不揃いな段差の階段を降りると、冷え冷えとした静謐が足元からせり上がってくる。魍魎街が地下二階層までのことを呼ぶのであるから、地下三階層、ここからが本当の迷宮と言えようか。三階層など、まだまだ地上の続きのようなものであると迷宮の手練れなら鼻で笑うかもしれぬ。しかし俺といえば、雪之丞のいない単独降は心細さを覚えずにはいられない。
まずは廻鳳の小部屋のある地下五階層まで行き着くのが先決なのだが、すでに何度も辛酸を舐めさせられている。幽鬼どもに翻弄されて足がもつれ、鎌鼬の群れに脇腹を切り裂かれたり、貉の放屁を浴びて、一時、視力と嗅覚を失ったりもした。天井から逆さにぶら下がって冒険者の荷を掠め取る天吊しという妖怪には、煎り米の袋を奪われる失策を犯した。仲間のいない単独降がここまで体力と神経を消耗させるものだとは知らなかった。
ほうほうの体で地下四階層まで辿り着いた頃、俺は何晩も眠れずにいたような疲れをおぼえていたのである。
「そういや、ここで雪之丞と眠ったっけな」
独り言を口走ってしまうのは、迷宮にひとりで潜る者の習い性らしかった。放逐刑ののち、昇りの途上においても、疲れを感じた俺はこの階でわずかな休憩を取ったことを思い出す。俺はここでも一息ついた。弓術を応用した簡易な結界を雪之丞は張ったのだったが、おれにはそんな芸当は無理だ。ただ袋小路におそるおそる腰を落ち着けて、竹水筒から水を飲み、荷をもう一度確認する。慣れぬ地図と睨めっこしたのもこの時であった。
「こんなにも疲れてるのは力の配分がうまくねえからだな」
迷宮では、どんな弱い相手でも油断は禁物である。とはいえ、あらゆる相手に全力を注いでいては疲弊は免れぬ。その案配を調節するのが難しいのである。仲間に頼れぬ単独降では、なおさらさじ加減が掴みにくい。覚えたての呪法を乱発したのもいけなかった。
震卦。雷の象意の呪法を俺は授かった。
平賀源内のエレキテルはつとに有名だったが、江戸の連中は雷、ひいては電気のことなどてんでわかっちゃいない。雷の呪法は、電撃を放出するものと電気を身体や物にまとわせる種類の二つがあったが、どちらもそれなりの修練を要する。仲間のいない戦いでは、呪法に集中していられる暇がない。常に敵の攻撃に眼を光らせていなければならぬからだ。
息をするように剣を振るい、呪法を放つ、あの異人ラーフラが、どれほど図抜けた実力を有していたか知れば知るほどに恐ろしい。またそれに対抗しうる寺田のごときも化け物と言わねばなるまい。さらには、あやつらでさえ踏破できぬ迷宮というものがいかなる代物であるかは想像に難くない。
――ったく、考えるだけで眩暈がすらぁ。
口も舌も動かさずに俺は考えた。独り言はもうやめた。
誰かが視ている。ナメクジが這うような気配を首筋に感じる。そしてわずかな腐臭。
俺は刀の柄を握ると呪力を込めた。刀身にまで電気をまとわせる貫電法。これは成功すれば斬らずとも触れただけで敵を気絶させることができた。ただし、中には効かぬどころか、かえって活気づいてしまう魔物もいるから、よくよく使いどころを吟味する必要があるのだったが、いま、俺の頭上から覗き見てる相手には、さて通用するのかどうか。
「ハッ!」
気合一閃。電光が散った。俺は背後の何者かを斬った。
居合の稽古を嫌になるほどしたおかげで、座構えからの抜刀はお手の物である。片手で結んだ印のまま刀の握っても差し支えはない。手応えは充分であった。
そいつは人間の姿をしていた。輪切りに胴を断ち割られたというのに、敵はまだ動くことができた。痛痒を感じてはいないらしく、分離した上下の身体がそれぞれに俺の方へとにじりよってくる。ゾッとする光景だ。
屍鬼。迷宮で命を落とした探降者の成れの果てである。彷徨える邪霊どもが依り代を見つけた姿がこれだ。あるいは、呪法によって魂魄の去った肉体を操ることもできる。どちらも屍鬼と呼ばれ、明確な別は知らぬ。どちらも同じくおぞましくも冒涜的な存在であることに違いはない。
俺は三浦に預かった符を屍鬼に差し出した。屍解符。世の理に逆らって仮初の不死を得た者たちを大地に還す力がある。塵のように崩れ去る屍鬼を俺は見つめた。その屍鬼は女であった。
俺は月の兎のことを思わずにはいられない。
蘇生に失敗すれば、彼女もこのような姿になるであろう。あるいは屍礫となり露禅丹となり、誰かの命を繋ぐのだろうか。俺はギリギリと歯噛みした。気力が恢復してみれば、やはり惚れた女を奪われた悔しさは身に迫るものがある。たった一度の邂逅になぜそのような執着を抱いたのかは見当がつかぬ。前世の宿縁とでも夢想するほかあるまい。
俺は足を休めるために外していた具足を装着した。
屍鬼の存在していた場所には黒い染みだけが残っている。
× × ×
地下五階に降りても廻鳳の部屋には行けぬ。
面倒なことに五階は二分されており、一度六階に降りねば行き来ができない構造なのであった。本草学者の彼女には師匠である麟堂から書状を預かっている。それを渡すのも俺の役目であったし、喜兵衛のことを報告する義理もあろう。無論、迷宮のことであれば彼女に相談するにしくはない。蝋鉄を手に入れるための妙案は、きっと彼女の小さな頭の中にあるはずだ。
そんなことを考えている俺の前に幻のようにその廻鳳が横切った。
迷宮の通路を気難しげに逍遥する姿は彼女に間違いない。これなら手っ取り早い。俺は小走りに廻鳳の回った角を曲がってその背中に追いつこうとした。
「おーい! 廻鳳!」
地底に響く大声で呼ばわったはずだが、廻鳳は振り向こうとしない。
俺は歯がゆい気持ちになって歩みを速くした。それなのに一向に彼女の小さな背中は近づかない。ますます苛立って俺は足を忙しく動かす。気付けば走り出していた。
「止まれ、馬鹿者!」
夢遊病のごときフラフラと駆け出した俺を横合いから強い衝撃を襲った。
吹っ飛ばされた拍子に身体はゴロゴロと二転三転し、勢いよく石壁にぶち当たった。上下もわからぬ脳震盪より恢復しつつあった俺の眼に映ったのは仮面の人影であった。
――阿瘤尉。
宇宙のはじまりの音である阿吽の阿を冠した翁の能面。謎めいた瘤のある人相から、尉の能面の中でも得体の知れぬ面とされている。厳かな霊気を湛えたその人物は白い手を俺に差し出し、もう片方の手で仮面を外した。
「廻鳳」
「お久しぶりです。樋口さん。またひとりなのですね」
にっこりと笑った廻鳳に手を取られて、俺はぎこちなく立ち上がる。
「おまえ、さっきのは」
「手荒な真似して申し訳ありません。ぶしつけな言葉遣いも謝ります。この面を被っていると性格が少し変わるのです」
言うと廻鳳は面を掲げて見せた。
「あなたが追うていたのは幻の廻鳳です。もしや屍鬼をどこかで斬ったのではないですか。屍鬼の体内には擬頭摸の胞子が潜伏していることがあります、表皮を裂けば胞子が放出され、吸い込んだ人間は幻覚を見る。この先をご覧ください」
俺が向かおうとしていた通路の先の暗がりには何かが蠢いていた。
この国の植物にしては、あまりに巨大で肉厚である。地上で芽吹きつつある謎の植生と似通ったものを感じるが、それよりも遥かに異質で禍々しい。ふらふらと先へ進めば食人植物を顎の中へ踏み込んでいたであろう。
「こうして獲物を誘い出して捕食するのが擬頭摸の戦略なのです。体内に入った胞子は一両日もすれば排出されますが、幻影に踊らされるのを引き留めてくれる仲間のいない単騎での行動ならば、このような面を被ることが必須です」
「そいつが胞子の吸引を防いでくれるってのかい」
「ええ、そうです。部屋に寄るのならば、ひとつ差し上げましょう」
ただし、面の魔力で人格に変化を被るというわけか。
胞子に面、どちらにしろ何かに憑りつかれることには変わりはない。
「ええ、迷宮とはそんな場所ですよ」
同じことを思い至ったのか、廻鳳は皮肉っぽく唇を歪めた。
己という存在をどこまでも攪乱されるのが迷宮であるにしても、少なくともどうやって狂うかについてだけは自分の意志で選びたいものである。それすらが錯覚だとしてもだ。
「では、付いてきてください。こちらの側にもひとつ小部屋を拵えたのです。そちらに案内致しましょう。積もる話もありましょう」
「ありがてぇ」
と俺はさっそく廻鳳の後に従った。
しかし、これとて擬頭摸の見せる幻影でないとは決して言い切れぬ。
この通路の先にはおぞましい粘性の口腔が待ち受けていないとは限らない。疑いを挟めば際限がない。俺は己の悪夢めいた妄想を振り払って歩を進めた。
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