ジーナ:僕と一緒に暮らしていた猫。あらわれたとき、火星では禁止されている「野良のこねこ」だった。
怜(とき):『はじめの人々』? それとも『センター』? 亘平の惚れた謎の美女。
遥さん・鳴子さん:亘平とジーナを匿ってくれた開拓団の双子姉妹。エンジニアと占い師。
センター:支配者である猫が管理する組織。
右藤(うどう):農場の肥料すきこみ班長
佐田(さた):ギャングの亘平の監視役。同じ班。
北川(きたがわ)・南波(なんば):同じ班の労働者
翌日、僕は仕事上がりにもうろうとしながらももういちどビアクルを調べに行った。凛々子さんが宿舎に尋ねてくるというので、少しだけ早く仕事を切り上げられたからね。
どう考えてもあの事故はあまりにもタイミングが良すぎた。もしも農場で壊れていたらそもそもビアクルは使わなかったし、街中でバッテリーを盗むならともかく、ラッチだけを壊す理由が思い浮かばなかった。もしかしたら盗もうとしてラッチを壊したはいいけれど、僕たちがもどってきてそのままになったのかもしれないけどね。
僕はバッテリーの入っている場所の蓋を開けると、バッテリーの留め金になっているラッチの土台を見た。遥さんが付け替えた蝶番の下はサビが落ちて、なにか道具でえぐられていた。元はリベットで止められていたのを力づくで壊したような感じだ。もちろんサビで少し弱くはなっていたとはいえ、あらかじめこの形のラッチの根元を壊すための道具が無ければ、あの短時間で外すことはおそらく不可能だった。
ここへきて、僕はようやく状況を察してぞっとした。
「農場ってのはな、あんたが思う以上に危険な場所だぜ」
佐田さんの言葉が僕の脳裏をよぎった。農場の誰かなのだろうか、それとも街で知り合った誰かだろうか? 僕はあわてて部屋に戻ると、ビジネスリングと通信機を調べた。どちらも動かされた形跡はなかった。それでももう少し分かりにくくするために、壁の剥がれかけの金属の板でベッドの奥に二重壁を作った。
そして僕は自分の首がいつもよりスースーすることに気が付いた。首をさぐって、首からかけていた、ビジネスリング代わりのメダル(前にも言ったけど、これは高価なビジネスリング代わりに農場労働者が身に着けるものだ)が無いことに気が付いた。それには大した情報は入っていないけれど、ここの農場の労働者のものだと分かるようになっていた。
そのときの僕の汗といったらなかった。僕は部屋の中はもちろん、宿舎の中で昨日から通った道をくまなく探した。だけど、メダルを通していた鎖すら見つからなかった。
やがて、凛々子さんが僕を訪ねてきたけれど、僕はそれどころじゃなかったので凛々子さんを班のみんなに押し付けてまだメダルを探していた。一通り探し終えて、それでもまだ最後の望みをかけて食堂をもういちど探しているときだった。北川さんがやってきて、僕を探していた、というんだ。僕に外からの客が来たという。
もちろん、僕に思い当たる節はない。北川さんのあとについて、宿舎の休憩所についたとき……僕が見たものはなんだったと思う?
宿舎の受付がその人と話しながらやってきて、僕をみつけると指さした。それで……僕は自分が狂ったんだと思った。少なくとも自分が寝ていて夢を見てるんじゃないかと思った。
目の前に怜がいて、僕を見ていたからだ。
休憩所には班のみんながいた。それで、みんなは怜をみて、それから僕を見た。
彼女は前とおなじように髪をおろし、『かわます亭』に来ていたときのように、開拓団風のラフな格好をしていた。
僕はそのときちょっとあまりにも真剣に怜を見つめていたんだと思う。たぶん僕は彼女ですら少し戸惑うような表情をしていて、それから彼女は口を開きかけた……。
「久しぶり、コウ……」
そのとき、僕は急いで大げさな身振りで体を開き、怜を抱きしめた。言い訳するけど、それは怜の言葉を遮らなければ、僕のほんとうの名前を言いそうだったからだ。でも次の瞬間には自分がどうしてそうしたのか忘れていたよね。
そうだね、言い訳はしないよ。僕はずっとただそうしたかったんだ。そうしないとずっと狂ってしまいそうだったんだ。でも一秒後には僕は誰にも気づかれずに呼吸困難に陥っていた。怜の肘がみぞおちを正確に狙ってきたからだ。
「きょ、恭介……恭介……」
僕は息も絶え絶えに怜にそう囁くのが精いっぱいだった。怜はゆっくりと僕をテーブルの方に押しやりながら、笑顔を崩さずにこう言った。
「恭介さん、お久しぶり、お元気そうね」
僕は腹の痛みをこらえながら、テーブルに手をついてなんとか呼吸を整えた。それでも、怜から視線を外すことができなかった。そのほとんど涙ぐんで(いろんな意味でね)いる僕の顔を見て、右藤さんがなにか義憤にかられたようすで怜にこう言った。
「奥さん、はじめまして、作業班長の右藤です。あんたようやっとこいつを訪ねてきてくれましたね」
そのときの怜の表情ったらなかった! 彼女は驚いたように目を丸くすると、僕を指さした。僕は別に何も言っていないし、何も悪くない。でも状況だけ考えれば確かにそう見えたかもしれない。これは誰もわるくない滑稽劇だった。
「奥さん……」
怜は片唇を噛みながらそうつぶやいた。訳が分からないに違いない。申し訳なさが先に立って、僕は右藤さんにこう言った。
「いや、右藤さん、ちょっと……」
「こいつはね、確かにちょっとパリッとしないところはある。奥さんのようなベッピンにはちょっと釣り合わないかもしれない。危ない男と比べりゃボーっとしてるのも、つまらん男だというのもわかる。だがね、こいつが奥さんのことをどれだけ探してたと思うんですか。あんたね、あんたを探すために人より三倍も農場で働いて、街に出る係をしてたんですよ」
「右藤さん……ちょっ……」
「女房の悪口を言われれば俺にまでケンカを吹っ掛けて、自分がのされてもあんたのことをかばっていた男です。あんた、こいつのことなんも分かっちゃいないよ」
そのころにはちょっとした人だかりができていた。それで、誰かが余計なことに凛々子さんを連れてきた。右藤さんは凛々子さんを僕の方に押しやりながらこう言った。
「それがどうです、いまじゃ農場主にも認められて、農場主の親せきのお嬢さんと話が進んでるんですよ、わかりますか、あんたが捨てたのは大した男だったんですよ! あんたがね、こいつのことをちょっとでも可哀そうに思うなら、きょうスッパリと捨ててやってくださいよ!」
凛々子さんも訳が分からず僕を見ている。あれほど切望していた怜の視線は限りなく冷たい。僕はやぶれかぶれでこう叫んだ。
「おまえ、ちょっと二人で話がしたいから宿舎を出よう!」
そのときの怜と凛々子さんの顔はむしろ無表情だった。僕にはもう、怜に触れる勇気はなかったよね。ただ不自然にみえないように、僕は怜のほうに腕を伸ばした。怜はその腕をちらりと見ると、さっさと先へ歩いて行った。そうとう怒っているな、と僕でもわかった。……まあ女房に捨てられた男に見えるよね……。右藤さんたちは哀しげに僕たちを見送っていた。
怜は宿舎の門をでてしばらく農場へ上がるエレベーターの方へ歩き続けた。僕は周囲をみまわして、誰もいないことを確かめてこう呼びかけた。
「怜……!」
怜は振り返ると、手を伸ばして僕に何かを投げてよこした。それは僕の通信メダルだった。
「畑に行ける? とにかく人と離れられるところ」
怜はいつもの口調で言った。まるであのホテルでのケンカはなかったみたいな話し方だった。僕は自分が先に歩いて、農場へのエレベーターを操作して乗った。
「怜……どうしてここに来た? あのとき偶然に街で……?」
僕はそこまで言いかけてから、怜の横顔を見ながらそれ以上何を聞いていいか分からなくなった。彼女はあまりにも深刻そうな顔をしていた。
「畑で話すわ。もう作業は終わってるんでしょ」
「明日の作業開始まで見回りの人間しか来ない」
「それって間隔はどれくらい?」
「二時間かな」
「じゅうぶんね。畑の監視カメラのないところへ連れて行ってくれない?」
それから地上へ着くまで、僕たちは数分のあいだ無言だった。あのいっしゅん、思わず怜を抱きしめた瞬間の近さがうそのように、僕たちのあいだには見えない隔たりが横たわっていた。
畑の奥の列には、挿し芽をとるために数種類のサボテンの母株が大きく茂らせてあった。カメラもそこまでは見渡せないはずだ。エレベーターが到着して、僕は怜をカメラの死角になるところまで連れて行った。
もう既定の日照時間は過ぎていて、農場の照明は暗く落とされていた。長くのびる圃場には、人工的とはいえ人間ではない生命のいぶきが満ちていた。ドームの天井ごしに火星の空が見えた。
怜の表情はサボテンの影になっていて、よくわからなかった。怒っているのか、冷たいのかさえも。
僕は言った。
「ここなら大丈夫だ。怜……さっきのことだけど、君が僕を亘平と呼ばないかと思ってあわてたんだ……、ごめん」
怜は落ち着いた声でこう言った。
「呼ばないわよ。メダルの中をみたもの。新しいIDでは結婚してるのね、農場の人たちが誤解してたけど」
「話が進んでるってのも、あの凛々子さんって言う人には別の人がいて……」
「大丈夫、バレやしないわ」
怜は僕の言葉をさえぎって、またふらりと話をごまかそうとしていた。それを聞いて、僕はなんども、なんどもあの夜から心の中で繰り返した言葉を怜にぶつけた。
「怜、はぐらかさないでちゃんと聞いてくれ。君ともういちど巡り合うことができた。でもそれは僕が期待する理由で、じゃない。知ってる。君への思いは僕が自分自身で決着をつける。だから君は気にしないでくれ。僕はいまジーナを探すことに集中してるんだ。僕の話をまえみたいに聞いてくれ。そんなに身構えないで」
怜はそれを聞いてちょっと驚いたような顔をして、そして僕の方に向き直ると、まじまじと僕の顔を見つめて、そしていきなりニヤリと笑った。
「生きててよかった」
怜は一言だけそう言うと、いきなり雰囲気を変えて本題に入った。
「亘平……私がここにいるのはあなたにとっていい知らせじゃない」
僕は頷いた。怜がただ街で僕に気が付いただけなら、わざわざ僕にまた会いに来る理由がなかった。怜は僕にはもう二度と会わないつもりだったはずだ。
「誰か僕を狙っている奴がいる。あのとき乗っていたビアクルを壊したのもそいつだ」
怜は言った。
「『センター』を呼ぶためにね。亘平、ここにはもういてはダメ。『センター』に気づかれたと思った方がいい……」
そしていっしゅん、怜は次の言葉を言いよどんだ。
「遥さんが亘平に気づいたなら」
怜はそう言った。ひとつひとつの言葉はこれいじょうないぐらいクリアなのに、何を言われているのか分からなくて、僕は思わず聞き返した。
「どういう意味だい」
「そのままの意味よ。あなたが亘平だと遥さんが気づいていたなら、『センター』はもうあなたが生きていると知っているはず」
僕は暗闇の中で怜に目を凝らした。その目は真剣に光っていた。そして僕は、怜が嘘をつく人じゃないと知っていた。
怜は言葉をついだ。
「遥さんは、『センター』のスパイだわ。……亘平、巻き込むつもりじゃなかった、ほんとうにごめん」
怜は僕から視線を外さずにそう言った。説明されても訳がわからなかった。巻き込むというのはどういう意味なんだろう?
「遥さんが……ほんとうに遥さんが? 鳴子さんもなのか?」
「鳴子さんは違うと思う。遥さんだけ」
「……頭が追いつかない、じゃあ、なぜ僕は『センター』に追われた? 追う必要すらないはずだ、処分するだけなら……」
怜は少し戸惑って、口を開きかけたけれど、そのしゅんかん、エレベーターの方から光がさした。
「見回りね……もう行くわ。私が知っていることならなんでもあなたに教えるわ。でもいまは……、なるべくはやくこの農場から出て」
怜はビジネスリングで時刻をチェックすると、そう言った。あのときと同じアンティークのビジネスリングだ。僕はたぶんあのケンカ別れしたときのように、このまま地上のどこかへ消えようとする怜の腕をつかんで言った。
「またどこかで会おう、気をつけて」
怜は頷くと自分の行く方向へ首を傾けた。僕は怜の言いたいことを汲み取って小石を拾うと、思いっきり反対方向へ投げた[F4] 。
怜と僕は身をかがめたまま別方向へ走り、そして守衛が石の落ちたあたりを調べているあいだに、僕はエレベーターを使って宿舎階まで降りた。
僕の頭の中には、怜の「遥さんは『センター』のスパイだわ」という言葉がなんどもめぐっていた。たぶん、それはすべて事実なのだ。
戻ってきた僕を、右藤さんたちはあたたかく出迎えてくれた。だけど、僕はそれどころじゃない。僕の形相を見て、班のみんなは少し驚いたような顔をした。すぐに宿舎を出なければならなかった。僕は凛々子さんの方へ真っすぐ向かって行くと、
「話があるので来てください」
とだけ言った。凛々子さんはさすがボスの娘だけあって、何かを察してすぐについてきた。僕は凛々子さんに言った。
「僕がもともと『火星世代』の人間だということは斬三さんから聞いていますね? 僕はヘマをしました。『センター』が僕に気が付いたかもしれない」
「どういうことです?」
「農場か街か、とにかく僕を狙っている人間がいます。おそらく、その人間の罠にはまって……、『センター』の人間に僕が生きているということを知られたかもしれない。僕は出来るだけ早くここを出ます」
「奥さんと言う人は、あの人は誰なんです……?」
「敵じゃありません。ただ、僕が出なければならないってことは、北川さんと凛々子さんにも迷惑がかかる。僕が言うべきことじゃないけど、もう時間がない。北川さんと話してください。彼はあなたを愛している」
凛々子さんはしばらく何かを考えているようだった。
「……知ってるわ」
凛々子さんは最後にそうつぶやくと、りんとして顔を上げた。
「Kさん、逃げるなら私の父にも挨拶を」
僕はいっしゅん戸惑った。『センター』とギャングは争いたくないはずだ。もし僕が『センター』に気づかれたなら……ギャングが僕を始末することだって考えられる。たぶん佐田さんがね。
凛々子さんはそんな考えを読んだかのようにこう言った。
「あなたの知らないことがたくさんあります。ギャングはあなたを殺したりしないわ。ともかく父に挨拶を」
「分かりました。……今日の夜は準備を考えると時間的に動けない。日中はすぐに見つかってしまう、そうすると明日の夜に出ます」
「いいわ、佐田にそれを話してください。佐田が父のところまで案内するでしょう」
僕はうなずくと、急いで自分の部屋に戻った。いまは凛々子さんの言葉が本当かどうかを考えている場合ではなかった。なぜなら、そうするしか他にないからだ。佐田さんはどのみち僕から目を離さないだろうし、そういう意味では『センター』の犬より厄介だ。
僕には最初からの疑問があった。なぜギャングは僕に佐田さんをつけて監視させている……? もしも僕がヘマをやったときのための保険なら、そのときに始末のためにギャングを一人送り込めばいいだけのはずだ。それなのに、朝から晩まで僕を監視させるのには何かわけがあるはずだ。
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