足の踏み場もないとは、このことだった。
つま先立ちでゴミの間を歩きつつ、二階建ての扉を叩く。
「すいませーん」
自然、狂太郎の頭に浮かんでいたのは、普段の住処である、シェアハウスだ。
今は家事代行サービスを呼んでいるためかなりマシになっているが、生活能力に欠けた連中の集まりである我が家も、一時期は似たような惨状であった。
「あのー?」
「……なに?」
がちゃり、と。
明かりのない部屋から、二つの目がこちらを覗き込む。
一瞬、狂太郎はぎょっとした。
暗闇の中に、暗い色の眼球が二つ、ぽっかり浮かんでいるように見えたのである。
幽霊のように前髪で顔面を覆ったその娘は、髪の間から眼光のみ、ぎょろりと覗かせて、じっとこちらを睨め付けていた。
「……あ、ああ。あなたが、”ああああ”?」
今のセリフ、「あ」がやたら多いな。
「そう、ですけれど」
声は、ドスの利いた低音だ。殺意すら感じられる。
「少し、きみのことで話がしたいんだ」
「私のこと、ですか?」
「ああ。きみと、この世界のことで、聞きたいことがある」
彼女、狂太郎の頭のてっぺんから、つま先までじっと見つめて、
「なんで、です?」
「そりゃまあ、――この島のニンゲン族は、きみだけだって言うだろ。同族のよしみで……」
「私より、他の住民の方がよっぽど話しやすいですけれど」
「きみがいいんだ。……それに、あんまり自宅に引きこもってばかりというのも、少しもったいないだろ」
「…………余計なお世話、です」
ダメか。狂太郎はそう思った。
経験的にわかる。
こういう感じの汚部屋に住む引きこもりは、そう簡単に外へ出るものではない。
だが想定に反して、彼女はこう言った。
「準備に、一時間ほどかかりますけど。よろしい?」
「え? ああ。いいよ、もちろん」
「では、失礼」
そうして彼女は、素っ気なく扉を閉める。
振り向くとニャーコが、長い尻尾を知恵の輪的にくねくねさせて、
「あなた、なかなかやるじゃん!」
「ん?」
「あの子、普段はなかなか誘いに乗ってこないにゃよ。それをあっさり……」
「そうなのかい?」
「うん。昔はもっといろいろ、向こうから話しかけてきたりしたんだけど、最近はさっぱりって感じ」
「ふーん。……まあ、同じ種族ということが心の琴線に触れたんじゃないか」
「あと、新顔ってこともあるかもねぇ。……うふふ。このこと、はやくみんなに伝えなきゃ」
「別に良いけど、話し合いの邪魔だけはしないでくれよ」
「わかってるって♪ デートの邪魔はしない、にゃ!」
それだけ言って、彼女はぴゅーっと狂太郎の前から走り去ってしまう。
「やれやれ……」
その後ろ姿を見守りながら、……狂太郎は、ため息を一つ。
――デートか。
こちらは少し、話したいだけだったのだが。
▼
それから、一時間とちょっとあと。
近くに放置されていた腐りかけの椅子に腰掛けていると、
か、ちゃ……、
いかにも恐る恐る、という感じで扉が開いた。
発する声も、
「あ、あ、あ、あにょ~……ど、どーも、です」
出会い頭のドスの利いた声はどこへやら、もの凄いアニメ声だ。
その服装は、――いかにも、という感じのゴスロリ・ファッション。
黒を基調としたドレスの他、フリルやらリボンやらをふんだんに使った華美な装飾だ。
その他、ヘッドドレスやらオーバーニーソックス、厚底のブーツやら、ごちゃごちゃした髪飾りやら。
狂太郎はぼんやり、「仮面ライダーの最終形態みたいだな」と思っている。
「やあ。悪かったね、ずいぶん準備させてしまったみたいだ」
もちろん、いくら朴念仁の狂太郎も、次の言葉を言うことくらいはできた。
「似合ってるよ。さっきとは別人かと思った」
「うへ。うへへへへへ。そんな」
ここで飢夫なら、「きみみたいに可愛い子が云々」、もう一押しするところだろうが。
「それで、――ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいかい」
「はい。わかってます。……いまこれ、印刷してきました。私の月経周期です。それとこれ、基礎体温表。よろしくお願いします」
狂太郎、「は?」という顔をして、――やがて、ぞっと背筋を凍らせた。
押しつけられた表全体に、『えちえちできる日』という頭の悪いタイトルを見たためである。
「ちょ、おま。……聞きたいのはそういうことじゃない」
「えっ。違うんですか? だってあなた、私のことを知りたいって……」
「勘違いさせたならすまない。そういう意味で知りたかったわけじゃないんだ」
狂太郎は眉間を抑えて、ここに来たことは間違いだったのではないか、と気づき始めている。
「もっと広い意味で……なんか、世界の終わりを予感する何かが起こっていないかな、と」
「なんです、それ」
やはり、ピンときていないのはニャーコと同じか。
「実を言うとぼく、業者でね。この世界を救いに来た」
「世界を……?」
「うん。どうもこの世界、滅びかけているようだからさ、――それをなんとかしに来たんだ」
やはり、また頭がイカレてると思われるだけだろうか。
だが意外にも彼女は、ちょっぴり身を乗り出して、興味津々だ。
「滅びかけてる……って……なんで?」
「それがわからないんだよ。ただ、滅びかけているということだけは事実だから、ぼくが来てる」
「な、なるほど……!」
驚くべきことに彼女、あっさりと信じてくれた。
「すべての惑星が、山羊座と蟹座に集まる時……世界が滅亡する」
「なんだって?」
急に意味深なことを言うものだから、狂太郎は驚く。
だが、その言葉自体に深い意味はなかったらしい。”ああああ”は続けた。
「わたし、ずっと思ってたんです。この世の中にはきっと、重大で、恐ろしい何かが隠されてるに違いないって。この世界はひどく退屈で、救いようがないように思えるけれど、実はその裏で大いなる意志が働いていて、何か恐るべき陰謀を企んでいるんじゃないか、って」
「そうかね」
「私、何もかも全部、知ってるんですよ。インターネットに書いてましたから」
「ほほう。教えてくれないか」
「それは、――」
少女は、ごほんとひとつ、咳払いして、
「レティクル座のことです」
「レティクル、座?」
聞いたことがあるような、ないような。
そんな、ちょっぴり不思議な響きのする言葉だ。
「そう。レティクル座行きの列車には、現世で愛されなかった人だけが乗ることができる。レティクル座では、ジム・モリソンが水晶の舟を唄って歓迎してくれるんです」
死後の世界、か。
そのような事象を取り扱ったことはないが、――まあ、異世界でのことだ。何が起こってもおかしくない。
「おかしい……と、思いますか? 私の話」
心配そうに見上げる彼女に、狂太郎はにっと笑みを作った。
別に、”日雇い救世主”としては、それほど珍しい話でもない。そう思えたのだ。
「いや。詳しく聞かせてくれ。どうも、しっかり話を聞いた方が良さそうだから」
「ほ、本当ですか!?」
「うん」
そこでしばし、彼女の話に真剣に耳を傾ける。
・自殺者だけが、レティクル座行きの銀河鉄道に乗ることが許される。
・レティクル座に行くには、自殺しなくちゃいけない。
・ただし気をつけなければならないことがる。
・つまらない人生、くだらない人生を歩んできた者は、どこにも行くことができない。
・ここに、その者がつまらない人間かどうかを判断する審査員リストがある。
・ルイス・キャロル、アリス・リデル、太宰治、江戸川乱歩、コナン・ドイル……。
と、ここまで聞いた当たりで、だんだん彼女の目が不気味に輝き始めていることに気付く。
――ひょっとするとこの娘、適当なことをただ思いつくままに話しているだけなんじゃないだろうか。
狂太郎がその事実に気付いたのは、それから一時間後のことであった。
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