誰かの悲鳴に気を引かれる、ということはある。
だが、息を呑む静寂にぎょっとするのは、その時が初めてだった。
それはまるで、コンサートが始まる前のような。
誰かがステージに上がった瞬間のような。
「――?」
最初にその異変に気がついたのは、飢夫だった。
彼が、狂太郎の肩ごしに見えるものに気付いて、
「わ」
と、短く言う。
「わ。わ。わ」
「――?」
狂太郎、なんだか眠そうな表情を飢夫に向けて、
「どうした? 急に素っ頓狂な声を上げて」
そして、ゆっくりと後ろを振り向いて、
「……おおっ!」
「――?」
次に変な顔をするのは、”ああああ”の番だ。
だが彼女の場合、ゆっくりとその存在を目の当たりにしている時間はなかった。
「――伏せろ!」
狂太郎が一喝し、――自分たちの目の前にあるテーブルをひっくり返す。
「え?」
飢夫は咄嗟に、目を丸くする”ああああ”を抱きしめ、身を盾にした。
同時に、テーブルの上に並べられたトマトが数個、宙空へと跳ねる。
そして、それらトマトのうちの一つが、……ぱっと弾けた。
弾丸に撃ち抜かれたのである。
トマトの汁が、血痕のように飢夫と”ああああ”の頭に降り注いだ。
「うひゃああああああああ!?」
そこでようやく、少女が悲鳴を上げる。
その言葉を皮切りに、辺りが騒然となりはじめた。
まるで彼女が叫ぶことで、そうしてもよい許可を得られたかのように。
テーブルに身を隠しつつ、飢夫が見たもの。
さきほども見かけた、あの男だ。
たしか名前は、サムと言ったか。
死んでいたはずの彼がいま、例の二丁拳銃を構えている。
幽霊。
そんなワードが、頭に浮かぶ。
――これが、……異世界ってことか。
そう、思う。
どこか虚ろな眼をした彼は、血で濡れた顔面をこちらに向けて、拳銃の引き金を絞った。
木片が散り、飢夫たちが身を隠しているテーブルに穴が空く。
――なんだこれ。ぜんぜん盾にならないじゃないか。この前実況したFPSとぜんぜん違うぞ。
無力に焦る飢夫を宥めたのは、傍らの友人。仲道狂太郎だ。
彼は、飢夫の肩をぽんぽんと叩いて、
「安心しろ。危なくない」
「な、……嘘だろ?」
「殺気がない」
そんな馬鹿な。何を言ってる。どうしてそんなことがわかる? 不合理だ。
いろいろ反論したかったが、――その前に彼は《すばやさ》を起動する。
――鞭を素早く振ると、びゅんびゅんって、風を切るような音がするだろ。そういう音が聞こえたんだ。そこから先もう、目にもとまらぬ速さだったよ。一陣の風が吹き抜けていく、って言えば良いのかな。
のちのち聞いた話によると、狂太郎がその時発動させた《すばやさ》の段階は七。その状態での速度は、おおよそ時速300キロ前後。これは新幹線と同じくらいの速度だ。
その後に起こった格闘は、――ほとんど一瞬にして決着が着いた。
「――ッ!?」
疾風迅雷とは、まさにこのことである。狂太郎は二丁拳銃を持つ男の手首に手刀を打ち、それを奪い取ったかと思うと、いったんレストランのキッチンに引っ込んで梱包用の紐を取り、あっさりと彼を捕縛してしまう。
「…………なッ!?」
毛むくじゃらの顔が、驚愕に歪んだ。
「た、た、助け……ッ」
「悪いが、もう悪さできないぞ。――きみはなぜここに……」
その瞬間であった。
飢夫の死角からもう一つ、ひゅん、と、風を切るような音が聞こえたのは。
嫌な予感がして、咄嗟に叫ぶ。
「きょ、狂太郎……ッ!」
警告は間に合わず、一匹のネコ科の動物が飛びかかった。その正体には気がついている。
チーター。動物界最速の生き物だ。
それは――あるいはこの世界において唯一、狂太郎に対抗しうる速度を持つ動物であったかもしれない。たった三秒でトップスピードに至るという”チーター族”の彼は、おおよそ時速100キロほどで狂太郎に肉薄した。
そして、
「――うおおッ!?」
彼を抱きしめるような格好で、飛びかかる。
油断していた狂太郎の加速は間に合わない。今度は彼の方が先手を取られて、地面に組み伏せられた。
咄嗟に、飢夫は席を立つ。友だちがやられていて、ただ立ちすくんでいるほど彼も自尊心に欠ける男ではない。
だが、もとより体力がある方ではない彼の努力は、まるで報われなかった。
「ちょ……は、はなせ!」
”チーター族”の彼は、まるで恋人を抱きしめるように強く、狂太郎をハグし続けている。
「うわ、すご、ぜんぜん離れない……!」
その時、咄嗟に彼が目にしたものがあった。
サムの拘束を解く、何者かの姿だ。”チーター族”の共犯。
「逃げろっ。はやく!」
「急げ! 義務を果たせ!」
共犯たちの怒号が響き、ネズミ頭の男が逃げ去っていく中、にっちもさっちもいかない飢夫は、このように思った。
――いやあ、参った! 世の中、楽な仕事なんてないんだな。
と。
無理もない。飢夫は先天的に、荒事に向いていない。
敵を見かけたら、喧嘩するよりもまず、仲良くなる方法を模索する。彼はそういう生き方をしてきた。
だから、この手の単純な暴力に耐性がない。
とはいえ、結果だけ言うのであればそれで良かったのかも知れない。
下手な手出しをされるより、――放っておかれた方が、よほど対処しやすかったためだ。
狂太郎が”チーター族”の彼を振りほどいたのは、それから数秒後。
彼は、この世界の住人に共通する、とある弱点を突いていた。
股間が丸出しであるという、致命的な弱点を。
気付けば”チーター族”の彼は泡を吹いて倒れていて、狂太郎は濡れ布巾で手を拭いている。
「おい、大丈夫か? 怪我はないか?」
飢夫は、友人の逞しさに舌を巻きながら、
「だいじょぶ。――そっちこそ、怪我は?」
「ない。猫にじゃれつかれたようなもんだ。見かけ倒しのやつだった」
「……逃げたアイツは?」
「わからん。だが、すでに”ああああ”に頼んで、警察に通報させている。島の連中は、彼女の命令に弱いみたいだからね」
「そ、そう……」
「島は狭いし、間もなく捕まるはずだ」
おおよそ、その時である。
目の前のこの男と自分の、”日雇い救世主”としての適性の差を思い知らされたのは。
――家でゲーム実況してるほうが似合ってるな。わたしには。
飢夫は素直に、そう思った。
▼
それから、一時間後。
”オオカミ族”の青年のしょぼくれた報告を受けて、第一声。
「取り逃がした?」
「……取り逃がした、というべきか、なんというべきか」
駆けつけた彼は、すっかり耳と尾が垂れている。
「いずれにせよ、奴を捕まえられなかったんだな?」
「ハア」
「共犯にいたはずの、もう一人の”チーター族”も?」
「あ、そっちは捕まえました。現在拘留中です」
そうか。と、狂太郎は嘆息して、
「しかし、すばしっこい方を捕らえて、そうでない方を捕らえられないなんてことがあるのか? こんなに狭い島で?」
「面目ありません。……というかこの一件、なんだか妙、なんです」
「妙?」
彼の話をまとめると、こうだ。
通報があった”オオカミ族”たちは、すぐさま総動員で”オポッサ族”のサムの捜索に当たったという。
だが不思議なことに、どこを探しても影も形もない。
山エリアを含めたほうぼうを探し回ったが、結局彼の姿はどこにも見つからなかったという。
「それで?」
「………は」
「その後、どうなった?」
「一時、休憩のために警官の一人が戻ったところ、……見つかったんです。というか、もともとそこにあった、と言うべきでしょうか」
「?」
「”オポッサ族”のサムの死骸ですよ。死体安置所に。そのまま、置かれていたんです」
「ほう……」
いかにもそれは、先ほど狂太郎がした話を裏付けるような、――超自然的な決着であった。
「あ、あ、あ、あのぉ……」
そこで”ああああ”が、笑っているような、泣いているような、どこか複雑な表情で口を挟んだ。
「ちなみにその死体、間違いなく、死んでたんですよね? ――死んだふり、とかでなく」
「ええ。間違いありません。今度はしっかりと検死いたしました。弾丸が脳を貫通していたようです」
「もし、その状態で起き上がったとしたら」
「それはもう。――幽霊か何かだった、としか……」
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