――死。それは断崖に囲まれた島のひとつきりの入り江。
誰かが言った。俺の耳元近くの喘ぎ、それともかすれた遠雷のような囁き。
――死。それは生という渾沌たる海からのか細い出口。
誰かがまた言った。美しいしゃがれ声。老いた鴉が人の言葉を話すならきっとそんな声だろうと思わせる。
――死。それは貴方という小舟が流れ着く最後の岸。
誰だ? こんなにも眠たいのにひっきりなしに益体もない戯言を呟くのは?
――無支奇。
船頭は櫂を漕ぐ手を休めて俺の頭上を振り仰いだ。太陽は水平線を同じ高さのまま転がっており、その代わり、天空には爛れた木通の実が巨大にぶら下がっている。俺はどうしてここにいるのだろうか。もっと狭くて入り組んだ場所に居たはずなのに。
うとうととしたまま俺は舟の舳先を蹴って、ひどく乾いた島の土を踏んだ。振り返れば、小舟に船頭の姿はなく、どうやら俺はひとりでここへ来たようなのである。島の中央にはこんもりと繁った森がある。外から断崖と見えた岩肌は穿たれて、何やら謎めいた岩屋となっているが、そこに人の気配はなかった。心地いい森の冷気の中心には鏡のように滑らかな泉があった。履物を脱いだ俺は、裸足で水面を破って、踝までを漬け込んだ。子供のように水の中で足をぶらぶらさせると、何かが頭の中から消えていった。大切なことも下らぬこともこの真水に飛び込めばみんな忘れてしまえるだろう。
――ああ、それでもいい。
と俺は、うたた寝の甘い誘惑の中で思った。
どこかに戻らねばならぬはずだったが、もはやそれも叶うまい。繋留していない小舟は沖へと流されてしまっているだろう。あの望洋として計り知れぬ海などへ二度と漕ぎ出してなるものか。ここは静かで心安い。塩辛くてべとつく海へなど戻ってなるものか。ここにはさらさらとした砂と水とがある。
――ここはよい場所だ。なぁ雪之……?
思わず呟きかけた名に不穏な予感が閃く。顔は思い出せぬ。よく知るはずだった誰かのことであろうが、その輪郭ははっきりとしない。ただ、ひゅん、と耳障りな弓音だけが蘇ってくるのだ。
ひゅん。ひゅん。
――止めろ、その音を止めろ。そいつは俺を居ても立ってもいられない気持ちにさせる。
ひゅん、ひゅん、ひゅん。
繰り返される弓音。俺は森の外の洞窟から誰かが狙っているのかと訝しんだが、相変わらずここに人の気配はない。気配はないものの、記憶の中には蠢く人影がある。
炎の中に佇む女。
ぶすりと不機嫌に筆を走らせる絵師。
絡繰りの向こうから冷たい視線を投げかける少女。
西瓜頭の無口な呪禁師。
弓をしならせる射手と同様に色濃い存在感を放つ無数の人影が俺を海へと引き戻そうとするのだった。
俺は泉から片足を引きぬいた。背後にまたあの声がする。無支奇である。
――海は大時化。戻るには時機がそぐわない。いましばらくここに……。
背中に貼りつく無支奇の肌はきっと蛞蝓のように白いはずだと不思議な確信がある。肩より回された両手を見るまでもなく、俺はそう思った。女の唇が首筋を這うが、そこに欲情は感じられぬ。俺を篭絡できるのは甘美な忘却のみ。
――さぁ、泉に浸かりなさい。この水に溺れた者はいない。
ああ、と促されるままに泉に顔を沈めようとしたその時だった。
水面に写った背後の女の姿を俺は見た。
それは女ではなかった。いいや人ですらない。ひびだらけの歪な土器のようなおぞましい顔をした何かが俺に寄り添っていた。亀裂の隙間から数え切れぬ眼が瞬いた。乱舞する奇数の眼光。古代の装束を纏ったその亡霊を俺は背負い投げたが、まるで手応えはない。
――無駄よ。天地とて終末を迎える日が訪れる。難訓といえど死は免れぬ。
気付けば無支奇は泉の反対の縁に、俺と同じ片膝立ちの姿勢で寛いでいる。古代の墳墓の副葬品のように埃っぽく、存在することそのものにくたびれた遺物。
――底を覗いてごらん。小さな小石がたくさんあるだろう。
言う通り透き通った水の中には、つやつやした円い石が堆積している。迷宮で屍を晒し、二度と戻らなかった連中だろう。彼らの魂は、碁石のように滑らかになって水底に重なり、泉の深さを目減りさせていくのだ。
――泉が死で一杯になった時、虚空権現がこの星を手中にする。
「お、思い出したぜ。迷宮のこと、虚空権現のこと。それから――」
随分と久しぶりに声が出た。こうしてはいられぬ、という焦燥感と、すべてを擲ってこの島の一部となりたい衝動とに俺は引き裂かれる。しかし、ようやく朧げながら思い出してきた。そうだ。俺は死んで、この島へ来た。
――迷宮の呪縛により、魂は囚われる。でも、それ故に蘇生も容易い。
「おまえは誰だ?」
――迷宮に焦がれた者。
「もとは人間だったのか?」
――忘れた。思い出せない。あまりに長く、ここに居過ぎた。
「どうすればいい? どうすれば……あいつらとまた」
――貴方も忘れるのだ。いかな強者とて独力ではここから出られぬ。諦めろ。死は何者にも抗い難いからこそ死なのだ。ここは死の島。決まって長い滞在になる。
「こんな辺鄙な場所で閻魔大王気取り。もっともらしい事をほざいてろ。いくら言葉を飾ろうが、迷宮に食われちまった負け犬だろうが。俺を手伝うなら連れてってやらねえことももねえ。なあ? 教えろよ。ここ出るにはどうしたらいい?」
俺はぐるりと泉を回り込んで詰め寄った。
その首根っこを掴んで、俺は何度も何度も揺さぶった。無支奇の顔にさらに細かい亀裂が走る。息も絶え絶えに無支奇は言った。
――お望みならば、ひとつだけ方法がある。
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