「なに、これ……?」
腕の感覚が、消失していく。
強烈な喪失感が、沙羅の胸にぽっかりと穴を空けていくのがわかった。
あの、目に見えぬ刃の一撃。どうも、あれを受けたのがマズかったらしい。
沙羅がみている前で、両腕が崩壊していく。――いや、その存在意義を失っていく、という感じだろうか。
バグ。
プログラムによって構成される、電子ゲームの天敵。
沙羅の両腕の崩壊は、毒が体内を巡るように、二の腕へせりあがっていく。
もし、この影響が全身に及んだら、自分はどうなるのだろう。
たぶん、――死ぬ。回復手段はなさそうだ。
「………………………ッ」
もしも。
もしも沙羅が、普通の女の子であったなら。
もしも彼女が、どこにでもいるごく一般的なサラマンダー娘であったなら、――そこまでだっただろう。
恐怖に打ち震えて、あっさりと降参してしまっていたに違いない。
だが、沙羅は違った。
両腕を失う、とか。
死にかけている、とか。
その程度のことで怖じ気づくほど、彼女は弱い女性ではない。
彼女とて、”救世主”の一人だ。
「ま、しゃーない」
と、あっさり事実を受け入れる。
――それにしても……バカだなあ。こいつ。
いくら自分の腕に自信があるからと言って、やりすぎだ。
もし自分を殺したら、”金の盾”の仲間が黙っていないだろう。
ヤマトが。
万葉が。
兵子が。
ローシュが。
Cスキル持ちの”救世主”が束になってしまえばもはや、こんな世界など一瞬にして消滅してしまってもおかしくない。そこのところだけは、割とマジの忠告だったのに。
――まあ、もちろん、黙ってやられたりはしないけどね。
沙羅は素早く二の腕をくちづけて、そのまま《火吐》。すると、あっという間に彼女の白い肌が焼け焦げ、ぼとりと地面に落ちた。
同じことを、もう片方の腕にも。
彼女のものだった両腕が、黒焦げた肉片となって地面に転がって。
「はい。これでオッケーっと」
両腕を失った格好だが、――切断部からは早くも、オレンジ色の輝きが出現している。輝きはやがて腕の形として収束し、復元された。
沙羅は、新たに生えてきた両腕をぐーぱーして、ちょっぴり肩を回す。
「さてさて♪ 勝負はここからよ」
鼻歌交じりで、言う。
とはいえこれは、完全な強がりだ。いくら彼女とて、いちど両腕を失って、平気なわけがなかった。実際、彼女の魔力はいま大幅に減退していたし、それだけ死に近づいている。
「この女、――蜥蜴の尻尾切りじゃあるまいし……」
と、頭の上の方から、制作者の独り言が聞こえてきた。
それで、直感的に理解する。
どうやらいま、沙羅の頭の上にある天井、見せかけにすぎないらしい。
――そうとわかれば。
と、彼女はぴょんと天井目掛けて、跳躍。
するとどうだろう。
沙羅の身体がつるんと天井を通り抜け、別の場所に移動した。
辺りを見回す。『有栖』の表札。――”ボーイ”の家の前だ。
沙羅たちがいた場所は、なんてことのない。薄っぺらいテクスチャーでに遮られた地下世界に過ぎなかった。魔方陣で移動させられたのは、ほんの五、六メートル程度であったのだろう。
「ちっ」
制作者は、沙羅と出くわすや否や、脱兎の如く逃げ出してしまう。
「あ、ちょっと!」
すかさず、その後を追いかける。――敵の動きがおかしいことに気づいたのは、その次の瞬間であった。どうやらあの男、滑走している、らしい。
何らかの手段で地面の摩擦をほとんど0にして、スキー・プレーヤーのように地面を移動しているのだ。
「なにこれ、まじか」
沙羅は、制作者が走った痕跡(モザイク処理を受けた画像のように、ぼやけて見えていた)を見て、
――これがあの、見えない剣の力ってことなのかな?
どうもあれ、触れた部分の性質を変える力があるらしい。
厭な予感がする。あれだけ殺意でいっぱいの敵が逃げ出した、ということは、――これも何らかの作戦のうちかもしれない。
とはいえ、これだけは確信を持って言えることがある。
あの、”見えない剣”による直接攻撃。
それ以外の攻撃ならば少なくとも、《無敵》が効くはずだ、と。
「ちょっと、そこのお姉さん」
と、その時であった。
先を急ぐ彼女に、一人の老人が声をかけてきたのは。
「すまんがわしに、コーラをくれないか?」
見る。その顔には覚えがある。――たしか、スペードだかクローバーだか。とにかくそういう感じの名前の人だ。
ちなみに彼女の懐中には、先ほどコンビニで手に入れておいた飲みかけのコーラがある。
「ごめんなさい。私、あなたに関わっている余裕は……」
「そうかNE。わかったTた、た、た、た、た、た、たユ」
次の瞬間である。彼の身体がぐにゃりと変異して、カタカナの『コ』の字に近い格好になったかと思うと、突如として全身、タコのようにぐにゃぐにゃとなって宙空で回転を始めたのは。
「うわ!」
沙羅もこれには仰天して、数歩下がる。
「なにこれ……」
それどころではない。老人の身体が、上半身だけ若い娘になったり、下半身だけ小男のそれになったりして、――果てには、スライム状にどろどろに溶けてしまったのだ。
溶ける間際、その不可解な生物は、このようなセリフを口にする。
「してくれ。ころしてくれ。殺してくれ。くれ。れ。れ。れ。れ」
無視、するしかなかった。
沙羅は素早く、辺りの塀の上に乗り、ぴょん、ぴょんと屋根の上を飛び移っていく。
すると唐突に、『武器・防具屋』と題された簡素な掘っ立て小屋が現れる。その中には、英文字の”T”のような格好で固まった男が立っていた。
彼は奇妙な格好のまま、顔だけ爽やかに笑って、
「こんにちは、”ガール”。何か買っていくかい?」
と、商売を持ちかけてくる。
「ラビット城の先にいくなら、武器が必要だぜ。おすすめはこの、銅の剣だ。薬草もあるよ」
「いえ。結構です」
「そうかい。ならば一つだけ教えておこう。闇の心律に気をつけよ。世界の終焉はそれと無関係ではない。個意識である。それが一定数と共振した時、聖なる波動は逆転し、変転し、最終的に物質化が行われる。
そこで生み出されたのがあの恐るべき《■■■■》だ。
《■■■■》は不可逆的な存在であり、それ自体に意味はない。だが無限の不可能性を追求するのであれば、そこに意味を見いだすことがあるかもしれない。
これはつまり、意味がないということを言えることもあるし、意味がないともいえるということである。
このことは”ボーイ”と”ガール”の存在に意味を見いだすことができるかもしれないし、そこに邪悪な波動と物質、光、宇宙、神、黒い太陽の毒電波による半減が関係している。これは絶対聖光点によって記録されます。この至極真っ当な論理構築に矛盾する浪漫影響により、彼らの伝説は叫んだ。「私が正義を護る!」これはつまり、我らが上位世界の崩壊に他ならない。⇒あなたはHPに44のダメージを受ける」
「ええとその……――あなた、何言ってるの?」
「幻夢など辞めて、さっさと大人になりなさい」
「????」
応えながら、自分はなぜ、この異常な状況で真っ当に応えているのだろうと思う。無視すればいいのに。
精神汚染の影響が、自分にまで及んでいるのかも知れない。
何かの、目くらましにあっている。時間稼ぎを受けている。
ということはつまり、相手はこちらを恐れている、ということかもしれない。
――落ち着け、私。
この敵が、一つの世界を任せるには足りない男だと言うことは、すでにはっきりしていた。
――強い力を持つ人が、……正しい判断をできないなら。きっとそいつは、死ぬべきなんだ。
始末を付ける。ここで。
沙羅の決意はやがて、断固たるものとして変貌している。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!