蝉が鳴き始めたばかりの、初夏の季節。
あの時の海の色と、街の匂いを、いまだに鮮明に覚えてる。
防波堤の手すりの前まで歩き、須磨海岸の海原を見る。
潮の流れが大河のようにのんびり移動している。
日はすっかり暮れて、鮮やかな海の色はもう見えない。
見えるのは明石海峡大橋の遠い明かりと、ハーバーランドのイルミネーション。
海の上を漂う遊覧船の光が、ポツポツと暗闇の淵に浮かんでいた。
この場所、この海岸線の麓で、一緒にキャッチボールをした。
渡されたキャッチャーミットを手にはめ、振りかぶる彼女の挙動を、慌てながら追いかけた。
最初はどうしていいかわからなかった。
グローブのはめ方もわからないし、向かってくるボールの距離感もわからない。
それなのに彼女は容赦なくて、困ったんだ。
わけもわからず、ミットを構えることしかできなくて。
どれだけ世界が変わっても、この場所、——この思い出の海岸だけは、何も変わらないように思えた。
ハッキリした理由なんてない。
この場所に来たことも、自然と足が向いたことも。
だけどどうしもなく不安になって、いてもたってもいられなかったんだ。
俺の望んだものが、すぐ目の前にある。
千冬がそばにいる。
そのことが、本当に“現実”なのかどうか。
さっき、神戸高まで戻ったんだ。
遠まきから、グラウンドを見てた。
照明塔の明かりの下で、野球部の人たちはノックを受けてた。
千冬はブルペンにいた。
多分3年?の先輩と、投球練習をしてるところだった。
まじで高校でも野球をしてるんだな…
実際にこの目で見るまでは、信じられなかった。
野球を続けてることに違和感を覚えたわけじゃなくて、…ただ
子供の頃の幻想だと思ってた。
甲子園も、160キロのストレートも。
俺はそれを現実にしたくて、中学に入ってから本気で野球に取り組んだ。
それまでは、ただ、千冬の練習相手になれればいいと思ってた。
それ以上のことは何も望んでなかった。
だって、捕るので精一杯だったし。
アイツが目を覚ますとしたら、それはどんな「世界」だろう?
どうすれば目を覚ますのか。
どうしたら、もう一度会えるのか。
——そればかりをずっと、考え続けてきた。
でも結局、俺にできることなんて何もないとわかり始めた。
たとえ甲子園に行こうが、彼女の代わりに160キロの球を投げようが、結局のところ、何も変えられない。
日に日に憔悴していく彼女の顔を、俺は見続けられなくなった。
諦めるしかないと思った。
それでも会いに行かなくちゃいけないという想いもあった。
次第に何も考えることができなくなって、病院から足が遠ざかって…
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