もう十五分は経った。
いや、それ以上かもしれない。
彼女が俺のことを『中学の頃の菅原くん』と間違えてから、別人だと言っているのに隣で延々と話している。
猫に餌をやるため空き地へと足繁く通っていた猫好きの俺だが、今日ほど帰りたい日はない。
彼女のお喋りが独り言なのか、はたまた俺に話しかけているのかは分からないが。ゎさ
「でね、その時に私の後ろの席にいたのが菅原くんだったの。ってちゃんと聞いてる?」
……どうやら俺に話しかけていたらしい。
「だから俺は菅原じゃないし、別人だよ」
とにかく変な女だ。普通は人違いだと分かれば恥ずかしさでその場を立ち去る。それとも、ただの暇つぶしに俺を使っているのだろうか。
「ここへは何しに? 君の名前は?」
「あら、人に名前を尋ねる前にまずは自分の名前から言うものでしょ?」
驚いた、どの口が言ってんだ、この女。
「……樫野、慧」
全く腹落ちはしないが、こちらから名乗ってやった。しかし彼女の名前なんて知ったところで、……何も無い。
――最初は、とても綺麗な子だと、目を奪われたのだ。
軽くウェーブをかけた柔らかなロングヘアに、優しげな顔つき、黒のコートを纏い、彼女は現れた。
黒が似合う、いい女だと。
それなのにイメージというのは簡単に崩れるもので、話してみるとその幼さにがっかりした。
「月子よ、神崎月子」
彼女は宙に月子と指で書き、こちらを見てにこりと笑った。彼女に対して苛立ちを覚えつつも、仕草や表情にはやはり美しさを感じる。
「……なんでこんな場所に?」
人が少ない住宅地で、誰も通りかからないような空き地だ。そこへ俺が頻繁に餌をやりに訪れるのだから、野良猫が沢山集まる。そんな所へ一体なぜ彼女は現れたのか、純粋なる興味だった。
「猫ちゃんに会いに来たの」
……拍子抜けした。
いや、別に、何か期待をしていたわけではない。彼女のイメージは既に崩れていたのだし、『猫に会いに来た』という答えでも全然不思議じゃない。きっと、その容姿からは少しばかりおっとりし過ぎている気がした、ただそれだけのことだ。
「あなたはっ? 随分この子たちに好かれているみたいだけれど」
俺の中では通称チャイという名の黒猫を撫でながら、彼女は聞いてきた。どこかはしゃいでいる様子だが、生憎こちらも期待には添えられない。
「別に、猫が好きだから餌をやりに来てた。その結果懐かれただけだよ」
彼女はキョトン、とすると『ふうん、そうなの』とつまらなさそうに呟いた。
それから数分、お互い喋ることなく猫を片手に撫でつつぼうっとしていた。彼女を変わった女だと認識していたが、傍から見ると俺も彼女と対して変わらないのだと思う。明らかに、変な男だ。
彼女は今何を考えているのか。どこか悩んでいる風にも見えるその横顔を眺めていると、すっと惹き込まれてしまう。
俺は悩みごとを抱えると、誰もいない公園で一人本を読むことにしていた。人と関わらず、気を使わず、静かな自分だけの時間。最初は本を読んでいたのに、気付けば空を見上げて考え事をしている。そんな時間が心を休ませてくれたのだ。
もしかすると彼女にだって、他にここへ来た理由があるのかもしれない。何故だろうか、そんな風に感じた。
いつしか静けさに耐えられなくなり、沈黙を破ったのは俺だった。
「……また、いつでも来たらいいよ。こいつらは勿論、俺もいるし」
何気なく言った俺の言葉に彼女は少し驚き、嬉しそうな顔を見せ、今日いちばんの笑顔をくれた。
「ありがとう、猫が大好きなの」
……やっぱりズレてるよな。
「俺も、猫が大好きなんだ」
――これが、俺と月子の最初の、出逢い。
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