「例えばあんたの通っとる学校が、元々この世界に存在していなかったとしたら?」
街の景色を見ながら、女は言う。
展望台なんて滅多に来ないが、ここからの景色は絶景だ。
たくさんの光が、街の中心で動いている。
港の向こうでは、ノエビアスタジアムの明かりがついていた。
今日なんかあんのかな?
川沿いにある、ゴルフ練習場の緑のネット。
赤く点滅する遮断機の信号。
イトーヨーカドーの看板。
海の向こうには、大阪が見えた。
海を囲むように、カラフルな街明かりが広がっていた。
星屑を上からまぶしたみたいに、手で掬えるほどの無数の粒が横たわっていた。
色と色の隙間もないほど、たくさん。
「存在しとらんって、…そりゃ、大変やな」
「あんたが通っとる歯医者も、好きなラーメン屋も、駅前のサーフボードのお店も」
「…それ、真面目な話?」
「うん」
存在してなかったら…?
それって、そのままの意味か?
どこにも無い…ってことだよな?
ようするに
「歯医者はまあどうでもええけど、『もっこす』が無くなるのは悲しいわ。醤油はあそこが一番美味いから」
「“無くなる”んやなくて、最初から無いんや」
「最初から…?」
「地図上にも、過去にあったという形跡も、——名前ですら、最初から」
名前ですら?
えっーと、つまり…
「存在」を消されるってこと?
そんな神隠しみたいな…
「ジャンアント•インパクトっていうのは、たんに隕石が落ちた日やないんや」
「他にもなんかあったん?」
「他にも…っていうか、そもそも、隕石がこの世界に落ちることはなかった。元々は存在しとった。『隕石が落ちない日』が」
隕石が落ちない日。
女は言った。
隕石が落ちてきたのは、イレギュラーな出来事だったと。
何がどうイレギュラーなのかはわからなかったけど、少なくとも、そんな「未来」はどこにも無かったみたいだった。
「せやけど、“運命”やったんやろ?」
「まあな」
「…あかん。全然整理できん」
「運命やったが、それはあくまで、私たちが招いたことに過ぎん。世界には「未来」があった。確かな時間と、“明日”が」
「結局、隕石は落ちるんか落ちんのんか」
「落ちる」
「ほんなら、その「落ちない日」ってのは?」
女はポケットから100円玉を取り出して、それを渡してきた。
手を広げろって言うから、広げて見せたら。
「あんたとキーちゃんは、よく勝負しとった」
「…聞いたけど」
「負けたら100円。勝負のあと、あんたはいつもゴネとったっけ」
「ゴネる?」
「あれはヒットやろ!とか、これはボール球やろ!とか」
「…ふーん」
「コインは表か裏かしか出ん。泣いても笑っても、2つに1つや。勝負をやり直すことができないのは、あんたにもわかるやろ?」
「…まあ」
「“夏”は一回しか来ん。せやから、キーちゃんは甲子園に行きたかった」
千冬がなんで甲子園に行きたいのかを、深く尋ねたことはない。
「甲子園」は、ただの目標。
俺はそう感じてた。
その先にある景色が、本当の「夢」なんだと思ってた。
——ずっと。
「キーちゃんがあんたに会いに行こうとしたのは、間に合う「時間」がまだあることを、信じてたから。“変わらないもの”を追いかけてた。「形」があるものを信じてた。「今日」を失いたくなかったんや。明日が来る前の、——「今」を」
間に合う時間。
変わらないもの。
千冬が目指してたのは、「160キロのストレート」だ。
もちろん、それは単なるイメージでしかない。
本人はそんなつもりじゃなかったかもしれないが、所詮はただの「言葉」だ。
投げられるかどうかは問題じゃないんだ。
…ただ、なんつーか…
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