おかしなことが、起こっている。
それだけは確かだ。
いつから? わからない。
あるいは、今朝からか。もしくは、昨夜から?
もっともっと前からかもしれない。
自分の中に、二種類の人格がいるかのような感じがする。
たとえばいまのこの、通い慣れた道。それを見ても、
――見慣れない道だ。
という気持ちが、心のどこかにある。
「どうしちまったんだ。ぼくは」
夢の世界を歩いているような。そういう、現実感のない気分だった。
ふらふらとした足取りで、自宅へ戻る。
表札にはただ、『有栖』という文字が書かれていて、
――あれ。ぼくの苗字、こんなんだっけ?
という、不可解な疑念に襲われた。
混乱しながらも自室に戻り、いつものようにパソコンの電源をオン。
――そういえば、パソコンを捨てなくちゃいけないんだったか。
ぼんやりとした頭でそう思いながら、せめてPCデータのバックアップを取る。
PCを捨てろとは命ぜられたが、データまで消せとは言われていないから。
デスクトップに表示されているのは、これまでクリアしてきた、様々なフリーゲームの数々。
限られた小遣いの中、ゲームで遊ぶには、こうした無料作品をダウンロードして遊ぶしかなかった。
その中でも、特に心残りだったのはもちろん、――
『ファイナル・ベルトアース ~ドリームウォッチャーのなぞ~』。
である。
「結局、なんだったんだ。ドリームウォッチャーの謎って」
とはいえもう、このゲームを攻略しているような時間は、ない。
「へんてこなゲームだったな……」
たぶんだがこれ、もともとクリアできるような作りになっていないのだろう。
人生の、あらゆるつまらない部分を集約したようなゲーム、であった。
「……父さんはなんで、こんなゲームを……って、ん?」
そこで狂太郎は、パソコンのデスクトップ上にひとつ、見慣れないデータがあることに気づく。
一つのテキストデータ。
タイトルは、『”救世主”の後輩へ』という。
「?」
気になって、まずそれをクリックする。
表示された文章は、以下のような内容だった。
『やあ、おつかれさま。
このデータをクリックできているということは、あんたも”救世主”の一人だな。
……まあ、そうじゃない可能性もあるけども、今回の場合は、そうだという前提で話を進めさせてもらうぜ。
ぼくは恐らく、あんたの先輩だ。
名前は仮に、”K”とさせてもらおう。
”エッヂ&マジック”という会社に所属している、ごくごく一般的な”救世主”……と、ここまでいえば、あんたには思い当たる節があるかもしれない。
……いや。
まだ、いまのおまえじゃ、「なんじゃそれ」って感じかね。
無理もない。それもこれもあの、”エッヂ&マジック”のせいだ。
会社の連中が予算ケチって、”救世主”に与えるスキルのレベルを低いままにしてるからな。
ここにこの文章を残しているのは、もし、ぼくの後輩が、この奇妙な世界に迷い込んでしまった時のための保険だ。
結論を言うと、――心のどこかでうっすらと気づいている通り、あんたはこの世界の住人じゃあない。
あんたはこんな、しみったれた世界のしみったれた家族のしみったれた一人息子じゃないんだよ。
もっともっと、広い世界を旅する自由人。それがあんたの正体なのさ。
冗談みたいに聞こえるかい? 思春期特有の万能感による、薄っぺらい妄想の類だと?
だろーね。ぼくだってしばらく、そう思っていた。
でも、違うんだ。
ぼくたち”救世主”は、こんなところで遊んでいていい身分じゃないんだよ。
だってそうだろ?
助けを待つ数多の人々が、いまもぼくたちを待ち続けているんだから。
なあ。
名も知れぬ後輩よ。
ぼくはいままで、信じられないようなものをたくさん、目の当たりにしてきた。
オリオン座の近くで燃え上がる黄金の戦闘艦。
愛の女神の元で、騎士タンホイザーとともに官能の世界に溺れる日々。
暗闇に瞬き、異世界人を焼き払うCビーム。
あんただってきっと、似たような経験をしてきたはずだ。
ぜんぶぜんぶ、ただの妄想だと思うかい。
いや、そんなはずはない。
思い出せ。真の自分を取り返すんだ。
失われたアイテムは、父親の部屋に放置されているはずだ。
そこで《ゲート・キー》を奪還して、さっさと元の世界へ逃げ帰れ。
……もし、ここまでの言葉全部が信じられないっていうなら、いますぐ隣町に行ってみるといい。
あんたが望む、『確信』が得られるはずだよ。
健闘を祈る。
あんたの個人的な救世主、――Kより。』
▼
「……はっ、はっ……ふう」
そうして狂太郎は家を出て、自転車を走らせている。
心臓が、ばくばくと高鳴っていた。
――そんな馬鹿な。
という気持ちと、
――やはりか。
という気持ちが重なっていて。
――ありえない。こんなの全部、思春期のガキが寝る前にする妄想に過ぎない。
だが、万が一という可能性も捨てきれなかった。
本当の自分は、いまここにいる自分ではない。
そんな、有り得べからざる妄想が、現実となるなんて。
脳が痺れるような興奮を覚える反面、――ひどく不安にも思えている。
父親の庇護下にいるという、恐らくは動物の本能に根付いた安心感が、引き返すことを望んでいた。
戻れ。戻れ。
巣を出たところで、良いことなんて何もないぞ、と。
だが、それでも、――彼は、全力で自転車のペダルを踏んでいた。
隣町には、本屋がある。ゲーム屋もある。イオンもある。時々こっそり食べに行く、クリーム多めに載せてくれるクレープ屋もある。
そういう記憶がある。
――もし何もかも、何かの勘違いであったなら。
近所のコンビニで、アイスでも買って帰ろう。
馬鹿みたいなことをしたなと、笑い飛ばせばいいじゃないか。
それでいい。
「………ふう、ふう……。あと、もう少しで……」
その時である。
どんっ、
と、何かにぶち当たって、狂太郎の乗る自転車がひっくり返ったのは。
「わあ!」
悲鳴を上げて、天地が真っ逆さまになった。
そのまま、肩の辺りを強かに打って、地面をごろごろと転がる。
「……いてて……! な、なんだ?」
驚き、立ちあがるが、――目をこらしてよく見ても、何にぶつかったかは分からない。
まるで、透明の壁にぶつかったような感じだった。
同時に、
>>このたたかいからは にげられない!
というアナウンスが、辺りに響き渡る。
「……は?」
狐につままれたような気分で、辺りをきょろきょろと見る。
大通りにかかわらず、人気はない。まるでこの先に、何もないことをみんな知っているかのように。
「……そんな……馬鹿な」
いまのアナウンスには、覚えがあった。
あれは……、
――『ファイナル・ベルトアース』で、ボス敵から逃げるときに流れるアナウンスでは。
狂太郎は両腕を前に伸ばして、もう一度、見えない壁へと向かう。
するとやはり、その手に触れるものがあった。物理的な障壁だ。
極限まで透明化したガラスの壁とでも言うべきか。殴っても蹴っても、びくともしない。
通りすがりの老人が、なんの脈絡もなく「さて。そろそろ夕食の時間だな。家に帰ろう。だがその前にやるべきことがあったはずだが……はて、なんだろう」というような台詞を吐いた。
そこで再び、
>>このたたかいからは にげられない!
「これ、ひょっとして……」
夢だけど、夢じゃなかった、ってことかな。
冗談交じりにそう思うが、……まるで笑えない。
日は、傾きかけている。
ふと、カーブミラー越しに、自分の姿を覗き込む。
なぜ、これまでずっと、この明白な事実に気づかなかったのかわからない。
そこに立っていたのは、つんつるてんの学生服を身に纏った、――おっさんの姿であった。
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