心地よい柔らかな陽光がようやく頬を撫で始めた。
潮気をはらんだ風もそれほど不快さはない。何より足元が揺れないのは無条件に安心できる
久しぶりの陸だった。
絶えず海水をかぶり、直射日光に炙られ続ける漁船の床は、飛び散った魚鱗や魚のぬめりが芯までこびり付き、当初は鼻腔を絶え間く刺激してくる魚臭さに辟易していたものだが、いつの間にか嗅覚も麻痺してただの生活臭に変わっていた。稀におこる荒天がもたらす大波も、慣れると船酔いの頻度は確実に減った。
もっとも、陸に戻るたびに全てがリセットされて感覚は元に戻るのだが、その繰り返しも今では日常の一部になっていた。
過酷とも言える遠洋漁業の航海は、ほぼ一か月に及ぶ、船上では視界に絶えず水平線があるが、島影が見えることはまず無かった。帰路、近づく陸を望める喜びは、帰港した時の解放感にも劣らない。帰港の朝が今日のような晴天に恵まれたのも僥倖といえる。
全ての水揚げ作業を完了し、手早く身支度を整えてようやく下船する。
とりあえずは魚市場内の2階のお決まりのカフェで早めの朝食をとる。凡そ魚市場には不釣り合いな小洒落た店佇まいは、魚市場の観光地化を目論んでの事だろう。小さいながらも自前の窯で焼く自家製パンの評判が良く、レジ横の直販ワゴンにはこの時間から客が集まりだしていた
漁港を一望できると人気の窓際テラス席への案内を断り、長年の習慣で 人目に付きにくい柱の陰の席を無意識に選んでいた。
店内に漂う芳ばしい香りが空腹を刺激して来た絶妙のタイミングで、オーダーしたローストビーフサンドが運ばれてきた、
スパイスが効いた赤みの残るやわらかい牛肉、適度にトーストされたきつね色のパン生地に、はみ出るほどに挟みこまれた瑞々しい薄緑色のサニーレタスの歯ざわり。
噛めば噛むほど、船の食事からは久しく味わえなかった至福の食感なのがわかる。
長い洋上生活を過ごす上で、食事は単に体力を維持する以上に重要な娯楽であり、天然の向精神薬とすら言える
保存技術の進歩で、以前に比べれば備蓄食材も陸上生活に見劣りしないものになったとは言え、やはり野菜の新鮮さなどには限界があり、自然とメニューのレパートリーも単調になりがちだった。
ま、贅沢を言い出したら切りがない。
一通り空腹を満たした後は。フレーバーコーヒーをブラックで楽しんだ。
バニラの香りが満腹感に華を添える。実のところ珈琲には少しうるさいほうなのだが、やはり船上ではインスタントの類が中心にならざる負えず、文字通りお茶を濁していたものだった。
やれやれどうしたものかな
半分ほどに減った珈琲カップを両手で包み込みながら、少し離れたテラスから漁港を俯瞰する。たかだか2階建ての高さにも関わらず地形の関係で見通しが良くのだ。
港全体はもちろんのこと、湾外に出ていく漁船の幾筋もの航跡さえも視界に収めることができた.漁果のおこぼれ目当てのカモメの白い群が船の合間を漂う。
再び船に乗り込むべきか、このまま姿を消すべきか
今の生活を始めて下船の度にまず考えるのはこの問題だった。板子一枚下は地獄とはよく言ったものだが、板上の地獄を選択する可能性も無いわけではない。
視界を遮る人影に気づかない程集中していた訳でないのだが、こちらに何の気配も感じさせること無くその女は目の前の椅子に座っていた。
「お帰り、ここだと思ったよ」
ガラスの向こうで舞うカモメをバックに、女は微笑みながら長い足を組んでいた。「た、ただいま」わざと視線を反らしてそれだけ答えるとわざと音をたてながらカップの残りを啜った。我ながらガキっぽい仕草だとは承知しているのだが、抱き寄せてキスするような気質は持ち合わせていない。無論こいつもこちらの性格は知りぬいているのだろう。明らかな苦笑混ざりのイントネーションで話しかけてきた。
「全くアンタは、下船したらすぐラインしてって前から言ってるでしょう、あたしも何かと用意があるんだから」
「ごめん、愛してるよ」
吹き出しそうになるのを堪えてみるみる変顔に変わる女房を眺めるのも一月ぶりだった。我ながら徐々に生活感が陸上モードに切り替わって行くのが分かる。「さつき何を考えていたか当ててあげようか」身びいきを差し引いても、まあ美人の部類に入るだろうアーモンド形の瞳を瞬きさせて女房の亜美が顔を寄せてきた。
「いつもの妄想でしょう、逃亡者?そうでしょう?」別に否定もせずに黙っていると更に距離を詰めてきた。漂ってきた甘い香りが、長らく縛り付けられていた感覚を解き放そうとしていた。思わずテーブルの上の右手に触れる。握り返してきた指先は心地よい冷たさと柔らかな感触で答えてくれた。長期航海の制約があったものの、それなりにコミニケーションは続いていたので、修行僧のような禁欲生活だったというつもりはない、それでも、ひと月という孤独な期間は単純に人肌への恋しさを募らせるのには十分な長さだった。
流石に新婚とは言えないものの、いろんな意味でお互いへの興味を失ってしまうほどの歳月は過ごしてはいなかった。
加えて仕事柄定期的な別居を続けている今の状態は、結果的に倦怠期の到来を防いでくれてるともいえる。有形無形の同調圧力もあり最近は自然と子作りも意識しつつある。
「帰ろか」
「了解だよ」
答えの無いのに納得したのかしないのか、亜美はそれ以上は突っ込んで来ることもなく、席を立つなりこちらの左腕に腕を回してきた。細い体に不釣り合いな豊満な胸の感触がセーター越しにすら感じられた。肩から下げた買い物バックから長さのあるフランスパンのナゲットが2本見えた。
「ここの買ったんだ」
「うん、今夜はアンタの好きなビーフシチューにする予定だから合わせようと思って、いいよね?」
無論異論があるはずもない。
朝食を済ませたばかりだというのにデミグラスの効いた熱々のシチューに浸したフランスパンの味が早速思い出されてうれしくなり、我ながら食い意地が張った単純な奴だと自覚した。自覚といえば脇腹の贅肉をつまんで無意識的にメタポ測定する癖が付きだしたのを思い出した。肉体的にはハードな仕事なので、やりようによってはかなりなダイエット生活も可能なのだろうが、現状のような食の不摂生レベルではそれも困難か。
カフェの階上にある駐車場に向かうと愛車の黒いミニクーパーが停まっていた。帰りの運転も亜美に任せる事にして座り慣れた助手シートに滑りこみ、
毎年楽しみにしているボジョレーヌーボーの新物がまだ売れ残っていたらぜひ手に入れたいので、モールに寄ってくれるように頼む、あちゃ~飲み切ってたのを忘れてたわ~とハンドルを握りながら亜美がペロリと舌を出す。予想通りだわ。
思いのほか鋭いハンドル操作でタイヤを鳴らしながら、駐車場からの細いスローブを下りきるとすぐに国道につながる路地にでた。市場を出発する業者の車列に交じって国道を目指す。基本的にくつろいだ気分だったので短い渋滞程度ではストレスを感じることもなく、おろした車窓にゆったりとひじ掛けながら空を見上げた。港の上空からはみ出た海鳥たちが青空に小さく漂っていた。
渋滞の端も見えはじめ、入り込んでくる冷気に同乗者からの不満が出る前に窓を閉めかけた時だった。海鳥の白いシルエットの群れに混じってごく小さな黒い異物が現れた。
「スイッチブレードタイプ1000・・・!」
視界に入ったゴマ粒ほどのサイズの飛翔体を見咎めただけだったのに、強烈な違和感とともに膨大な認識が瞬時に俺の脳内を駆け巡つた。
米エアロヴァイロンメント社製自爆型ドローンの最新型、しかもこいつはローター部分がカスタマイズされて飛行時の無音性が強化されている、音無しの殺し屋だ。
気が付くと俺は、今までとは別人のような無駄のない機械的な動作でダッシュボードの奥の指紋認証式秘密スペースからデザートイーグルの冷たいグリップを引き出していた
何よ~それ~
隣で嫁が素っ頓狂な声を上げているようだったが、その声も姿も不鮮明な膜に包まれたようにしか認識できなかった。
それを的確に表現するのは難しいが、敢えて例えればトランス状態での感覚麻痺というのが割と近い状況かもしれない。
自分でも信じられないほどの敏捷さでミニの助手席から飛び出すと、片方の膝を立てたままの姿勢を維持しながらニーリングポジション(膝撃ち)での射撃体勢に入った。
標的の形すら確定不能なこの距離での長距離狙撃など凄腕スナイパーでも不可能だ、ましてや拳銃射撃など無駄弾以外のないものでもないのは素人でもわかる事だったが、
微動だもせずに両手で構えたデザートイーグルの引き金を躊躇なく引き続けた。連射の反動と発射音を認識した次の瞬間
迫りつつあった黒点が白い閃光に変わった。およそ冗談のように全弾命中していた。
だがあつけなく状況は暗転した。
閃光は一瞬のうちに巨大なオレンジ色の火球に変わり。続いて衝撃波と爆発音が津波のように襲い掛かってきた。傍らのミニの車体に捕まらなければ無様に横転していただろう。
灼熱した何かの破片が焔の尾を曳いて飛び散った。たかが一機の自爆型ドローンではあり得ない爆発力だった。
間違いない「奴ら」は、人口一万人足らずのこの地方都市ごと俺を抹殺してしまう気なのだ。 爆煙を突いて新たなドローンの黒点が姿を表すとにそれは確かなものになった。
右手の銃が途轍もない重量感を持つものに感じられた。撃ち落としたスイッチブレードがほぼ破壊力を減じることもなく視界の彼方のビルに激突するのが目に入った。敵のすべてを撃墜できても結果は同じなのだ。
無力感に沈み込んだ俺は蟷螂の斧でしかないデザートイーグルを握り締めたまま立ち竦していた。ミニのシートでおびえているはずの亜美に視線を移したがそこに彼女の姿はなかった。
事態が把握できず思考停止した俺の耳に隣から冷静な声が響いた。
「デザートイーグルでは役に立たないわ」
再び視野の彼方に現れた黒点も気にせず俺の視線は亜美にくぎづけになった。
亜美はこちらの態度など気にも留めずに2本のナゲットを抱えて傍らに立っていた。よく見れば尋常のサイズのパンではない。なぜ気が付かなかったのか?
質問する間も与えず、嫁は手にしたパンを無造作に引き裂きにかかった。薄いパン生地の下から無慣れぬ黒い銃器が姿を現した。
「何これ?」
「詳しいことは聞かないでね、なんせ専業主婦なもんで、聞かれても分かりませ~ん」
そう言いながらも手際よく2丁のライフルをパンの中から掘り出すと一丁をこちらに押し付けてきた。そして自分の頭を親指の先でコンコンとこづきながら言った。
「あたしの方の「バディ」が選択した展開よ、高照準・小口径ライフルでドローンの信管とコントロールユニットのみを破壊して機能不全にするんだって、マジ?」
「データはそちらにも行ってるわ」
確かに、イメージが克明に伝わってきた。新たな展開が突然に始まったのだった。一気に状況が加速した。
渡されたライフルの二脚を起こし車のボンネットにセットした。そのまま腰を落としミニの車高に合わせて狙撃体制に入った。
さきほどのデザートイーグルでの膝撃ちよりもかなり負担のかかる姿勢だったがこの際贅沢も言ってられない。
スコープの標準と倍率を左指先で微調整する。当然のことながら先ほどの拳銃の闇討ちとは比べようもないほどに標的を鮮明かつ詳細に視認する事ができた。
俺の「相棒」の指し示す標的部分に向けて引き金を絞る。思いのほか軽い反動と、硝煙とともにエジェクトされた空薬莢が舗装道路にコンと乾いた音をたてて落ちるとほぼ同時に
スコープの中からドローンの姿がゆっくりと消えてゆくのが確認できた。
勢いにのり、さらに後続のドローンに狙いを向けようとした時、傍らでライフルの同じ発射音が耳に入った。ほぼ同時に、追従していたドローンがスコープから見えなくなった。
「イエーイ」
獲物を仕留めた亜美が嬉しそうにVサインを立ててきた。俺は苦笑いを彼女に向けると、さらに2基のドローンを迎撃した。
ほどなく二人合わせて10機以上を機能不全にしただろうか、残弾の数が気になりだしたタイミングで敵影が途絶えた。
どうやら奴らはこれ以上の攻撃を断念したようだ。
抑えがい安堵感からその場に座り込みたい衝動に駆られた、だが、緊急時でやむ負えなったとはいえ、
市場や船の関係者に目撃される可能性のある場所での今の一連の行動は非常にまずい。早めにこの場を離れるべきだろう。
"奴ら”の苛烈なドロ―ン攻撃を辛うじて退け窮地を脱したが、居場所を知られてしまった以上、結局この港町にも住み続ける訳にもいかなくなった。
ドローンの爆発からの一連の騒ぎで回りは大混乱に陥っていた。
爆発の強烈な衝撃波で周囲のビルの窓ガラスはことごとく無残に砕け落ち、それによる怪我人も多数発生しているようだ。
早くも救急車両のサイレンや人々の怒声が飛び交い、車を放置して避難するものもいた。
俺たちは手早く銃器を車内に放り込むと、周りの注意を惹かないようにわざとゆっくりと車を発進させた。
幸いひどい渋滞という訳ではなかったので、小型車の利点を生かして車列の隙間をうまく抜けるとほどなく国道まで進むことができた。開けた場所にでると最初の攻撃で受けた被害が
思ったよりも近かったのが分かった。ほとんど形状を残さないほどに破壊された高層階ビルはすさまじい黒煙と焔に包まれていた。恐らく生存者は皆無だろう。
最初に亜美の選んだ展開であったならば…あるいは俺の相棒の選択が最善のものであったなら…これは未然に防げた被害だったかと思うと俺は臍を噛んだ。
俺と亜美がそれぞれ「相棒」「バディ」と呼ぶ、脳に同化した二つの生体AIが選択することで変貌する…仮想現実と実現実が同時に進行しているような寄せ集めのような世界に俺たちはいる。
この生体AIを作り出したのは"奴ら”と俺たちが呼んでいる組織だが、自分たちがこの組織の創設者だという記憶が俺たちにはあった。
もっとも、「バディ」を亜美の脳に埋め込んだのは俺だと亜美の「バディ」は主張し、「相棒」を俺に埋め込んだのは亜美のほうだと俺の「相棒」は主張している、
だから"奴ら”と俺たちの関係もあまり確定的な記憶とは言えないかもしれない。奴ら”が俺たちの抹殺を意図して行動しているのだけは確かだ…それは俺たちが奴らを裏切ったからなのか…あるいは俺たち自身が奴らに命じたことなのか。全てはそうとも そうでないとも言いきれない。
記憶を裏付ける記録の類が一切残されていないし、複数の記録が存在する可能性もありうるからだ。
「相棒」と「バディ」二つのAIの相容れない判断基準、その選択する現実は常に対立し、共に限界があることを自覚している。だが、ある一点でのみ、彼らの定義は一致しているという
俺と亜美に子供ができた時「相棒」と「バディ」二つの生体AIが超えることができない限界を超える新たな生体AIをその子は生まれながらに脳に宿すことになるだろうと、
そしてその時"寄せ集めの現実”は終末を迎え。ただ一つの新たな”現実”のみが存続を許される。
それがいいことなのかは正直わからない。だがダンジョンをさまよい続けるような今の生活よりは多少はましだと信じたい。
無論、父親となり母親となることの意味合いが今の時点ではどの様な結果となるのかも自覚できようはずがないが、多分、その容赦のなさが〝現実〟の相貌なのだろう。
「いい街だったわね」
「そうだな」
ハンドルを握ったままの亜美が寂しげな微笑みを泛べて言った。その気持を誰よりもわかっているはずの俺はなるべく優しく彼女の片手に掌を重ねた。
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