(3/4)
「うっさいなー……。あたしが外に行く意味なんて、なんもないのー。」
──そんなヤツに割く時間、もったいないよー?
斯かる彼に面喰らっても結局怒る気の起らなかった彼女は左う軽やかに遇った。──怒る気の起らなかった? 苛立ちを感じて居た其心は、実際全く怒りを露にし度ない訣でもなかった。寧ろ本当は怒り返して喧嘩を賣って遣ろうとさえ思った。然し、此時は何うして肝腎の怒り方と云うのが判然しなかったのである。是は別段彼女が其れを忘れて仕舞ったのでなく、亦此外の物亊にならば肚に据え兼ねると云う話でもない。生前彼女は壱度だって、叮とした理由を以て叱られた亊が無かった。剰え、云い返した亊すらも。
「意味など無意味だ! 俺たちが後から作りゃあいい!」
彼は眼を瞠って彼女に近附くと、
「来なよ。たかがひなたぼっこに、資格なんかいらないって。」
と薄目を開きながら、右手頸を彼女が痛がる位ぐいっと摑んで遣った。摑んだ其手を背に尾けると、彼は再び歩いて奧の扉の前迄辿り着いた。和らいで行く壓迫の途次、不意に彼女は奇妙な亊を発見した。誰からも名を呼ばれなかった生前と、誰の名を呼べども悉く届かぬ死後。滑稽な程孤独で冷暗の、退屈極まる対蹠的記臆に彼は例外だった。其れに拠れば、彼女の瞼を此処迄強引に抉じ開けたのは、是迄唯彼ひとりの外には居ないらしい。
(どうしてあたしのことなんか助けるの? だれひとりからも期待されなかった、こんなあたしを⁇ ……なにか狙いがある。結局みーんなジブンがかわいいもんね。彼だって。いざとなったら置き去りにさせちゃう! あなたはきっといつかあたしを嫌う! あたしだって、大嫌いだ‼ こんなにも無力でどうしようもないジブン‼)
彼女の身体は彼の隙と時機を狙って不図した瞬間に動いた。
「? ……って、なにやってんのおおおおおお⁉」
彼は、限り無く無秩序に階段上を轉落して行く彼女を追い掛け、又急いで来た処を引き返して行く。其処へと通ずる扉は、唐突に降って來た幽靈少女を受け止め樣と試みた。が、彼女が其れを透過して行くと僅かに辟易の身震いを見せた。彼女は向い側の壁へ背から衝突し、疳髙い悲鳴を挙げると其場に長坐をしながら己の生存を慥めた。
(今のじゃ死なないんだー。……いいんだよソール。どうせあなた、お役ごめんなんだから。)
生きる亊に就いて、最早何う云う値打ちも見出せぬにも拘らず、猶も執拗く彼女を此世に居坐らせ樣とする自らの悪運へ、彼女は苦痛に仰け反り、息を切らしながら左う云い聴かす。天井の蒼きを、瞼裡の黑きを夢に迄見て居た其双眸も、自らが染まらんとする物の深さを知った途端徐々に霞んで來た。彼の聊か騒々敷く覚束無い跫音と扉の開閉は再び此樣な呼び掛けと共に彼女の眠りを妨げる。
「痛あッ‼ おーい! 無事かあ━━ッ⁉」
彼は急ぎ彼女の傍に膝を附いた。華奢な肩を揺する彼の手が、彼女には酷く心地好く感ぜられる。
「ナア。おいナア! ──な、なぜニヤついて⁇ ……お、おお━━い‼ 諦めるな! 頼むよ、起きてくれ……!」
──君のことが必要だ!
左の言が彼女の心を斜めに射止めた。何れ丈努めても終ぞ貰えなかった壱言に、彼女の表情は不図崩れ去った。
「……あ。ご、ごめんなさい。」
覚えず我に返った彼は、所作を慌ただ敷くして謝辞を述べた後、
「もとい! ──俺は君を信じる。なあ、さっきの話は本当なんだろう?」
と、赤面の儘、言を続けた。彼の執拗さには、然しもの彼女も参って、霞掛かった其視界を開かざるを得なかった。
「……そりゃーほんとーだけどさー。」
漸と左の樣に話をし掛けた直後、彼は又割り込んで喋り出そうとする。
「けどさー! ……」
彼女は其処を、彼女の持てる限りの大音聲を以て彼を沈黙させてから此う続けた。
「足、折っちゃったみたいなのー。イタいし、ここに居たいな。」
――つって!
苦い笑みを咲かせつつ洋袴の裾を捲り揚げると、其珠の肌には悉皆似合わぬ赤黑い打撲の痕が惨憺と刻まれて居た。彼は膝の皿を壊した其脚を目の当りにして、絶句する外には如何爲樣も無かった。あの時、彼女を手放しさえしなければと思えば思う程、彼の顏は壱層忸怩そうに蒼褪めて行った。
「気持ちだけ受け取っとく。どうせついてっても、あたし悪霊になるだけだし。」
彼女は其旅路の、或いは流浪の顛末を悟り、大体左の樣に諦観した。と雖も、彼女の本意は最早ああ云う彼を拒否しては居なかった。
「ほら。例の二科の特徴なら教えるし、あなたはあなただけの旅を楽しんできてー。楽しいがイチバン! でしょ?」
斯う云う見届けをして遣る位しか彼女には爲せぬらしい。彼は何か外に訣が有るのを察して、
「であれば背負っていく。」
と照れ隠し序に背中を向けて彼女へ云った。青空の深淵が如き紺碧の肩巾が、彼の左う云う所作に手靡く。
「どこへ行くにも、楽しい旅には荷物がツキモノということだ。」
彼が半ば戯けて左う云う屁理屈を云い出すや否や、蜿蜒たる其肩巾は彼の衿からするりと外された。
「さっき君は言ったな。生きる意味などないと。」
己れの腹と彼の背とが接する。脚を開かれるのが余程気羞ずかしいのか、少し丈彼女は其れに抵抗し樣とするも直ぐに押し敗けて仕舞った。
「そんなもの、大体何だっていいだろ! 資格だなんて、気にすることじゃあない。」
歩けぬ彼女を寛容に持ち揚げ、彼は左う云って重たそうな素振りの壱ツも見せず、唯、彼女に橫顏を向けながら歩き始めた。微笑う彼の橫顏は明い陽に逆光を起して居る。彼女は左う云う陰翳の無い彼へ、遂に彼の揺るがぬ意志と襤褸々々な心持とを見出した。彼女を白紙だと云うならば、彼は差詰め水墨である。彼女は孰れ透明と成る運命に従う己れと、抗う彼とを鑑み、壱時は彼に慮って委ねて仕舞おうかと考えた。
「でッ、でも! あたし何にもできなかった!」
彼女は然し敢えて彼に左う訴える。此儘では髄途己れの白紙なのを悟ったのである。
(違う。コイツみたいのがあたしをダメにしちゃうんだ。)
彼に甘んずる亊には己れの惡癖は直らぬと踏んだ彼女は、己れの『無資格』に就いて此樣に解説した。
「こうなる前からこうだった‼ 昔も今も、他科の役に立つどころか、祈ってばっか、願ってばっか、望んでばっかの、とんだハタ迷惑な死に損ないさ! ……あたし、きっと閉じ込められちゃったんだー。何か嬉しくてこんな所いると思うー? んな訳ないじゃん。何回も試したけど出れないんだよ! ……」
──たぶん神様からの罰なんだろーねー。
不可視の其れに罹って居るのは彼も壱緒か知れず、或いは彼女の贖罪に彼を巻き込んで居るのかも知れない。科の目に映らぬ彼女は、彼へ話す中に大体左の樣な亊を考えては、奇敷くも段々己れと同じ眼に見えぬ存在を畏れ出し、聲を震わせた。左う云う彼女の言の餘莫迦気て映った爲に、彼は思わず吹き出し、
「神などいるはずがないだろう!」
と前に向き直り、云って退けた。彼女は其れに口を覆い度なる程の愕きを隠せなかった。
(え、え━━‼ この子、なんてこと言い出すの⁉ それにあたし、いるハズのない存在の代表格だけど⁉)
彼女が無頓着の彼に斯う思うのは偏に彼等の宗教思想の異なる爲である。
「違うって。……『忘れて』しまったのかよ、君は?」
何も憶えていない彼は、然しながら判然理解した紛れの無い壱ツの亊実を彼女に告げる。
「もし神とやらがいるにしても死ななかった‼ 生きていてもいいんだ! ゆるされているんだよ、俺たち! ……いや、たとえ神に言われたところで、俺は死ぬものか! 意味や資格、権利など必要ない! だれが持っている物でもない‼ だって、俺たちは産まれて来たろ! だからここにいる‼」
──生まれよう、もう一度。
彼は又、橫に向って微笑みつつ、左の樣に発破を仕掛けた。彼女に再三『無資格』を説かれた彼が、其意味を判らぬ筈はなかった。
「しつこいなー。無理なもんは無理だって言ってんじゃん!」
彼女が抗う亊から眼を背けるのも止むを得ない。彼女は、彼の言と彼女の信ずる神との板挾みに喘いだ。
「いける! いけるさ……! 一度は乗り越えた試練だ‼」
彼は俯いて背中を丸め、再び彼女を叱咤する。是は別段嫋々とした彼女に立腹したのではない。が、先刻ああ啖呵切ったのにも拘らず結局何も考え附かぬ己れが、亦、不可能だと背ろで嘯き続ける彼女が、最後の『巨きな』扉を目の前にした彼に対っては、唯、酷く堪え兼ねた。苦悩する彼を見た彼女は、思わず、
「いいから! あたしなんか捨てて立ち去ってよ‼ もーっ! 取り憑いちゃうよー⁉」
と、彼を突き離す樣に空中へ遁げると脅し文句を附けた。彼は、左の言に何か発見したらしい。
「なるほど……! わかった。……やってみてよ、それ。」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!