千冬に会いに行かなきゃいけない。
なんだか、無性にそう思えた。
外はどんどん暗くなっていってる。
窓の外で通り過ぎる景色は、自分が今どこにいるのかを忘れさせてしまうくらい、穏やかだった。
交差点に俺たちはいた。
街の、いちばん騒がしい場所に。
信号が青になった。
だから、足を動かしたんだ。
置いてかれないように。
彼女に、——追いつけるように。
「千冬は…?」
「ここにはおらん」
「おらん…って、ほんならどこに?」
「いつもの場所や」
いつもの…場所?
何言ってんだ?
目の前にいたんだ。
手に触れられるくらい、近くに。
ガタンゴトン
ガタンゴトン…
駅に停まった電車が、また、動き始めた。
機体がゆっくりと傾きながら、西宮方面へと走り出す。
線路が緩やかな曲線を描いている。
坂を登るように少しずつスピードを上げ、遠ざかっていく神戸の街。
朝練があるって、アイツは言った。
洗濯物を干してる横で、三十郎のお腹を撫でながら。
丘の坂道を一緒に下りながら、ハンドルを握ったんだ。
これからどこに行くのかも、わからないまま。
西宮の街並みが見えてきて、なぜか、彼女の気配を遠く感じた。
さっきまで近くにいた後ろ姿や、気だるそうな横顔。
柑橘系の甘い香りと、風に乱れたスカート。
シャリシャリと音の鳴る錆びついた車輪が、カーブミラーのそばを横切り、田んぼの畦道の草むらをかき分けていた。
ひび割れたアスファルト。
山間に立つ鉄塔。
でこぼこの道。
眩しい朝と、日差し。
その下で、アイツは笑ってた。
…確かに、笑ってた。
他愛ない会話のそばで、時々、立ち漕ぎしながら。
…なんで思い出せない?
…なんで、アイツの顔が霞むんだ?
それだけじゃない。
「記憶」はすぐそばにあった。
どうして自分が電車に乗っているのか。
どうして、女が目の前にいるのか。
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