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「……ただの冗談だ。こっちこそ、悪かった。」
斯う云う彼の真摯な謝辞を受けて優敷く微笑んだ後、彼女は彼の滑かな手を其両手へ穏かに包むと、
「ほんとだよ! この寝ぼすけ‼」
――もー!
と華奢な頚を傾げた。此少女が猫の子壱疋も居ない樣な処にひとり髄途身を起して居たのを考えると、彼は壱寸丈居た堪れぬ心持になった。が、其れよりも、彼女の暢気が彼の目には酷く健気に映った。其凛々しい笑顔には、何処からとも無く差して來る天日を以てしても敵わぬとさえ感ぜられた。彼女の童顏や言動には、彼女のsteampunk染みた服装や妖し気な眼から彼が見出した刺々しさは殆ど無い。其諸手が冷たいのは、彼女が形容し難い手套らしき物を身に附けて居る爲である。不可解の現実が故に生じた誤解は、斯うして如何にか目出度終熄した。物の、彼は数多の蟠を、暫時、其胸中に残した儘であった。然し其れ等は偏に幾つかの疑問の有った爲に、彼の眼中から隠れて仕舞った。
「寝ぼすけって? そんなに長いこと俺は眠っていたのか?」
握手を放されて彼は左う訊ねる。すると彼女は頷いて肩を竦め、
「そりゃー、あたしが化けて出ちゃったものー。」
──あなた天で起きてくんなかったし。
と云う成り唐突に背ろを見せたと思えば、助走を附け、怨めし気に空中浮揚をして、花瓣が如くはらりと舞いながら、彼の方へ向き直る。彼が再び其躍動へ愕きを呈すると彼女は、邪気無い樣な気色悪い樣な、兎角活発な笑みを溢した。
「ほらね?」
彼は覚えず苦笑を浮かべながら追々訊いた。
「具体的にどのくらい?」
少敷く顏を傾け、左の樣に云って來る彼に対し、彼女は口を開け放しに惚けた表情を見せると其儘黙り黑って外方を向いた。
「まさか、数えていなかったとか? ……」
彼女は彼の口から左う出掛かるが早いか、
「そんな訳! ……って言いたいけどー。あるのよねー。」
と云うと腰に両手を宛てながら、落ち着き払って此様な辯明をした。
「百年。一世紀、経つまではちゃんと数えてた。途中から、なんか、どーでもよくなっちゃってー……。」
其肩身の狹さに俯いた後、彼女は肩を窄め、其顏を揚げる序に含羞んだ上眼遣いで開いた口の塞がらぬ彼の容子を窺った。其真実を彼は、口を閉じ、眉を潜めつつ確りと噛み締めた。現今時間とは全てを呑み込む理不盡の坩堝が如くである。が、彼は逆に己れの命に猶予が与えられた丈増だと強いて思い込む亊にした。彼は遠い眼をして彼女を見詰める。其全ての行方が知れなくなったのを差し措いて。暫時してから、彼女も亦彼を睨め附けると、開掌、其両丈高指を神妙な自らの面持へと差しながら彼に開き直る。
「あたしが疑わしい? ……別に信じてなんていらないですけどー!」
彼女は、再び腰に手を宛て、左う、余裕の表情を見せた。にも拘らず、猶沈黙を貫く彼に思う処が有るら敷く、
「ハナシが分かんないみたいで助かるよー。」
と立て続けに云うと、外の景色へ指を差した。
「……あそこから陽が当たってるじゃない? あたし、あなたが起きるまでの退屈しのぎに、ちょこっとだけ仮眠をとってたんだー。んで、ある日、起きるとさー。ここに、ヤバイくらい砂がなだれこんできてたのー! それが、あのトビラの窓みたいのから漏れまくっててー……」
流石の彼も、突飛な話を其処迄嬉々として語られると來る物が有るら敷く、遂に動揺を隠すのが難儀になって來た。
「へ、へえ。どうやって片づけたんだ、それ?」
眉を困らせて微笑みながら、彼は仕方無く左う返して遣った。左う云う話を聴く中、丸で拾にも満たぬ子どもとでも談して居る樣な気がして來たのである。
「それからー、何年だか何十年だか経ってさー。スゴク胡散くさい二科が、あたしたちのことに気づいてくれたのー。」
──あたしたち晴れて『掘り出しもの』だね!
彼女は眼を耀かせ、拇を立てて、大体左の樣に云った。
(な……なんか違うし。調子狂うなあ……)
其稍苛附いた容子を苦笑の下に隠して、又新しい質問を投げ掛ける。
「そっか。彼らが大量の砂をどう片づけたかはともかくとして、今どこにいるんだろう?」
彼女が賢しい表情をして壱寸唸ると、
「わかんなーい。」
と、支えの取れた樣に意気揚々として云った。彼は其れを後目に再び階段前の扉を開き、微風の流れを確めた。陽の光は彼が見返るのと一緒に、彼女の傍迄遣って来た。少し捻くれた寝癖の如き彼の頭髪が、通り縋りの優しい風に揺らされる。斯かる午睡の温度には眼が無い彼女であるも、此少年の智に働かず情に棹せぬ物云いには其眼を逸して仕舞った。左う云う手の性格と解り合えた憶えが丸で無かった彼女は、彼の壱挙手壱投足にさえ当惑を禁じ得ない。
「……なら、俺と一緒に旅でもしよう。……ほら。確かめ行くんだ。」
彼は軟く微笑むと左の樣に云う。彼女が外方を向いた儘だったのを案じると、扉をそうっと閉めて此う続けた。
「どこか良くないの? ……ありがとう。こんな所を守ってくれて。きっと、ここから出れば!」
彼女は左の言を前に何度か頚を横に振った。其処を、彼が理由を訊ね樣とするが早いか彼女は答えるともなく微笑んで云った。
「ゼッタイ、直んないよ。……あたしはもうダメになっちゃったの。」
──だからもう行っていいよ。
彼は左の樣に顏を両手で堅く閉して仕舞った彼女を悲愴がって、暫時は何も返せず、何気無く彼の寝棺に橫眼を流した。実の処得も云われぬ不安を抱えて居た彼は、又直ぐ彼女へ眼を向ける。佰年間、或いは彼女が生れた時から、彼女の心臓は、計り知れぬ程の巨きな呪縛に軋んで來た。唯壱悩める彼女を解き放ったのは『享受』に外ならなかった。彼女は『享受し』続けた。彼女に纏わって來た莫大な呪詛を、彼女を鎖して來たモノを。何色をも受け容れて仕舞う白紙と化した彼女は、遂には死すら『享受した』。──その筈だった。
「旅がイヤなわけじゃないの。行く意味がないんだ。あたし死んでるわけじゃん⁇ そんな資格もないだろうし。」
彼女は歔欷を堪えながら云う。次第に彼女の中には、彼に対する懐疑心が芽を出して來た。
(なんで外に出ようなんて思うの? イヤだよ。あなたは恐くないの? ここで寝てたいんじゃなかったの? どういう理屈? なんのために行くの?)
──もう、なんにも残っちゃいないのに。
彼女は彼の記臆が全て廻生の中に、柩の奥底に錆附いて居るのを知って居た。此亊は当然ながら、彼も疾うに自覚して居る。
「だからなんだ。」
柩から向き直った彼は突然、低声で左う云った。先刻迄の彼には無かった鋭尖が、彼女の耳を穿つ。
「……へ?」
虚を衝かれた彼女が掠れた聲で聞き返すと彼は続け樣に叱咤した。
「生きていないだと? 意味? 資格⁇ そんな大層なものが、どうして今出てくる! 答えろ‼」
左の言に彼女の胸中は少し高鳴り、強張った。と云う物の、怯えよりも先に怒りが湧いて來た。
其微風は壱体何を囁いた――?
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