こちらは第六話~第十話までの『一週間まとめ読み』となります。
「君の望みはなんだ、客人よ」
ボスは膝の上の震えるかたまりを撫でながら言った。ジーナにしては小さすぎる、僕はとっさにそう思った。でもなぜここに猫がいて、それを隠しもしていないのだろう。
そう思った瞬間、僕はここに来たことの意味を悟った。隠していないのではなく、最初から奴らがここから僕を出すつもりがないのだとしたら。……僕はもう死んだも同然だ。
ボスは壮年の男で、威厳があった。この男の前ではどんな問題も小さく見えるだろう。僕はゆっくりと言った。
「IDが欲しいんです」
ボスはそばにいた一人に耳打ちすると、そばにいた一人がビジネスリングからボスの手元に何かを映した。
「去年からの開拓団地域で行方の知れない人間は二十五人だ。芦田、棚橋、趙、ムタリカ……」
彼は顔も上げずにゆっくりと全員の名前を読み上げた。そして最後にゆっくりと顔をあげると、僕の顔をじっと見つめた。
「この中に君の名前はあるか……?」
僕はだまって首を振った。自分から火星世代だと言い出すのがいいことか悪いことかは判断がつかなかった。
「IDの偽造は中でも危険な仕事だ。はっきり言おう、君はここで新しい人間となって出ていくか、それとも……」
「死体になるかですね」
僕は短くそういった。猫が膝の上でじゃれていた。ボスは言った。
「金は必要だが、金だけの問題じゃない。いちばんの問題は君が信用できるかということだ」
IDを出すということは、それだけ危険な仕事だということだろう。ここにIDを求めてきた人間のうち、何人が本当にIDをもらえたのか誰も知らなかった。
もしかしたら全員が金だけを奪われて死体になったのかもしれなかった。ボスはじっくりと僕を見据えて、僕の疑いを見透かすように饒舌にこう言った。
「もし我々が君にIDを渡せないと判断したら、君はリスクを冒したことの代償を命で払う。我々は君の金には手を付けない。君が何を考えているかは私には手に取るようにわかる。しかし君がIDを求めて私のところにきたなら、我々は何を重んじているかぐらいは知っているだろう。
……我々は何より名誉を重んじる」
それはおそらく本当だった。というのも、開拓団とギャングのあいだの約束が破られたというのは聞いたことがないからだ。かといって、僕は自分の名前を明かすわけにはいかなかったし、ボスの信用を得るにはどうしたものかとボスをにらんだまま立ち尽くさざるを得なかった。
しびれを切らしたのか、樽腹の男が僕にむかって銃を見せた。
僕はオテロウに呼び出され、特別管理室に入ったとき以来の緊張を味わっていた。僕の背中を冷や汗が伝っていたけれど、ボスたちには伸びた髪や髭のせいで表情までは分からないだろうと思った。
「君はIDを得て何をする……、ここにIDを求めてくる人間は二種類に分かれる。IDを命として命を目的にここに来るもの。そして、命を手段に他の目的のあるものだ」
ボスは膝の上の猫に目をやったまま、ゆっくりとその背中を撫で続けていた。そしてゆっくりと目を上げると、両手を開いてこう問いかけた。
「だが命を長らえただけで何になる? いずれ君も私も同じ墓穴に入る身だ」
僕は平凡な火星世代だ。そして、火星世代は人間のつながりが希薄だって話したよね……。僕はボスのような人間にいままで出会ったことがなかった。確かにオテロウのように脳のスキャンをして心をのぞくことは可能かもしれない。でもそのとき僕が感じた感覚は、いままでにないものだった。この男には嘘はつけない。
この男はいままで命乞いする人間をなんども見てきたはずだ。僕は自分がこの場しのぎの嘘をつくことは不可能だとようやく悟った。
「家族を探したいんです」
「家族」
ボスはそう言うと、周囲の数人に目線で同意を求めた。樽腹の男が持っていた銃をゆっくりと収めた。
「君の家族の命は」
「わかりません。誰が連れ去ったかも、何が目的かも」
それを聞いてボスは首を振った。
「君はさっきから自分の欲しいものは正直に言うが、君が何者で何があったかは絶対に話すつもりがない。もし君が少しでも我々への敬意を持っているなら、そんな話し方はせすにありのままを話すだろう。君が我々を信じないのに、なぜ我々が君を信じなければならない」
おそらく僕は答え方を間違えたらしかった。二人の男が素早く背後から近づき、僕の膝を後ろから蹴ると、前のめりに倒れた僕の腕を後ろから引っ張ってひざまずかせた。
とつぜん、髪の毛の中に固い冷たい銃口を感じた。僕はひざまずいたまま、なすすべもなく冷や汗をかき続けた。そのまま汗が床にしたたり落ちるんじゃないかと思ったほどだ。
そのときふっと、奇跡のようにオテロウの言っていた『開拓団』と『火星世代』の統合の話を思い出した。もし『開拓団』が『火星世代』に統合されたなら、『センター』による支配はつよくなるだろう。そのとき、ギャング団はいったいどうなるというのか……?
僕はイチかバチかの賭けに出た。(というよりもそれ以外に方法がなかったからね)
僕はボスをにらんだままかすれた声で訴えた。
「あなたと二人で話したい」
「何をバカなこと言ってやがる」
樽腹の男が舌打ちをしてそう言うのが聞こえた。僕は腹に力を入れて、恐怖と戦いながら言葉をつづけた。
「さいきん、開拓団の街では停電がよく起こるだろう。ここはどこの電力網から引いている? やがてここは兵糧攻めにあうぞ」
ボスはそれを聞くとすばやく態度を変えた。猫を静かにとなりの男に渡し、左のソファに腰かけていた若い男に目配せをした。
ソファの若い男はすっくと立ちあがると、他の男たちをすみやかに部屋の外に出し、さいごに自分が代わりに僕に銃を突きつけた。
ボスは言った。
「君のうしろの男は、次のドンだ。私の後継者だよ。だから君は私に話さなくとも、そのうしろの男に必要なことを言えばいい。君は何をどこまで知っている?」
僕は言った。
「IDと引き換えだ」
「言葉づかいに気をつけろ」
若い男が静かにそう言い、僕の背中を強く押した。ボスは変わらない口調で言った。
「いったい君は何者だ……? ご存知のとおり、我々は少し困った状況でね。商売道具の銃弾もいまやちょっとした貴重品だ……。だから本音を言えば君を殺さずにすめばそれがいちばんいい。一発もうかるからね」
ボスは冗談のようにそう言ったが、目は全く笑っていなかったばかりか、哀しそうだった。
「君は若いのに何も知らずにここに来たんだ。わかるかい」
ボスは続けた。
「君は何も分かっていなかった。愚かとは言わない、ただ無知だったんだ。君があの男……ネコカインを売っていたあの男に話しかけ、IDが欲しいと言った瞬間から、君の命は我々のものになったんだ」
ボスは哀しそうな目をそらさなかった。
「正直に状況を話そう。君は持っている情報を強制的に吐かせられるか、それとも自分から話すか、だ。IDをもらって何になる? 我々はいぜんとして『新しい君』を始末することができる。そうだ、君は文字通りここで死ぬのだ」
僕は思わずボスをにらんだ。確かに何の力もない僕の命は、いまギャングたちにかかっていた。だからと言って、力がないからと言って、『センター』にもギャングたちにも虫けらのように扱われていいとはどうしても思えなかった。
僕は言った。
「もう死んだ人間をどうやって殺す? 僕はもう『センター』によって殺された人間だ[F2]」
若い男がすかさず聞き返した。
「『センター』によって殺された? 指定犯罪者なのか?」
「違う。でもある意味では……、とにかくIDが必要なんだ。僕の家族が巻き込まれたかもしれない」
ボスは僕を見据えながら言った。
「『センター』は君が死んだと思っているのかね……? 確実に?」
「僕はあなただけには名前を言いましょう。死亡者名簿を調べればいい。僕はあなたが秘密を守ってくれると信じる。だからあなたは僕の名前を自分だけの胸にしまってください。それは僕をここで殺しても殺さなくてもです」
ボスはそれを聞いて軽くうなずくと、手の平を上にして指先で僕を招いた。突きつけられた銃の感触がなくなったので、僕は立ち上がってボスのもとに行った。
僕が自分が火星世代であること、名前と会社を告げると、ボスはもういちど軽くうなずき、僕はまた引き戻されて床にひざまずかせられた。
「君はIDを得るのと引き換えに、我々の仲間になることはできるかね?」
ボスは単刀直入にそう聞いた。僕は首を振った。
「僕はとくべつあなた方をおそれるわけでも、軽蔑するわけでも、尊敬するわけでもありません。ただあなたは僕に信用しろと言った。僕はそれを信じて名前を言い、僕が知っていることはIDと引き換えにすべて話すつもりです。これは対等な取引です」
ボスはそれを聞いて静かに目を閉じた。そしてこう言った。
「では言い方を変えよう。鉄のバケツ団には入らなくていい。だが私が君にIDを与えたなら、私は君の恩人だ。その恩人のために、個人的なお願いを聞く用意はあるかね……?」
僕とボスとはしばらくにらみ合った。たぶんそこが最大限の譲歩だった。もしここで僕がこれを飲まなければ、うしろの若い男がそのまま僕を始末するのは分かっていた。
「わかりました」
それを聞いて、ボスは僕のところまで歩いてくると、僕を立たせた。そして両手で肩を叩くと、
「斬三(さんざ)、確認がとれるまでは部屋を与えて監視しておけ」
と言って僕たちを部屋から送り出した。
僕はてっきり牢屋のような場所に連れて行かれるのかと思っていたけれど、若い男が僕を案内したのは意外にも屋敷の中にある一部屋だった。
斬三と呼ばれた男は僕を先に部屋に入らせると、手際よくもういちど身体検査をすると、ようやく腕をしばった縄をほどいてくれた。僕のケガをした手首がうまく動かないのを見て、ふん、と鼻を鳴らした。
そして部屋にあった椅子をひとつつかむと、部屋のドアの前に置いた。監視がそこに座るのだろう。やがて入れ替わりに太った男がやってくると、斬三は一言
「見張っておけ」
と言うとどこかへ行ってしまった。
太った男は僕をじろっと見回すと、僕の汚い姿に不愉快そうな表情を浮かべてドアを閉めた。そこで僕ははじめて、はじめて大きく息をついた。ここがどこだって、ギャングの屋敷だって、火星の砂漠で過ごす夜にくらべたら天国だった。
僕は部屋にあったソファに倒れ込んだまま、気を失った。気を失うように眠ったんじゃない。ほんとうに気を失っていたんだ。僕はそれから二晩、運ばれた食事にも手を付けず、飲まず食わずでのびていたらしい。
人間も限界をこえるとどうやらコンピューターのように脳を再起動するものらしい、とそのとき知ったよ。
とにかく次に僕の意識にあったのは、喉が渇いたな、という感覚だった。そして、僕は体を起こすと、となりのテーブルに置かれた水を一気に飲み干した。そして自分が置かれている状況を思い出すまでにはちょっと時間がかかった。なんとなく自分がまだあの火星世代のコンパートメントにいるような気がしていたんだ。
僕はあの灰色のかたまりを部屋の中に探した。飾りっ気のない壁に囲まれた、ほんとに小さなコンパートメントだったけど、ジーナと一緒にくらしたあの部屋は僕の宝物だった。あさ、会社に行く支度をしていると、ジーナが邪魔をしにきてさ。かばんの中に入ったり、ものを隠したりしてね。
いつもだと起きたときに涙が伝っていたんだけれど、疲れ果てた僕の目からはもう涙も出なった。
ジーナ、と声にだしかけて、僕は自分の部屋じゃないことに気が付いた。目に入った部屋の中の家具が木材で出来ていたからだ。
木材は火星では高級品だという話はしたよね。どこの家にだって小さな木箱や椅子のひとつはある。でも、この部屋はすべてが木材でできていた。それだけで『鉄のバケツ団』がいかに力をもっているか理解できた。
僕は部屋にとつぜんひびいた自分の大きなため息に驚いた。バカみたいだろう? ようやくすべてを思い出して、命拾いしたことを実感したんだ。
ボスが僕の話を確認したら、僕の持っている『センター』の秘密計画の情報と引き換えに新しいIDが与えられるだろう。珠々さんは無事にしているだろうか。
自由に行動できるようになったら、まず地上に行って隠しておいたビジネスリングや送信機が無事か確認しなければならないと思った。
それでも僕は生きていた。お腹はぐうぐうと鳴りはじめ、テーブルの上に置かれていたパンをまるかじりした。このときほどただのパンが おいしいと思ったことはなかった。
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ジーナ:僕と一緒に暮らしていた猫。あらわれたとき、火星では禁止されている「野良のこねこ」だった。
グンシン:亘平の勤めていた地下資源採掘会社。火星の歴史資料庫をもっている。
怜(とき):『はじめの人々』? それとも『センター』? 亘平の惚れた謎の美女。
センター:支配者である猫が管理する組織。
オテロウ:『センター』からグンシンに来ている猫。亘平を警戒して犬を放った。
犬:『センター』が治安管理のために所有する四つ足ロボットの総称。
珠々さん:有能なオテロウの秘書。グンシン取締役の娘。亘平に思いを寄せる。
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