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目を見開くと彼は何処か確信的に微笑み、両手を開いて左う提案した。──其処へ、外から或跫音が、信ぜられぬ程の閑けさで彼等の許へと近附いて來る。獣道の砂利を踏んで居るに拘らず其壱歩すら彼等の耳朶には入らなかった。──彼女は餘に突飛な彼の発言を聴き違えたかと首を傾げると、
「何言ってんの? アタマまで腐った……?」
と、右の双尾を緩りと科差指に遊ばせながら、覚えず、左の樣に罵った。
「てゆーか! 万がイチ悪影響出たらどっちのセキニンだと思って──‼」
斯かる罵声を聴き、仲裁に割り込んだのは、扉の向い側から鳴り響く多らかな拍手である。彼は脊髄反射的に、彼女は其彼に連られ、扉の窓から或大男の風防姿を覗き見た。其男は大地が如き黄土の、cashmereの外套を目深に纏い、銀の皇帝髭を携えた口と顎と丈を顕にして居た。行き成り扉を開けて這入り込んで、
「ノーサイド。ノーサイド、ノーサイド!」
と男は彼等に歩み寄る。彼女は豪快に微笑う此男を見て、前傾になって此う云った。
「あ‼ あなたはー!」
物の、勢を落し、赤頬に科差指を押し宛てて直ぐに参った容子を見せて、恰も平然とした愛想笑いと共に、続け樣に訊ねた。
「お名前なんて言うんでしたっけー?」
此男こそが以前彼女を土砂から助けた張本科である。彼は突然嚙まされた大呆気に、
「モリブデンじゃあッ!」
と大きく応えた後に腕組みをして此う云った。
「……とりあえず。ここから出るか、お二方?」
先程から兎に角其亊を考えて居た彼は当の彼女より先に男の言へ飛び附いて、
「ああそうだ! 彼女が、彼女が……!」
と云い掛かっては、口惜しさに目を落して仕舞った。彼の慌て樣から唯亊でないのを察した男は、微かに呻き声を揚げる彼を気遣って優敷く訊ねた。
「どうした。落ち着いてからゆっくりと話してみなされ。」
彼は急にとモリブデンの膝下へ縋り附き、風防で隠れた其顔を見揚げる。
「あなたは知っているんですか! ……俺と彼女! いったいどうすれば一緒に抜け出せますか!」
彼が叫ぶ樣に問うと、モリブデンの口許から微笑が消えた。其代り、儼しい表情と共に喝した。
「落ち着けと言っておろうが。」
──これァ驚いた。
「あるか、覚悟。命に代えても彼女を幸福にするッ! その意気。あるのかね、え?」
男は瞠った眼の光を風防の下の彼に放ち、問い質す。彼は壱寸怯みながらも辟易せず、
「あります。その為なら、俺はどのような代償も厭わない‼」
と男に豪語した。先刻迄彼女が向けて居た曇った眼も、尋常ならぬ彼の意志を反映して輝き出した。丸で悪酔いから醒める如く、唯、彼女は其口を覆って、是迄の軽佻な言動を後悔し始めた。
「うむ。……さらば善いじゃろう。儂の言う通りにしなさい。」
男は彼女を壱瞥し、彼女の耳を傾けたのを確認すると此樣に続ける。
「お主は彼を憑代とすれば、この匣舟から抜けられる。何故お主が今時分ここに居て、この場を離れられぬか? 他でもないお主自身が死を怖れ、拒むにもかかわらず、外界に対してその心を閉ざしておるせいじゃよ。お主は地縛霊と化している‼ この世が厭で〳〵仕方なくともお主はここを離れたくなかった。」
其れ迄浮足立って居た彼女は、左う云う指摘に弱腰ながらも指を差し返さんと試みた。が、幾ら狡猾な彼女と雖、頗る心覚えの有る言が胸に刺さって壱堪りも無いらしい。辯の立つ其筆は斯かる話の中に折れ、陶板の床へ膝から崩れ落ちた。先程彼を欺く爲に態と折れた儘にして居たあの右膝から。苦痛は無かった。彼女の靈力が直ちに右脚を治して仕舞い、殊に彼等の真摯な言は彼女の傷心を緩和した。未練とは、頼りっ放しだった追臆の中の知科に、友科に、彼女の家族に頼られたいと云う、唯、其壱心に外ならなかった。彼の云う通り、今迄彼女は最も肝腎な処を『忘れていた』。未練が叶わなかったのは果して、他科や己れの所爲でも、神が創る運命抔と云う物の所爲でもない。此男は正鵠に壱本の矢をも外さぬが如き教導を施して見せる。
「それは、たが為じゃ? あの時、だれを助けとうて儂らの手を借りた。おのれ自身か、ん?」
彼は外の容子を窺い、微笑みながら此う続ける。
「儂にゃあお主らのことがわからんでのう! これ以上無闇な口出しはせんつもりじゃが!」
──良いのか、ソール?
久敷く聞憶えのなかった其名前に彼女は息を呑む。彼女には、ひとり幼馴染が居た。幼少の頃よりの親友である。──親友? 彼の亊を左う位置附けるのは、今の彼女には可也背ろめ度感ぜられた。壱度解いた肩巾を巻き直し、彼は再び彼女の眼前に其痩身を、縮れた黒髪を顕にして居る。
(おい。それでいいのかソール‼)
彼女の脳裡には斯う云う言が響き続ける。
(だってだれも悲しまないでしょう?)
気附けば彼女は眼前の風防と肩巾と、脳裡上に谺する其声に向って左う云い返して居た。脳裡の彼の言は遂に其処で途切れて仕舞った。が、彼女の耳朶には、未だ、其澄み切った聲が聞え続けて居る。
「ソール……」
無念の壱聲である。彼は眼を閉じ、彼の肩巾を強いて握り締めた。彼女は初めて、今の彼が彼女へ投げ掛ける言の意味を理解した。其れは何に対しても御坐成な彼女のみならず、壱向に顕れぬ彼女の自我と聞える樣で聞えない心音とへ帯びた純粋の憂えに彼の胸中が張り裂けて仕舞ったのに外ならなかった。
「……わかった。わかったよ。あたしも行く。行けば、いいんでしょ。」
彼女は今に背を向け樣とする彼を勢の無い声で引き留めた。其後立ち揚がり、洋袴と諸手の埃を払い、腰に其手を遣り、今度は附かぬ決心を附ける爲に、向き直った彼等に此樣な頼みを云った。
「ちょっとだけいいかな? 長らくお世話になったこのコにお別れのアイサツがしたいの。だから、ひとりにして。おねがーい。」
肩巾の彼は其れを聞き、耀かせた眼と共に微笑むと何処か淋しそうな眼をして応える。
「全然ちょっとじゃあなくとも良いさ。でも、戻って来てよ?」
──出てくるまで、待ってる。
彼は身体を又扉の方へ向けると風防の男に牽かれて其匣舟の表に出て行った。
「うん‼ ありがとねー! ……アイサツだけだから‼ すぐ戻るからねー!」
左う叫んで、彼女は寝棺の在る処へと戻って行った。彼の呉れた又と無い衝動を胸に抱えて。
「モリブデンさん。こんにちは! お初にお目にかかります。」
外は丁度黎明頃であった。隔世の風が迚も心地好いので、先刻迄の暗黒と重厚との壱切が丸で幻であった樣にも感ぜられる。彼は左う云う寂寞を如何にか紛らわそうと、目の前の道端に座る大きな背中へ深くお辞儀した。此風防の男は何時しか彼等の仲を取り持った。が、彼は内心頗る怪訝であった。
「ん? ……おお、そうじゃったのお。こちらもまだ、挨拶を済ませておらんかった! 失敬、失敬。」
男は左う謝辞を述べると彼を男の隣へ坐らせ、風防の附いた外套を脱いでは其逞しい右肩へと掛けて仕舞った。
「儂は、モリブデン。一往『陽龍の郷』が長を務めておる。」
──と言えど、何が何やらじゃろうがなあ。
男は不意に堅い表情を崩す。
「先ほどはありがとうございます! 彼女、あのままじゃあどうなっていたことか。」
彼は、何処ぞの長と名乗る男に畏まって斯う謝辞を返した。然し、正面を向き直した男は、
「いんや、立ち直っていた筈じゃ。儂が来ずとも、お主ひとりさえ居ればな!」
──なにせソールちゃんじゃからのお。
と何か確信めいた容子で、覚えぬ微笑と共に彼女の亊を顧みた。彼は男の其言に合点が行かなかった。此男は慥に彼女を地底へ見出し、斯うして彼諸共掬い揚げた、謂わば第壱科者に相違無い。却て彼は、彼女を受け容れて遣る外、殆ど何も出来て居ないと云う風に思えて止まなかった。彼は斯かる男へ難色を示した。
「怪しいヤツと、疑わしいヤツと思われているのかもしれません。俺、たぶん不器用ですから。……できませんでした。傷ついているのにヘラヘラしていたのが、許せなかった。もっと傷つけてしまったかもしれない! 正直、今も、俺が見ていない所で消えてしまうような! そんな気がして……」
男は彼の背の侘敷くなって行くのを見るに堪えず、眩い朝陽を仰ぎながら、
「すべて心配には及ばぬよ。英断じゃった。たとい出任せだろうが、お主は立派に彼女を許せておる。彼女は、必ず戻ってくる。……だれしも一度は、他科と心を行き違えることがあるものじゃ。」
と微笑み、流し眼を遣って彼の亊を宥めた。片や彼女は、少時其黑靉靆たる埋葬室の隅に踞り、泪を零し、洟を啜って居た。袖に附いた泪の痕が、白眼の赤味が消える迄、僅かに胎動し続けた。
第壱話 胎動 ‐The Sign‐
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