼の鼓動を停めた其幽玄、夢幻とも附く壱瞬の最中である。彼には理解が及ばなかった。唯壱、譬え難い憤懣に身を灼かれて居る亊の外には。
(——え、ねえ、にいに——聴こえる?)
彼を癒したのは斯かる途切れ〳〵の低聲だった。
(だ、……だれだ! ソールか?)
斜に構えて訊ねれど、彼は其全く聞き憶えの無い聲に救われる心持を隱せない。
(ちが——。わた——行くのは、————先。)
彼女が左う答えると是以上何を云う亊も無かった。先刻迄褪せて居た世界の色彩が、段々元に戾り始める。彼は動かせる頚と眼とを遣って辺りを見渡すと丁度戾り切る頃にルミクを捉えた。結局、聲の主には委細見当が附かない。然し乍ら、彼は、——彼女? の御蔭で此劣勢に於て担う可き役割を發見した。彼は彼女への畏敬を籠めた謝辞を胸中に述べると共に、眼前で胸糞の薄ら笑いを浮べるルミクを、再び睨み附けた。科差し指を立て、又も此様に挑發する。
「などと演ってみたりな、ルミクとやら!」
彼は立てた指を書生とテルルとの間に差して續ける。
「今一度言う。両手を離すんだッ! さもなくば、君の学業は幕を閉じる!」
書生は其言の意を訝った。聞えた途端、大粒の冷汗が流れ始める。何う爲て眼が見開かれ、亦、顏が引き攣って来る。不意と身の毛が彌立つ樣な焦燥と、隈無く己れを襲う正体不明の痲痺。
(なんなんだこりゃ……? こ、……このオレがビビっとるっちゅーのか。オレに殴りかかることさえままならない、あんな骨抜きチキンに⁉ そんなハズはありえない‼ なにが恐ろしいんだ……⁉)
彼は鳥渡周りを見回し、漫ろ此う云い放つ。
「はッ、なにが『幕を閉じる』だ気障野郎! しかしなァ。お前のようなヤツの、愚かなお科好しの多いことよ! この天才オレルミクはわかった! お前の愚策には乗らん‼ ほれ。放してやる——‼」
——ぜ……⁉
眼を丸く爲た彼は、慥にテルル少年を無傷の儘解放した。と云うよりも、外の子ども達に向って突き飛ばした。然し己れに刻んだ罪は相当深いら敷く、彼が不図子ども達へ嘲りと優越の眼を向けると戰鎚を左手に構える双尾髪の少女が緩りと、然れど最早逃れられぬ距離迄迫って來て居た。愾、呼吸——、左う云う振動の壱つさえ立てず、唯其眼附は翳り彼の無樣な虛勢を嗤う。轟々と天罰執行の意志を掲げた幽かな左手へと顯に爲て居る。其、鐵鎚の掌へ。
(し、しまった! アイツも『機軸』、か……⁉)
其處で背を向け彼は又もや眼を引ん剝いた。
「ごぇええ━━━━ッ⁉ ささ、さ……郷長あ……!」
バンと子ども達、其奧には漆尺は有ろう隆々の躰躯が待ち侘びて居る。
「あーあ。こりゃソメンシカってカンジだねー。」
彼女は勇ま敷く微笑した。先程受け止めた少年が、背ろで、彼の許へ駈け附けて来た友達と、視えぬモノに就て奇妙がる其容子を壱瞥してから、未だ抵抗に縋る書生を見据えて此う予め断った。
(しょーもないコ物クンだけど、逃がすつもりもないね。)
「うぐぐぐぅうう……‼」
最早書生の屈服丈を煌めかす其玻璃の瞳に、彼女は唯壱片の優越さえ感ぜられなかった。彼女の機嫌を窺う厭な上眼遣いが、未だ何か秘かに企むのが見て取れる。彼女が猶も邪気無く微笑を浮べられるのは、何う云う惡感情をも、——呆れをも、——通り越した今時分であるからこそ。
「お縄ちょーだいしてちょ━━だい、なッ‼」
書生の腿に弐つ、骨の髄迄銳い打擊が響く。是非も無ければ、慈悲も無い。
(す、……素早いッ⁉)
彼は瞬きも忘れる程悶えた。其劇痛は、彼を意識諸共吹き飛ばす。剰え附いた尻餠は傷を咎め、意識を呼び戾した。彼は壱層震い悶え、地に平伏す。其れを見て、バンは透さず云った。
「みんな! ソールも俺の後ろへ!」
左う爲て此書生は慘めな孤独を得た。彼の頭を擊った球すら、最早其處には無い。果無く廣がる緑と土の上に、其怒り顏を臥せて居る。彼が砂泥に塗れた顏を起すのを、バンは凝と待った。
「さっき、……た。あのガキを解放すりゃ見逃すって、……そう言った……ッ!」
バンは聴く価値の無い言を此様に撥ね退けた。
「合わない辻褄合わせは止めろッ‼ 見逃されようだと? ……彼を害し脅し突き飛ばし、結局今も謝ろうとさえしない君がか! なにもせずして得ようとは、とんだ卑怯者精神だ。」
「待つのじゃ。今、担架を連れて来る。もう止さぬか、バン!」
鄕長の制止を振り払った彼は、地を這い蹲る書生の許へ遅々と歩み寄る。
(オレの『電弧』さえ、アレさえ発動できればあんなヤツ! ……)
書生は唇を嚙み締めた。其處へ彼の手が伸びて來た。
「な、……なんのつもりで!」
「立ちなルミク。まだその右脚は動かせるな? 俺の肩を貸すから、君自身の脚で歩けよ!」
其言は、書生の心に複雑な物を殘す。が、畢竟、彼は心変りには至らなかった。
(しめたァ‼)
晃々と哂う瞳孔は縮み、悅びの餘口角は限界迄吊り揚る。
「やはりお前はマヌケなお人好しだァ‼」
斯う昂った彼は、伸べられた手の頚を潰れん許り握る。軈て其掌中には膏を纏う數疋の蚯蚓が生じた。彼等は其膏を擦り附け乍ら、バンの頚へ走って行く。赫黑い生物の蠢きは、其頚椎を疼かせた。——生物? 皆目左う云う亊さえ判らぬ裡、彼は頚に変な感触を覚え始める。然し、気附けば既に手遅れであった。
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