雨上がりに僕らは駆けていく Part2

目指せ、甲子園!
平木明日香
平木明日香

第335話

公開日時: 2023年9月25日(月) 21:05
文字数:2,218



 日付の横に書かれている数字。


 それは“過去に戻ってきた回数”みたいだったが、それって…



 にわかには信じられなかった。


 1回や2回ならともかく、100回以上も戻ってきてるって、がち?


 だってそういうことだろ?


 数字は大きいので400以上のものがある。


 ってことは、400回以上過去に戻ってきたってこと…?だよな?



 「そういうことやな」


 「過去に戻ってきたってなんやねん」


 「世界線を移動しとるんや」


 「…それはわかるけど、なんで?」

 

 「あんたに会うためやって言うとるやろ」


 「よぉわからんのや、その意味が」


 「難しいか?」


 「この世界におる千冬はどうなんや?アイツも過去に戻ってきたっていうんか?」


 「それは違う」


 「ほんならどういうことやねん」


 「この世界のあんたは、他の誰でもないたった1人のあんたや。キーちゃんだってそうや。他の誰でもない」


 「ここに書かれとるのは…?」


 「同じく。ややこしいかもしれんが、この文書を書いたキーちゃんは、別の世界から来た」


 「どうやって?」


 「勘違いしとるようやが、別にこの「世界」に来たわけとちゃうで?」


 「は?でも現にここに…」


 「ここにあるのは、オンライン上にリンクされたデータに過ぎん。ストレージの中には様々な世界線の記録が保存されとる。この世界とは別の世界のことも」



 千冬は、千冬じゃない。


 かといって、この前の世界の千冬でもない。


 他の世界。


 他の時間軸。


 パソコン上にある「データ」は、そういったあらゆる世界線の情報を集積している。


 だからこの文書の先にいる千冬は、俺が“出会っていない”千冬”だそうだった。


 そんなこと言われてもわかんねーよ


 出会ってないって言ったって…



 画面をスクロールしていくと、俺のことが書かれた文書があった。


 まさかとは思ったが、そこに書かれていたのは、身に覚えのない日常の風景だった。


 日付は、2015年とあった。


 「未来」のことだった。






■ 散らかった部屋のベットの上で、微かな吐息が彼の頬の上に落ちる。


 見下ろす私の視線は、ただ、彼の渇いた唇を捉えるのに、終始していた。



 「…なんや、急に」



 部屋のドアを開けるなりベットの上に押し倒された彼が、戸惑ったように私を見た。


 「私」を。


 ——彼の隙をつき、無理矢理唇を奪っていった私を。





 「ああ、ごめん」



 もちろんそれは、「ごめん」で済まされることではない。


 もしも逆の立場だったら、彼をぶん殴っているところだ。


 少なくとも、罵声を浴びせるだけでは済まさない。



 「……」



 彼は私に殴りかかってくるわけでも、言葉を発してくるわけでもなかった。


 ただ、目の前の「出来事」に呆然としていた。


 空から隕石が降ってきたかのような、呆気に取られた眼差しで。



 思えばこの「キス」は、私が彼とした2回目のファーストキス…ということになるのだろう。


 『ファーストキス』なのに2回目というのには、理由がある。


 元々、私はこの世界の住人じゃない。


 それは比喩でも何でもなく、純粋で真っ当な、言葉通りの意味だ。


 奇妙に思えるかもしれないが、事実を事実の通りに話している…、と言った方が良いのかもしれない。


 もちろん、彼はそのことを知らない。


 呆気に取られている彼のそばで、私もその場に呆然と覆い被さったままだった。


 彼を眺める視線はうつろで、焦点は合わない。


 身震いがするほどの緊張も、どうすれば良いかの混乱も、そこにはなかった。


 けれど、その「瞬間」が、“約何十年ぶり”かの彼とのキスが、思考を停止させるのには充分だった。


 呼吸は乱れない。


 そのかわり、心臓の鼓動は速くなった。


 これからどうすれば良いかも、わからなくなるほど。



 「…どいて、…くれんか?」



 静止した時間は永遠にも思えた。


 だから彼は、静まり返った空間を解くように、たまらずに言葉を吐いた。



 「…ごめん」



 ごめんという言葉の安売りが、重力の法則に従うように彼の耳の中に落ちる。


 自然とその言葉が出る感情の裏で、他になにを発すれば良いかもわからなかった。


 恥じらいも恐怖も無い。


 眼前に広がるのはただの日常。


 私にとっては、…そう、それはただの「日常」のはずだった。


 平然と彼の唇を奪っていくことの非常識な行動が、「日常」と言っているわけじゃない。


 こうして彼の上に覆い被さり、彼の息遣いを感じる「距離」にいること。


 ——それが、私にとっての日常だった。


 かつて、私がいた「世界」では。



 彼にウソをつくつもりはない。


 ごまかしも、ハッタリをかますつもりもない。


 かといって「キスをした」ことに対する事情を、どう説明していいかもわからなかった。


 昨日の夜、彼が家に来た。


 そこまでは良かった。


 こんなことするつもりは元々なかったんだ。


 神に誓って。

 


 目の前で起きた現実を、反芻する時間はなかった。


 慌てて部屋を飛び出る。



 バタバタバタバタッ…!



 大きな失敗をしてしまった時、人は、その恥ずかしさから逃げ出してしまう。


 その状況を正確に描写できるシーンがあるとすれば、それはまさしく、彼の元から急いで逃げ出す今の現状に他ならない。


 逃げ出した先の部屋のドアの前で、まだ、彼の唇の感触が残る口元を撫でた。



 (…ああ、なんてことをしてしまったんだ…)



 そう思う自分がいても、もう遅かった。


 深呼吸をする「間」も、時間を体感する暇も、蚊帳の外に放り出されたように行き場を失う。


 直立不動でドアの壁に背を向け、目を閉じている傍ら、ただひたすらに後悔をした。


 「今の出来事はなんでもない」とうそぶける理由も“距離”も、もう、どこにも残っていなかったから。




 (2.5.17)

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