ジーナ:僕と一緒に暮らしていた猫。あらわれたとき、火星では禁止されている「野良のこねこ」だった。
怜(とき):『はじめの人々』? それとも『センター』? 亘平の惚れた謎の美女。
センター:支配者である猫が管理する組織。
右藤(うどう):農場の肥料すきこみ班長
佐田(さた):ギャングの亘平の監視役。同じ班。
北川(きたがわ)・南波(なんば):同じ班の労働者
遥さんのジャンクヤードの近くだ。僕が行くわけにはいかない。そこで僕は南波さんを叩き起こした。
「南波さん、悪いんですが……、ビアクルが故障しました」
南波さんは眼をこすると、文字通りあたりを見回した。
「バッテリーは交換したかい……? ああ!」
とつぜん、南波さんは大きな声で叫んだ。
「俺……昨日のうちにバッテリーを充電しておかなかった!」
僕ははじめて、南波さんに対して少しだけ怒りを覚えた。だけど、声を抑えながら言うしかなかったよね、だって急いで遥さんのところに行ってもらわなければならなかったんだから。
「いや、それはもういいです。とにかく、これから僕のいうところに行って、工具を借りてきてほしいんです」
南波さんはまだ少し眠そうな声でこう言った。
「……それより、センターの修理を待った方が早いんじゃないのかい? 修理なんか難しくて出来ないよ……」
僕はもう話しながら同時にせわしなく頭を回転させた。
「僕はオリンポスでちょっと機械をいじってたので、工具を借りてもらえればなんとかなります。あと……今日はほら、凛々子さんが待ってるんですよ、農場で。この地図をみてください、このジャンクヤードなら、たぶん工具があります」
南波さんはゆっくり頭をかきながらビアクルのドアを開けて遥さんの工場に歩いて行った。僕はそのあいだ、ビアクルのチェックシステムで故障個所を探そうとしていた。
そのときにはビアクルの周りにちょっとした人だかりができていて、近くの商店から出てきた男が僕に「大丈夫か」と声をかけたり、ビアクルで店の前をふさがれた女店主が邪魔だと文句を言いにきたりしていた。
ところが、完全に電力がアウトしていて、ビアクルのチェックも効かない。こうなると僕にはどうしようもなかった。僕はビアクルの外に立って、車の下に入って自分の目で確かめるべきか迷っていた。だけど、それ以外にセンターの修理を回避する手立てはない。
やがて人だかりが二手に分かれて、工具箱を手にこちらに向かってやってくる遥さんの姿が見えた。誰か親切心で本人を呼びに行ったらしい。僕は大慌てで車の下に潜り込んだ。
「これかい、そのビアクルってのは」
なつかしい声がそう南波さんに聞いた。南波さんの足と遥さんの足がビアクルの外にならんでいて、僕は下から出るに出られなくなった。遥さんの修理は的確だった。ビアクルの主電源が動かないのを確かめてから、外部システムチェッカーを配電盤につなぎ、五分もしないうちに故障個所をつきとめた。
「電池の安全ラッチを誰か乱暴に壊したね。センサーごとやられてるよ」
遥さんはそう言うと、おもむろにしゃがんだので、僕は思わず車の下からうつぶせで後ろ側にはい出た。
後ろ側と言っても大きなビアクルじゃない。すぐに誰かが車からはい出たことに気が付いた遥さんは、僕の方に顔を上げた。
「なんだ、誰かもう修理したのかい?」
僕が亘平だとも気付かずに遥さんがそう聞いたので、僕は口をつぐんだままただ首を横に振った。遥さんに正体を明かしたい衝動にかられなかったかと言えば嘘になる。僕は自分の弱さをなんとか抑え込んだ。もし遥さんとジーナの話が出来たなら、ジーナを失った悲しみを共有できたなら、僕はどれだけ楽に慣れたことだろう。
そして遥さんはそのまま、ビアクルのそばに足をなげだして座り込んで修理をはじめた。手際よく壊れた安全ラッチの蝶番を取り換えると、今度はしっかりとセンサーが働くことを確かめて、南波さんの方に振り返った。
「修理代はあとで払いにおいで。バッテリーも込みだよ。安かないけど、急いでたんだろ?」
そう言ってから、遥さんはふと確かめるように僕を見た。そのときだった、目深に帽子をかぶった労働者風の若い男がよそ見をしたまま歩いてきて、僕をつき飛ばした。ついでに店の前の売り物をぶちまけたので、近くの人びとが拾うはめになった。
若い男はあわてた様子で手伝ってくれた人間に手ぶりで感謝を伝えると、そのまま何処かへ立ち去った。
そのおかげで、僕は遥さんに背を向けてしゃがみ込むことができた。そして首尾よく南波さんは遥さんを工場へと送っていった。
僕は遥さんが見えなくなったあとすぐにビアクルに乗りこんだ。僕は間一髪のところでビアクルが動いたことに胸をなでおろしながら、一方でさっきの若者について考えていた。
ほんのいっしゅん、その若者が去りぎわに僕をふりかえった気がしたのだ。目深にかぶった帽子の奥に、僕は自分が切望していた瞳を見た気がした。……だけど、あまりにそれは突然だった。遥さんに助けを求めなくちゃならなくて、懐かしくなった僕は都合の良い幻想を見たのでは、と思った。
そう思えばあまりに滑稽だ。でも、それは自然なことに思えた。あれが怜に見えたなんて。人間は孤独になりすぎると、幻想を作り出すのかもしれない。
遥さんに名乗れないこともつらかったけれど、見も知らない人間に怜を見るのもつらいものがある。僕は知らないうちに笑っていた。南波さんが驚いて僕を見たけれど、僕はちっともかまわなかったよ。いまだけは亘平でいたかった。
その夜、ぼくはまんじりともしなかった。僕をつき飛ばした感触は、どうしても若者にしては少し華奢におもえて仕方なかった。錆の匂いの立ち込める狭い宿舎で、だんだん孤独によって自分が狂っていくような気がした。狂気でしか怜に会えないという事実が、くらやみのなか僕を打ちのめした。
お分かりだろうか…… この怜はホンモノである。
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