「はァ……。どこ行きやがったんだよ、あンクソ野郎ォ……」
蛍光灯の冷たい明かりの下で、雨に濡れた顔をハンカチで拭きつつ、俺は独り言つ。
あれから十五分。俺達は路地裏を抜け、住宅地を抜け、今は大きめの立体駐車場にいる。
追っ手の気配は無い。
ついでに言うと男の影も無い。
男の方はともかく、追っ手の気配が無いのは気になるが、それはそれとして、俺達は疲れていた。
そう、疲れていた。とても。
凶器を持った人間に追われるという状況に加えて、俺の場合、最近運動不足で体力が落ちていたのもある。今は中学の時にやっていた筋トレ分を消費して、なんとかなっている感じだ。
彼女の場合は、言わずもがな。俺と出会う前から逃げていたのだ。相当な疲労だろう。
そういうわけで、俺達二人は車止めに座り込んで長めの休憩をとっていた。追われているのに何を呑気な、と思われても仕方ないが……。
「君……えー、名前なんだっけ」
黙っているのもアレなので、俺は彼女とコミュニケーションすることにした。まず最初に名前を聞く。
「サヤ」
彼女は素っ気なく、だが嫌いな人間に対する、あのつっけんどんな感じでも無い返事をした。
そして、沈黙。
チカチカと、蛍光灯が音を立てて点滅しているのが分かった。
暫くその古びた蛍光灯を眺めた後、俺はもう一度会話を始めてみた。
「サヤはもう大丈夫? 」
「うん……だいぶ楽になった。ありがとうね」
彼女は何故か、俺に対してお礼を言った。
俺は、
「お礼を言われるようなことはしてないけどね……。アイツの行方は分からないし、追っ手が何故追跡してこなくなったのかも不明だし。現状は何も解決してないんだよなぁ……」
と、正直に言った。
何となく、彼女に嘘をつきたくなかった。
「あ〜、うん、まあ確かにそうなんだけど……。それより私はあの時のことが嬉しくて」
「サヤの手を引いて、路地裏に逃げ込んだ時? 」
「うん」と、サヤは頷いた。
「アイツと一緒に走ってる時、結構人とすれ違ったんだけどね、誰も助けてくれなかったんだ。そりゃ、事情を知らない人から見れば、私がアイツの仲間───追われるようなことをしたって思うのも無理はないけどさ……」
そこで彼女は言葉を切り、大きなため息をつく。
「少しっくらい、心配して欲しかったな……」
そう言う彼女の目は、少し潤んでいるような気がした。
俺は……何か言葉をかけるべきだろうか。いや、かけるべきだ。今はそういう空気だ。
だが何を言えばいい? 哀れみの言葉?慰めの言葉? それとも彼女のトラブルを傍観していた人々に対する怒り?
いや……どれも違うな。何かズレている。もっと、こう、なんていうか……。
悩みに悩んだ俺は、ある一つの言葉を閃いた。それは少しキザっぽかったが、そこらの凡百の言葉とは一線を画すモノがあった。
俺はそれを言う為、羞恥心を抑え、意を決してサヤに声を掛けた。
「なあ、サ───」
「ウヲァァァァァァァァァ!! 」
……掛けようとした。
迫真の叫び声と共に、俺達の頭上を白い何かが飛び越えていく。そして、ソレはコンクリートの床に激突し、「ホゲッ」なんていう情けない声をあげながら、ゴロゴロと数メートルくらい転がった。
やがてソレが顔を上げようとするが、そうする前に俺は全力でダッシュしてソレ……いや、彼の上に乗り、昔観た映画の見よう見まねで腕を捻りあげて拘束した。
「いで、いででで……」
「飛んで火に入る夏の虫。久方ぶりじゃねェの、クソ野郎……」
そう、飛び込んできたのはあの男───サヤをトラブルに巻き込んだ白いレインコートの男であった。
「やっと捕まえた……お前の為に俺達がどれだけ走り回り、逃げ回ったか……。サヤ、コイツの顔面蹴り飛ばしても良いよ。俺が押さえとくから」
「え、え……良いの……? 」
「待て待て待て待て! 今そんなことしてる場合じゃねェから! 結構激ヤバだからいででで!」
俺は男の腕を更にキツく捻る。
「そう喚くなや……。追っ手が来てるんだろ? お前がそんだけ慌ててんだから、そういう事ってのは分かるさ 」
「ならさっさと逃げようぜ!? アイツらマジでヤバいんだって! 危険なんだって! 」
「銃を持ってるからか? 」
男は勢いよく頷く。あんまりにも勢いが良かったので、軽く顎をぶつけていた。
「確かに、銃は不味いな。俺達が今から死力を尽くして逃げても、きっと背中を狙い撃たれるだろうさ。だからこうして───」
俺は男の腕を膝で踏みつけつつ、ハンカチを丸めて彼の口に突っ込む。そして素早く膝から両手へ拘束をバトンタッチして、引っ張りあげて男を膝立ちの状態にさせた。
「お前を引き渡し、この鬼ごっこを終わらせる。ほら、早く来いよ。取引の時間だ」
俺は物陰に隠れているであろう追っ手に声を掛けた。別に、隠れていることに完璧な根拠があったわけではない。精々が「俺だったら近くに隠れて仲間、若しくは本部と相談するだろうな」という程度の勘だ。
……しかし、勘は当たったようだった。
追っ手が柱の影から、車の影から、茂みの影から出現する。皆年齢も服装も髪型も性別もバラバラで、パッと見ではグループとは思えないほどなんの共通点も無かった───いや、一つだけあった。
全員、敵意とも殺意とも似ているようで似ていない……下衆の目をしていた。
目の前に集合した追っ手達のうち、一番前に立つ四十代くらいの男、恐らくリーダー格の男がポケットに手を入れようとする。彼が拳銃を取り出そうとしている、と考えた俺は、すかさず手をかざして制し、
「コイツを引き渡す。だから俺と彼女を逃がせ」
と、簡潔に取引内容を伝えた。出来るだけ早口かつハッキリと。
リーダー格はポケット入口まで来た手を止め、手下にサッと目配せすると、武器を持っていないことを証明するように軽く手を広げ、酷くしゃがれた声で言った。
「分かった。その男をこちらへ」
男はもごもごと何か言っているが、ハンカチを噛ませているので何を言っているか分からない。
まあ、どうせ命乞いかなんかだろう。
「サヤ、先に外に出てて」
「待て。男をこちらに渡してからだ」
俺がサヤの安全を確保しようとすると、リーダー格は間髪入れずに大きな声でそう言った。
正直、結構怖かった。
いや、「ずっと前から怖かった」の方が正しいな。
でも俺はこうして堂々と、凶器を持った人間相手に取引出来ている。あまつさえ、充足感すら得ている。どうしてだ?
……きっと、守りたい人間が居るからだ。
思えば俺はずっと孤独だった。家族や友人とは上手く交流出来ていたが、それは俺の表の顔。本当の顔は誰も理解せず、誰にも理解されなかった。
建前に頼り切った、おぞましい人間。
それが気持ち悪くて、俺は全てから逃げ出し、東京くんだりまで来たのだ。
でも今はどうだ? 俺はこうしてサヤを守る為に、危険を冒して取引している。
まさか俺にこんな勇気があったとは!
ああ、誰かを守るという事のなんと素晴らしきかな!
さあ、男の手を掴み、引きずり、いよいよリーダー格の前まで来た。俺はかすかに頬を上気させながら言う。
「さあ、お望みの身柄だ。後は煮るなり焼くなり好きにしなよ」
「ああ……」
よし! これで俺とサヤの身の安全は保障された!
俺は喜びの笑みを押し殺し、あくまでクールにその場を立ち去ろうとする。
さっきよりも男がもごもご言ってるが、知ったことか。
さあ、コレでトラブルは解決だ! いざ新天地へ!
「ブフッ、伏せろォォォォォォ!! 」
パンッ。パンパパンッ。
連続した火薬の破裂音と、幾つもの凄まじく鋭い衝撃が俺の背に当たる。
銃弾が貫通することによる恐ろしい痛みが来ると思ったが、余りにも衝撃が強過ぎるのか、じんわりとした痺れだけであまり『痛みは感じなかった』。
「わっ、ちょ、へぇ……? 」
俺は条件反射的に、困惑するサヤを自分の下に押し倒した。
Contractus corde meo conservavi.
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