氷室正義と言う男を一言で表現するならば、素寒貧。
財布の中身は、紙幣が一枚も入っていなかった。
小銭入れにはくすんだ銅のコインが数枚ほど。頭を抱えて悩んでいた。
その悩みは痛烈なまでに深刻で、それと同時に馬鹿馬鹿しいものだった。
――今日の晩御飯は何にするかな?
持たざる者。
何を持っていないのかと訊かれたら、何も持っていないと応じるべきだろう。
まず、カネがない。
先立つモノ=カネ
唱えたのは高尚な数学者ではないだろうが、この世の真理を説いたかのよう美しい方程式。
まず、カネがない。
そして、今佇んでいるボロっちぃビルの一室。
閑古鳥と腹の虫が二重奏を奏でている優雅なる住まいは、我が居城。
氷室探偵事務所、と掲げられていた粗末なプラスチックの板を貼り付けたドア。
それは開閉するたびギギギと金切声を上げる。かなりうるさい。
その中に赤く錆びたパイプ椅子に腰を掛けた男。
客もいないし、仕事がない。
その理由を辿っていけば、うさん臭い=社会的信用もない。
就職活動に失敗した男は、自分の能力が欠如している自覚もないまま自営業を始めた。
自分を唆した先輩への恨みを胸に抱いて、客も来る気配のない薄汚い一室で今日も嘆く。
溜息を吐くと幸せが逃げると言う小言があるも、一向に訪れる気配のない幸せ。
味方をする運気もまた、ないと言えるかもしれない。
ため息はまた一つこぼれた。
座右の銘は、下を向いて歩く。
空を仰ぎ見たところで、空から札束が舞い落ちる可能性はドラマ映画なんかじゃあるまいし。
地面に落ちてる小銭を拾うためにも、下を向いて歩いた方が賢明だ。
クソほどのプライドも持ち合わせていない、クズのような男だった。
クズと言う表現をすると、クズに対して失礼かもしれない。
カネもないし、仕事もないし、社会的な信用も持ち合わせておらず。
自身を誇れるプライドのかけらもない。
持たざる者。それを的確に表せる言葉は、たぶん。
素寒貧……ってことなんじゃないでしょうか。
スカンピン探偵は、今日もお腹が空いている。
当然だが、冷蔵庫の中には何もない。
そんな中、開けてはならない箱をふと見つめる。
禁断の箱と言うには大袈裟だろう。神話のパンドラの箱ほど物騒な代物と言うわけでもなく。
そこに入っているものもまた、未知の絶望や数多の疫病、底に光るわずかな希望ではない。
中身は来客用に保管したちょっと値の張るクッキーと少し高い気がするスティックコーヒー。
「あ……」
声を思わずあげてしまった。
「このクッキーの賞味期限、切れてるわ」
ラッキー! これ、処分しなきゃ。……と、思ったのも束の間。
邪な考えがよぎったのを誰かが察したのか。
そもそも、クッキーよこすような客が来ない時点でラッキーでもなんでもないだろと言う天啓か。
そんなタイミングで、ラブ・コールが鳴り響く。
マグフォン……と言うらしい最先端技術で作られたスマートフォンのような高性能の端末。
それから着信音が鳴り響いたのだ。
ちなみに、そんなものが私物であるわけがない。……事務所の備品。先輩からの借り物である。
そして、この着信音。
子供の頃によく見た国営公共放送の教育チャンネルでやっていた、人形劇の特撮ドラマの再放送。
仰々しい英語でのカウントダウンから、それは始まる。のだが……。
「5……4……3……」
危ねえ! そう思うや否や、さっさと端末に手を伸ばした。
「ふぁい! お電話ありがとうございましゅ。こちら、氷室探偵事務所でひゅ」
噛んだ。
「コンマ2秒出るのが遅い。ウチはアンタと違って忙しいんだから……」
電話受付窓口は、3コール以内に出るのがマナーだとか言うけれど。流石に3秒以内はキツい。
電話の主は分かりきっている。この着信音を設定したのは、ここのボスであり……この仕事をやるように唆した張本人でもあり……。
「先輩……珍しいですね。定期連絡は次の木曜のはずですけど」
「わかってる。これは、アンタに仕事の依頼。仲介料は8割、依頼をこなすまでにかかる実費はアンタの負担。報酬の前払い希望の場合は、さらに手数料として1割もらうから」
……は? 流石にこれは耳を疑う。
「えっと……どういう風の吹き回しですかね。先輩……」
この人は氷室正義と言う人間のことを忘却の彼方へ追いやっていると思っていたのだ。
「それに、えっと……前払い? ちょっと……えっと……」
こんなこと、言っちゃアレだけど。初めてだ。
何がって。この人がこんなことを言い出すこと自体。
仕事を持ってきてくれたこと自体が、である。
開業以来ほぼほったらかし状態だった気がするのに。
「こっちのツテで持ってきた依頼でさ。ウチが自分でやろうにも……こっちはこっちでちょっとしたイベントがあってね」
受話器ごしに、向こう側で何をしているのかが少しだけ、いや……割と大音量で聞こえてくる。
曲調が機械的な印象じゃなく、どことなく牧歌的な音楽が響き渡っている。
ファンタジー系ロールプレイングゲームの、街中かどこかのBGMではなかろうか。
(忙しいって言うのはゲームかよ。真昼間から遊んでるじゃねえか!)
「仮に遊んでいたとしても、アンタのウン万倍は稼いでるし社会貢献してるわ」
脳裏で浮かんだツッコミに対してノータイムで返してきた。声に出してすらいないのに。
やっぱり怖いわ、この人。
「まあ……多分引き受けるとは思いますけど。そのご依頼の中身ノータッチでイエス即答は流石にないので聞かせてください」
「そうね。依頼の内容は……言っちゃアレだけど、妙な中身だわ。分かりやすく言うと安否確認」
安否確認。……そう言うのは、普通なら警察とか役所の仕事だと思うのだが。
まあ、この街では人捜し屋として探偵が飯のタネにしているので、なくはない依頼だろう。
「至って普通の仕事に聞こえましたけど。……何が変なんですか?」
「3年も前に、確実に死んでいるし。死亡者として新聞やらテレビ放送にも名前が載った。万が一にも生きている筈のない人間が、3年前の当時のままの姿で、アンタの住んでる街の近くで確認された……って言う妙な話。画像や資料はもう送ったから、通話終わったらきちんとした中身は確認して」
と、変なことを言ってくれたものの、選択肢はないのを知りながら先輩は続けてくれた。
「……で、この依頼は受けてくれる?」
でも、流石に俺としても納得が行きかねる部分が一つだけあったので、そこだけは追及したいと思った。
「選択肢ないんですけど、流石に……俺の取り分が1割ってぼったくられてないですか?」
俺の不信感を露わにした態度に対して、凄くあっさりとした感じに返ってきた答えがこれだ。
「イッセンマンの大口の依頼なんだけど。アンタごときにこれくらいの仕事、自分で取ってこれる?」
は? 今この人何て言ったのだろうか。俺は耳を疑った。
「イッセンマンって誰ですか。蜘蛛男とか、超人みたいな人の知り合いですか?」
ハリウッドでCGとか奮発している実写映画を思い浮かべた。
なんちゃらマンね……映画なんて最後に観たのはいつだろう。
「蝙蝠男や大企業社長のコスプレの知り合いでもないね。平たく言えば、諭吉さん千人ほど」
天は人の上に人を作らないけど、金の上に人の暮らしが成り立っているのは痛感している。
それっぽいことを言った文化人がそんなに大量にいたら日本の教養文化は安泰だろうなあ。
「え、嘘でしょう?」
「アンタごときをからかうために貴重な時間を使うなんて思う?」
高校時代からお世話になった先輩。
自分は行くこともしなかったのに、わざわざ氷室とか言う愚昧な後輩の大学受験の勉強を見てくれたりと。
すげえお世話になったし、尊敬もしているけど。この人は真昼間からゲーム三昧だし。
本音を言うと、ちょっとぶん殴りたくなる時もあるけど。
「それでも、ちょっとくらい……俺の食い扶持の世話とか懐事情に対して時間使ってくれても」
悪態に対して、少しだけ本音をぶちまける。
「アンタの今の年齢は? 身分は? 24歳で、いい大人。学生じゃないでしょ。これでも結構気を使ってやってるつもりだけど」
ぐうの音も出ねえ。完全論破だわ。……死にたくなりますよ、情けなくて。
「受けるんでしょ。と言うより本当のとこ選択肢ないんだけどね……」
「と、言うと……?」
先輩は、冷たく言い放った。
「アンタが事務所に我が物顔で住んでることもおかしいんだけどね。……テナント料ってわかる? アンタの今いるアトリビル。隣の胡散臭い人材派遣のトコと、アンタだけしか入ってきてないけど。ちょっぴり頭が悪くないって言うのアピールするためだけのしょうもない大学をギリギリで卒業できた、アンタの大したことのない頭にも分かりやすく伝えてあげると」
一呼吸置いて、先輩は逃げ道を塞いだ。
「一年と半年分の家賃と水光熱費値引いても90万。説明するの面倒な雑費8万。……払ってくれる?」
雑費の内訳が気になるところだけれど、そこを突いたら藪から蛇が出る可能性もある。
「……あ、なるほど」
そりゃ、選択肢ねえな。
でも、僕は思うんですよね。先輩。
ここまでギリギリに追い詰める必要もなければ、多分……やろうと思えば仕事くらい仲介できるんでしょう?
そして、それに対する先輩側が提示するであろう返答もまた、容易に想像がつく。
「アンタの世話してやる義理も本当はないし。別に百万だの千万だの、ウチからすれば大した金額じゃないんだけど」
聞いてもいなかったけれど、先輩は優しくその答えを提示してくれた。
「のうのうと何もしないで過ごして平気な顔していられるアンタの存在が気に入らねえ」
そう吐き捨てた直後に、通話がブツっと途切れた。
つまり。千万円の仕事を紹介してくれた先輩の取り分が、998万円。
調査にかかる実費は自己負担。……安否の確認? やったことないんだよね。
2万円で足りるんだろうか? と言うよりも、2万円が今手元に来たらまず、米を買うと思う。
白いご飯を食べるなんて、何週間ぶりだろう?
一昨日のスーパーの試食コーナーで口にした焼きおにぎりは、色がついてたからな……。
宝くじで大当たりしたくらいの派手な金額が動く依頼が舞い込み、2万円が手元に残る。
「……世知辛いな。バイトでもしようかな……」
何はともあれ。先に依頼について確認しなきゃならないことがある。
通話も終わったところで、マグフォンを再びホーム画面に戻す。
とりあえず、メールソフトを開くと……先輩から正式な依頼の内容と内訳。
そして、依頼の安否確認の対象についての画像やら、個人情報が出てきた。
その中で、俺は……今までずっと。
逃げていたことを思い出した。
今まで、一度だってその名前を忘れたことはなかったはずの、その名前を目にするまでは。
黒峰学園中学校。
そこに通っていた、一人の少女の名前を否が応でも思い出さずにはいられない。
片桐雛と言う、少女の名前を。
いつからだろう。自分の無力さを痛感し、打ちひしがれて……逃げ出したのは。
父が死んで、頼るものもなかった。
信じていたものと、憧れていたものが思っていたものとは違うことを知った。
何よりも、自分自身が一番許せなかったのは。遠ざかるあの後ろ姿を追いかけるのを諦めたこと。
理不尽なことに、目を瞑ることが大人になるって言うことなのだとしたら。
ずっと子どものままでいいと、本気で思ったあの日。
それでも、齢を重ねて……年齢だけは一丁前の大人になってしまっていた。
そう。あれは二年前だ。忘却の彼方へ追いやろうとしていた、俺の決意。
それが俺の脳裏に蘇ってきた。
「悪いことは言わない。警察なんかに入ったとしても……アンタの求める真実は見つけられない」
冷たく先輩が言い放ったその言葉。その全ての理由を教えてもらうことはなかったけれど。
それが、全てを諦めてしまうきっかけになってしまった。
「どうして……そんなことを言うんですか!? 俺が知りたいのはたった一つだけなんだ!」
自己満足に過ぎないとしても、それは……あの時の俺が本気で願っていたことだった。
「俺はこの街の平和を守る! とか。親父の仇を討つ! とか……そんなことを言うつもりはないんだ」
ちっぽけな自分の身の丈に合った、ほんの少しだけのこだわり。
「なんであの子が泣き続けなきゃならないのか! その理由を知りたいだけなんだ……」
諦めかけていた、やりたかったこと。
二年前の答え。あの日、一瞬言葉を交わしただけに過ぎなかった少女。
あの子の全てを拒絶するような、凍り付くほどに冷たい眼差しをしていた理由。
――同情なんてしないで! 同情は最大の侮辱。
悲痛な叫び。あの子の悲しい眼の理由を知ることができなかった。
親父が誰に殺されたのか。……「そんなこと」よりも、気にしていた心残りはここにある。
一瞬、言葉を交わしただけの少女。それも、拒絶されただけ。
人生は長いし、それなりの付き合いだって色々あった。友人もいたし、恋人……は、どうだったかな。
十の告白、百の会話、千の言葉、万の声。人生の中で、人はどれだけの話をするのか。
だけど、四半世紀にも満たない人生の中で。
たった一度の拒絶。……あの子の悲痛な叫びが最も胸の内に残る後悔だったんだ。
悲しそうに走り去ったその背中を、何故追いかけられなかったのか。
同情だとしても、優しく包み込んであげられなかったのは何故なのか。
それが、今まで生きてきた最大の後悔だった。
「先輩は、俺に興味がないなんて嘘だろ……ここまで面倒見がいい人だったなんて」
三年前、修学旅行に行った生徒がテロリスト集団に襲われて全滅したと言う悲痛な事件があった。
引率教師やツアーガイド等含め、唯一生き残った少女とは、その一年後に会ったのだけれど。
当時の写真と……2ヶ月ほど前のSNS上の写真の背景に写りこんだ少女の顔を見比べていた。
「水尾真琴……当時の片桐雛の友人……ね」
先輩は、面倒見がいいのかもしれない。
素人目でもわかる。……中学生なんて、3年も経てば随分と顔が変わっていておかしくないものだ。
だが、どう見ても……当時の写真とまったく同じ顔が映りこんでいる。
世界中に三人、同じ顔をした人間がどうこう言う都市伝説レベルの話じゃなく。
奇跡の御業か、悪魔の所業か知らないが……。とんでもないものが単なる事実として突き付けられている。
これがどういう事実であるか。その因果関係を突き止めたらそれは……千万円なんておかしくもない事件だろう。
だが、まだ知る由もなかった。
この依頼を通じて、欲望の魔石を巡る戦いに身を投じることになるなんてことを。
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