後日談ということではもう一つ、小咄がある。
『ハンサガ』の世界を救済してから、おおよそ一週間後。
いつものサイゼリヤにて二人、向かい合って座りつつ、私と狂太郎は無駄話に興じていた。
「そういえば」
「ん」
「なんか、こう……以前、中断した議論があったような気がする」
「ああ、あったな」
「なんだっけ」
「憶えてるよ。その辺の会話は、いったん書き起こした覚えがあるからね。たしか『恋愛小説はごみ』とか、なんとか……」
「え? そんな話だったっけ?」
「うん」
「ずいぶん尖ってたんだな、昔のぼくは」
「昔……? いや、たしかあれ、そんなに前じゃないぞ。『ハンサガ』の世界を救う前だったはずだから」
「それだけ間が空けば、十分”昔”さ」
「おいおい」
さすがに表情をしかめる。途中まで進めていた将棋の盤面を、「やっぱりなし」とひっくり返されたような気分だ。
「恋は良いものだ。この世界に満ち満ちていくべきものだよ」
「それはずいぶん、意見を反転させたものだねえ」
「そうでもない。今だってぼくは、空虚な理想を追うような、その手の創作物は好かん。誤った作業工程を啓蒙する漫画に似た不快感がある」
「誤った作業工程?」
「SNSとかで、時々バズるじゃないか。個人的な成功体験を、万人にも求めようとするやつ」
「ああ……まあ、あるけど」
それと恋愛小説を同じように語るのもどうかと思うが……。
「だが、それはそれとして、……恋は良いものだと思う。これは矛盾した意見ではないはずだ」
眉間に手を当て、長いため息を吐く。
彼が浮かれるのも無理はない。
いま、我々の生活には、あの美しい、火道殺音が紛れ込んでいる。
そして彼女は、仲道狂太郎を頼って、はるばる京都からやってきたのだ。
これで何も想わないのであればそれはもう、男ではない。おちんちんを親元に帰して上げるべきであろう。
「なんだきみ、結局、あの娘に惚れてるのか? そうならそうと、はっきり言って欲しいな」
「なんだ。はっきりする必要があるのか?」
「ある。それによって、小説の描写を少し書き換えなければならない」
「惚れては、いない」
狂太郎は断じた。
「この議論は、出尽くしたものだと想っていたがね。ぼくは恋愛には向いてないよ。きみだってそうだろう? ……そもそも、我々の友人は皆、まともな恋ができるやつらじゃない。だからあの家にいられる」
目を逸らす。
それはまあ、そうだな、と、私も思っている。
「ではなぜ、心変わりした?」
「そう見えるか?」
「見えるね」
睨みをきかせて、私は目の前の男を見据える。
実を言うと、――彼の変転には、ちょっとした心当たりがあるのだ。
「そういえば前回、きみが救った世界だが」
「ん?」
「原稿を書いてる間に一つ、疑問に思ったことがあるんだ」
「原作者としてお答えしよう。なんでもどうぞ?」
原作者、ねえ。
私は皮肉に笑って、熱いコーヒーを口につける。
「なぜ、――嘘を吐いてる」
「なに……嘘?」
私は嘆息して、
「昨日、改めて原稿を読み直したんだがね。どーにも……矛盾と感じられる点があってな」
「そうか?」
「とはいえ、はっきりおかしいと思った訳じゃない。最初はあくまで、勘だった。女の勘というやつ。だが知っての通り、」
「……そうだな。きみの勘は良く当たる」
最初の違和感は、今から思春期になろうという娘の家に、どこの馬の骨とも知らないおっさんが長逗留するのを、本当に村人たちが許したのか、という疑問である。
もちろん、「そういう世界だから」という一言で解決できなくもない。――だがあの世界は一応、我々の住む世界の遙かな未来、と言う設定のはず。ごま塩頭の老人も、「男女七歳にして同衾せず」などと語っていた。つまり、その辺の感覚は我々とさほど変わらない、ということである。
だがその疑問も、仮面少女がある程度、責任能力のある年齢であるならば……話は違ってくるだろう。
例えば、そう。
彼女の年齢が「14歳」ではなく、「18、9歳」あるいは「20歳以上」であるとするなら。
「一応、言っとく。言い逃れはできないぞ。火道殺音から話は聞かせてもらってる。彼女、言ってたよ。仮面少女は確かに、――殺音とあまり歳の変わらない娘であった、と」
「そうか」
狂太郎はしばし、視線を宙に泳がせて、
「でも、――だから、どうしたっていうんだい。ぼくは別に、嘘を言っちゃあいない。あの世代の若い娘の正確な年齢なんて、正直良くわからないからね」
確かに、第二次成長期以降の女子は、年齢による身長差はあまりない。
うっかり高校生を中学生と見間違えても、それほど奇妙な話ではないだろう。
だが。
「少なくとも帰還した時点では、彼女の本当の年齢は知っていたはずだ。そこのところを君は、わざわざ嘘を吐いた、――何故だ? 嘘を吐いたと言うことはつまり、何か後ろめたいことがあったんじゃないのか? ……と、ここまで考えて、私はこう思ったんだ」
「――?」
「きみは、あの物語の中で、仮面少女と自分がちょっとでも、恋愛関係にあるとか……、そういう風に思われたくなかったんじゃないのか?」
言うと、……優れた腕前の棋士が次の手を読むように、狂太郎の凶相が、いよいよ深くなった。
その表情、真理を突かれた犯人のそれか。
あるいは、意表を突かれたが故か。
「するとさらに、もう一つ疑念が湧いてくる。きみは、仮面少女と寝た。……まあ、それは別に構わん。いい年した男女がすることだ。私だってそれをとやかく言うつもりはない」
目を、細める。
次の疑問の返答次第では、私は彼との付き合いを見直さなければならないためだ。
「だが、――きみたちは本当に、正しい手順で仲良くなったのか?」
「…………」
「例の、干からびた《指》。人に特別な《みりょく》を与える力を持つ、例のアレだ。きみは確か、最初に火道殺音と出会った時点であれを盗んだと言ったね」
「…………」
つまりこいつに、――それを利用する時間はたっぷりあったことになる。
悪魔の囁きに耳を貸す時間が。
「もしおまえが、人の心を操って、若い娘を弄ぶような男なのであれば……」
次なる言葉は実のところ、しっかり決まってはいない。
仮にいま、あのシェアハウスを出たとして、食っていけるだろうか。
だが私は、感情にまかせたまま、次のようなことを言った。
「私は、殺音と哀歌(※47)を連れて、家を出る」
「待て」
狂太郎は少し腰を浮かせて、
「待ってくれ。早まるな」
周囲からはきっと、別れを切り出された恋人に見えたことだろう。
「……なぜ?」
「きみのそれ、勘違いだからだ。いやもうホントに、完璧な勘違いだ」
「証拠は?」
「きみのだって、ほとんど状況証拠だろ」
そこで狂太郎、眉間を揉んで、
「ああ、いや……確かに、仮面少女の年齢を偽ったのは事実だ。それに関してはね。……でも、決してやましい気持ちがあったからそうした訳じゃない」
「やましい気持ちがないのに、なんだって嘘を吐く必要がある」
「それは……その、だな……ううむ……なんと言えばいいのか」
この男にしては珍しいくらい、しどろもどろだ。
こいつ、追い詰められたらこんな感じになるのな。
「……きみは、ぼくが意見を翻したといったな。それは……そう見えるのは、当然のことだ」
「?」
「以前ぼくはきみに、こう説明したよね。恋愛ほど、ルールのないものはない。唐突で、伏線もなく、説得力すら欠けるものだ。そんなものをテーマにして、一本の物語とするなど、物理的に不可能だ、と」
まあ……確かに、そんなことを言っていた、ような。
「つまり、――ぼくのような朴念仁にも……来たんだよ。その。そういう時が」
「……ほう」
「実はぼく、いま、好きな人がいるんだ」
それは、36歳のおっさんが言うには、実に初々しい告白であった。
とはいえ無理もない。この男の恋愛経験値の低さたるや、我がシェアハウスの同居人全員がよく知るレベルだ。
「それは……仮面少女ではなく?」
「異世界人では、ありえない。この世界の人間だ。ぼくはできれば、その人と結婚したいと思ってる」
聞いているこっちまで赤くなってしまいそうな、赤裸々なセリフである。
「だからその人に、二人の仲を勘違いをされたくなかった。それだけの話だ」
「そうなのか?」
「うん。だから誓おう。命を賭けても良い。――決してぼくが、外道に手を染めていないことを」
彼は珍しく、こちらの目を真っ直ぐに見つめている。隙あらばこっちの手を握りしめかねない勢いだ。
私はしばし、考え込んで。
「……………………………………ふむ」
結局、彼を信じてやることにした。
――仮面少女と狂太郎は実際、親子のような関係であった。
と。そのように。
「まあ……糞野郎が主人公だと、原稿書く気も失せるしな」
「そうかい」
狂太郎は、力なく苦笑する。
「ちなみに」
「ん?」
「一応、聞いておきたいんだが。おまえの好きな人って結局、誰なんだ」
「……………ええと、それは」
「殺音か、哀歌か。それとも他の誰かか」
訊ねると、――狂太郎は、じっと私を見据えた後、長い長い沈黙を作る。
そして、こう言った。
「黙秘権を主張する」
WORLD1245『狩人たちのサガ』
(了)
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(※47)
我々のもう一人の同居人。もちろん仮名。
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