先程彼女が這入った処を男は逆へ遅々進んで行く。彼女は唐突に行儀の善い挙手をし、微笑いつつ謝辞を述べた。彼は壱先ず其肩巾を正し、男の背ろを辿る彼女の左隣に並んだ。山林内は獣道に荒れ、彼等の考えた樣な居心地の好い場所ではなかった。が、動物は歩き易い処を通る爲に駄辯りながらでも下り易かった。
「う━━っ、青クサーい! このヘンとか、とくにキッツいよー……。」
彼女は物の数分で斯う云う愚痴を溢し出した。
「もー疲れた! うええっ、おうち帰りたーい!」
「帰ってるよ。今、現在進行形。」
幽靈と雖も常には浮揚出來ないら敷く、萎びた聲を張り揚げる彼女に彼は云う。
「ところで、……ソール。」
彼女の気を紛らわせ樣と爲て、少し吃りながらも彼は、此樣な談を振って見る亊に爲た。
「君は憶えているんだよな? 名前とか百年以上前のこと。」
彼女は眼を外方に向けて左の言を否んだ。
「ほとんど憶えてなーい。なんであんな所で寝てた? とか、なんであなたと一緒に? とか、あたしだって知りたいんだから、聞かれたってわかんないや。……あ。そーだ。名前はねー、書いてあったんだー。」
左う云って彼女が何処からとも無く取り出したのは戰鎚であった。彼は其石突を見て肝を冷した。が、彼へ正面を向って浮かんだ彼女は、前方へ倒れぬ樣に石突と槌頭とを抱えると、柄の或部分を注視する樣に傳えた。其処には慥にThorと云う文字列が、彼には讀めぬ程極小さく刻まれて居る。
「ふーん。良かったよ。君だけは、わりとしっかり者で。……」
彼は草臥れた肩巾の裡を覚束無い手附きで弄った。
「君がいなけりゃあ俺は野垂れ死にだった。」
互の胸中に互の煙が漏れ出した。何も彼は、場を濁し度てああ云った訣ではない。
「バンッ!」
其処へ突如モリブデンの壱聲が響く。彼女は眼を丸くし、亦彼は辟易えて覚えず歩みを停めた。
「ちょ、……な。なんですか、いきなり声高に!」
飛び立つ鳥達を見送ると彼は再び歩き出して左う訊ねた。
「お主こそ。なにを怖れる!」
男は微笑いながら、此う返した。
「縦しんばすべてを失い忘れども強き者は硬い。……或いは地位やチカラを得ども、儂のような弱き者は脆い。名は儂らを形成しているが、それ以上に儂らが名を形成する。お主の心は名にも記憶にもチカラにも左右されず、永遠にお主の物なのじゃよ。……しかし、まあ名無しもイカンから、『バン』と呼ぼうと思う!」
風防を捲って彼へ糸目を向ける男に、彼女が不図訊いた。
「せんせー、質問でーす。どーして『バンくん』なのでしょー?」
男は前に向き直って答える。
「首にバンダナを巻いておるじゃろ、だから思ったワケじゃ。『コヤツはバンだな』となッ!」
眼も宛てられない。然し彼女は勇気を振り絞った。
「……せんせー、もうひとつ質問でーす。バンくんの首巻きは……、その、スカーフなのではー?」
「えッッ?」
彼等は左う他愛無い談を遣る中、山の中腹迄下って來た。矢張り獣道である故に憩いの場のひとつも見当らず、彼等はソールの脚の蹣跚踊る許りなのを見兼ねた。男は堪らず、周辺を見渡して云った。
「ふうむ。ここいらで、ちと休憩しよう。」
拇の差された其処には奇麗な倒木が、丸で坐る爲に斬り落された如く橫わって居る。
「え━━? コケムシてるし、とにかくなんかイヤだなー……」
彼女は丈髙指と紅差指で己れの頰を突きながら、俯き勝ちの眼を外方に流して低聲で云った。
「そんなに嫌なのか? ワルイものでもなさそうじゃあないか。俺は座ろう。」
男が腰掛ける隣へ、左う云って彼は深く坐って見せた。日照の直に当らぬ爲か、倒木は心地好い冷かさと、手や脚に擦れても全然平気な程の滑かさ、其湿気に伴い郷長が坐って壊れぬ丈夫さを兼ねて居る。
「うー。……わかったよ、あたしが言いだしっぺみたいなものだしねー。」
左う云うと彼女は彼の左隣へ恐る恐ると腰を下した。然し、彼女に対ては何と口惜敷くも、惡い居心地とは迚も云い切れぬ樣な微睡が彼女を襲った。叢雲の造る朝焼けの峽谷を暫時見揚げて居ると、其安堵は不意に睡魔の波浪と化して彼女の心の耳朶へ押し寄せた。小さな欠伸がふわりと溢れる。彼は其れを差し措き、
「モリブデンさん、ところで……」
と鄕長の方を見て質問し掛ける。遮る樣に、
「いんや、儂のことはモリブデンで善い。」
と男が云ったので、彼は男の亊を左の樣に呼んで續けた。
「今向かっているのはいったいどんなところなんですか?」
男は熟考し、其最中に腕組みを爲つつ此樣に返す。
「……まずお主は、眠る以前、世界にどんな災禍が訪れたか覚えておるか?」
左の問に彼は頚を橫に振った。すると、男は風防を脱ぎ、橫顏を見せながら續けた。
「『空の目』。」
穩かな糸目が彼の右目を凝と捉える。
「それはある日突然として儂らが『陽龍の郷』の上空にも現れおった。」
彼は固唾を呑みながら姿勢を男の方に向けた。
「力の衰え、ふたつに分離していた儂ら郷の民は、ある者は『薜茘多』と、またある者は『靈鬼』と化した……」
——薜茘多は常に腹ペコのバケモノ! 靈鬼はちょうど主のお隣さんにうたた寝しとる。
男は大体左の樣に説明した。胆を冷した彼は、覚えず健かな鼾の聞える方へ振り向いた。——ソール? 彼が不図独り言つと、轉寝の境地に居た彼女は大きな伸びを見せた後、彼の真剣な表情に寝惚け眼を擦りながらも虚頓と訊き返した。其所作に、彼は先刻寝棺の中の己れを呼び覚した其時の、彼女の心からの壱言を思い出した。
(なにも悪くないんだ。……そうだよな。)
彼は左う微笑むと優しい聲色で彼女に此う云った。
「起こしちゃってごめん。なんでもないよ。……まだ、寝てて。」
彼女は壱層虚頓としながらも、再び午睡へ其身を投じた。
「——モリブデンはどうやって怪物から戻ったんですか? ソールは、……戻せませんか?」
彼女の容子を見計って彼が訊いた。男は俯くと、彼女の方を見ながら云う。
「無理じゃろう、治してやりたいのは儂とてやまやまじゃが。」
彼が何を訊ねる迄も無く、男は言を續ける。
「儂らを戻した『閻魔王』のおチカラをもってしても、ソールだけは治らぬらしい……」
左の言を聴き、彼は黄昏れ度なって來ながらも必死に訊ねた。
「その方は今どこに?」
在らぬ方を見て呟く樣に男が答える。
「それが……、さっぱりわからぬ。ようやっと『陽龍』という科として統率のとれてきた儂らのことを、どこかしらから見守られておるのじゃろうか。はたまた郷の外へ更なる抜苦を施しに行かれたか? ……」
互の眼が遇い、彼と男とは少時神妙な其空気に喋る唇を擱く外無かった。体幹を保てなくなったソールが其柔かな頭を彼の左腕に衝触る迄、彼等の顏は俯いた儘であった。彼女は、硬い何かに頭を襲われたと云う樣な錯覚を起して、彼等に呼ばれるとも無く飛び起きた。眼を白黑と慌ただ敷くさせながら、只管辺りを見回して居る。
「首いたっ! はあ⁉ なに、トリでも飛んできた? ねー、ちょっと。あたしぶたれなかった⁉」
彼等は徐に顏を寄せる彼女の愕き樣を見て、夫々少し丈和やかな心持を戻した。
「さあ、そろそろ下山を再開するぞ!」
と男が立ち揚がりつ云う。其れを聴くと彼も起立し、彼女の眼を見ながら緩り微笑んだ。
「帰ろうソール。……雲多いし、ほんとに雨でも降るかもしれないって。」
彼女は又虚頓として痛む頚を傾げた。歩き出した彼等を眼前に、彼女は急ぎ足で追い掛ける。
「ちょーっとー! はぐらかさないでもらえますー?」
眉を顰め、小喧敷く左う云った彼女へ堪らず彼は答えた。
「激突されたの、俺のほうだけど。」
彼女は壱ツ飛び跳ねて口を塞いだ。的切外の所爲と云う見立てを爲て居たのである。
「ああ。それは、それはー! もーしわけございませーん。」
彼は素直な謝辞を彼女が述べて來たのが壱寸意外に感ぜられた。
「じゃあバンダナって、結構じょうぶなんだねー。……戦ってみない?」
又先刻の樣に戰鎚を構える彼女に対し、彼の蚤の心臓は縮こまる許りだった。
「みないよ‼」
「あれれ? ん。もしかして、女子に負けるの、コワいのー?」
彼女は左う煽動し樣として態と怠絡みを仕掛けた。が、彼は殆ど動じなかった。
「普通に怖ろしいよっ! ハンマーを構える女の子がね‼」
彼が息卷いて云うと、彼女は困惑に表情を腑抜けさせて首肯く。其遣り取りを聞いた男は大笑いを溢した。
「そうさなあ。科たる者、洒落半分にも争うべからず。……かの御仁も言っておった。」
壱度深く眼を瞬かせると男は首肯の後、『閻魔王』に仮託して左う云う。すると、出來し立ての彼等に対って聞き憶えの無い文句が男の口から飛び出て來たからには其亊に就て訊ねざるを得なかった。
「ねー、モリブデン? 『科』って、あたしたちのことー?」
「そういえば先ほど、郷の民のことだと言っていた。俺やソールとは、違う存在。」
男は又頷くと彼が呟いた推察に此う附け加えて答えた。
「儂ら陽龍が科とすれば、お主らは差しづめ『非科』と言ったところか? ……いや、それではあまりにも、——スマン、忘れてほしい! ともあれ、お主らが儂らと異なる生命というのだけは間違いない。」
額に掌を宛てた男が煮え切らぬ表情をして、大体左う云う亊を述べた。発言の撤回は、畢竟此男が、己れの孫か曾孫か位に見える彼等へ懇親の意を覚えた爲に、蔑まれる樣な赤札を絶対貼り度ないと云う意思からに外ならない。罷り違えても区別と差別との履き違えを起す訣には行かぬと、男は暫時考に黙り黑った。
(参った、参った。……儂らはどう接し、いかに受け容れるべきじゃろうか?)
——ああ天の尊よ、教えたまえ。
第弐話 叢雲 - Haven -
初期設定のころソールちゃんは異世界モノでいうところの女神様でした。
亊故死したバン君を雲の上からサポートする役。
キャライメージ
「明朗ではあるけれもど、闊達ではなくこだわりが強い。
自分を労ることは怠らない。
ストイックな子だけれども他人には非常に寛容かつ献身的。
ミーティングやディベートなどのムズカシイ話し合いっこはニガテ。
良いことも愉快なこともすべて周りに言いふらす。
イタズラっ子。意外とシッカリもの。」
みごとなトラブルメーカーっぷり。
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