「キーちゃんは今でも夢を見とる」
「…夢?」
「そうや。あの日キーちゃんは、海の向こうに行こうとした。誰も見たこともない景色を見ようとした。ずっと遠く、——水平線の向こうへ」
「行くったって…、どうやって…?」
「行き方は誰にもわからん。あんたもそうやろ?子供の頃の夢は、行き先なんて決めないもんや。ただ走れるだけ走って、行けるところまで行く。後ろなんて振り返らずに、…ただ、どこまでも」
「お前は知っとんか?」
「何をや?」
「千冬が、あの日海に行った理由…」
「理由なんてない。それは、あんたがいちばんわかっとるやろ」
事故に遭ったあの日のことを、俺はよく覚えてない。
確かおかんと買い物に行って、昼過ぎからダラダラしてた。
たまたま野球の練習がなくて、部屋の中で漫画を読みながら、扇風機をガン回しにしてた。
だけどそのあと俺が何をしてたのか、次の日に何をしてたのか、全く覚えてない。
ただ、非常灯の赤い灯りと、廊下を歩く靴の音だけが、しきりに頭の中を泳いでいた。
誰かが話し合っている声と、薄暗い空。
砂粒が流れて擦れていく音が、波打ち際に響いていた。
ゆったりと、それでいて風の懐を撫でるように鮮やかな音色が、気味が悪いほど丁寧に奏でられていた。
ザザザァァという潮の流れ。
夕暮れ時のサイレン。
時間の経過がどこに続いてるのかもわからなくなるほど、空気が重く、冷たく、ひしめき合っていた。
不均等なほどに揺らいでいる沿岸沿いの街並みが、どこか、知らない場所のようにさえ感じられた。
蝉の声が、遠く掠めるように響く。
須磨駅のホームに停車する電車と、線路上のランプ。
静まり返った病室の片隅で、アイツが立っている姿を、夢の中で見た。
海をずっと見ていた。
呼びかけても、返事はなかった。
ただ、風に触れる髪が、遠くを見据えるその横顔が、どこまでも静かな空間のそばで、僅かな変化さえ持っていなかった。
彼女の足元にかかる波の動きが、ただ、静かに前後しているだけで。
海に行くのに、理由はない。
何かをしたいと思うとき、どこかに行きたいと思うとき、…そんな時はいつも、靴を履いて家を出た。
——俺も、千冬も。
…どんなに日差しが強い日でも
あの日に何が起こったのかを、今さら思い返すつもりはない。
そこにどんな理由があったって、もう遅いんだ。
もう、取り返せないんだ。
過ぎてしまったことは。
こうしてベットの上で眠る千冬の顔は、どこか穏やかにも見える。
苦しそうな表情はどこにもなくて、まだ、どこか子供の頃の無邪気な顔つきが、酸素マスクの下にある。
そんな彼女を見て、女は言う。
「まだ、夢を見ている」
俺はその言葉を、素直に受け止めることはできなかった。
たとえ彼女の意識が、まだ、どこかに残っているとしても、こっちに戻ってくることはない。
それを知っているからだ。
今も、昔も。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!