「あああああ……ムカつくぅ!」
魔王軍司令部、セーガル河から東へ少し入って森を切り拓いた魔族の軍事拠点で、魔王軍司令官であるアルノヴィーチェは転がっていた。
「お嬢様の自業自得かと」
「……カレン、もう少し真祖に対する敬意とかってないの?」
「お嬢様の眷属として敬っておりますし我が身を捧げる所存です」
「なら慰めてくれても」
「ですが、ご自分の本当のお姿を隠した上で売り言葉に買い言葉で喧嘩したことは、紛うことなく、完膚なきまでに、一ミリの狂いもなく、誰がどう見ても、擁護しようもなくお嬢様の自業自得でございますので」
「ああああああああ!」
容赦ないメイドであるカレンは、ベッドで転げ回る主を生暖かい目で見守りながらも自分の仕事を粛々と進める。
具体的にはまず、アルノが魔術で隠していた艶やかな長い黒髪を梳くために、転がるアルノを自分の方へ来たところでがっしりと掴んで止めることだ。
「だってさ、ハルが酷いんだもの」
どこにそんな膂力が、と思うほどあっさりとアルノの両脇に手を入れて持ち上げ、スツールにおとなしく座らされる。
そのまま彼女の髪を丁寧に梳くメイドに、鏡越しに愚痴を続ける。
大将にぼこられた挙句、妖族の衛視に叩き出されたハルとアルノは、全力で殴り合ったにも関わらず傷一つない顔を見合わせて苦笑した。
ハルには女神の祝福という呪いがあるし、アルノはアルノで完全な人外だ。お互いが戦っても不毛でしかない。
無論、ハルにはアルノのような膂力はないから本当に殺し合いをしたら秒も防げずサンドバッグなのだが。
ただ、身につけているものにまでそれらが適用されることもなく、お互いにボロボロの格好になってしまっていた。
問題は、仕方ないなと立ち上がり、フードも脱げたアルノにハルが別れ際に言った言葉だった。
「お前が女ならあっという間に惚れてるわ、とかもうめっちゃムカつく!外套ないんだから、このぐらまらすなぼでぃ見えてんじゃん!」
むっきー、と憤慨するアルノだが、主に絶対の忠誠を誓うメイドもさすがに嘘はつけなかった。
「お嬢様、グラマラスなボディという表現はつるぺたの言い換えではございません」
「……どういう意味よ」
そして本当に主人に忠実なメイドは、時には過酷な現実を突きつける必要もあるのだ、ということをカレンはよく理解していた。
魔族は基本的に脳筋だが、女性は比較的知性と理性を備え、男性をうまくコントロールすることで社会の均衡を保っている。アルノの眷属たるカレンは、その能力をもちろん高度に習得しているのだ。
「お嬢様が納得できるよう具体的に申し上げますと、身長150cmでしたら80、60、90くらいはないとグラマラスとは言えないでしょう。そしてお嬢様は身長147cmの70、57、80でございます」
「……うぐぅ」
ぐぅの音も出ないというものを実際に目の当たりにするのは初めてですね、とどうでも良い感想を抱きながら、カレンは死んだ魚の目になった主人の両脇に手を入れて再び持ち上げて立たせると衣装の着替えに入る。
「そもそも、戦争相手だからと女性であることを隠したのはお嬢様です。ハル様はお嬢様に騙されている立場であって、騙している張本人がそのことに憤慨するのは理不尽ではないかと愚考いたします」
「ねぇカレン、真祖に対する敬意を……」
「心からお嬢様に忠誠を捧げております。だからこそ時には現実に向き合って頂くこともメイドの務めでございます」
「……うぐぅ」
本日二度目のぐぅの音であった。
「あああああああああ!俺はどうしちまったんだ!」
勇者軍司令部、セーガル河から西へ少し入った要塞への補給地点となる交易都市の執務室で、ハルは身悶えていた。
「お主の性癖も行くところまで行ったということかのう。難儀なことじゃ」
「いやヴェセル、お前もうちょっと上官に対する敬意とか気遣いとかないの?」
「儂とお主の付き合いももう六十年、今更じゃろう」
「そりゃそうだけどさ……くっそ生意気だった若造がこんなに年喰っちまって、生意気が面倒になりやがった」
「今じゃお主の方が若造じゃろうが」
「実年齢では俺の方が上だろ!」
この世界に転移して初めて出会った人族、ヴェセルは当時王国軍の小隊長だった。物怖じしない性格で、右も左もわからないハルの世話を何くれとなくやいてくれ、その点ではとてもありがたいと思っている。
だが、ハルが参謀として勇者軍の指揮を執りその副官かつ相談役として侍るようになっても、態度が変わらないどころか見た目年齢に応じた接し方となり、年長者が生温く年下を諭すような目つきで相対してくるのは気に食わない。
気兼ねなく話せるのは良いのだが、歯に衣着せない言い方が時折ハルの心をぽっきり折ることもあるのだ。
「ていうかお前、性癖とか言うなよ」
「他にどんな表現があるというんじゃ。まあ、英雄色を好むと言うからの、男色もまた色には違いないじゃろうて。儂には理解できんが」
「だから違う!俺にそんな趣味はない!」
「何が違う?魔王軍司令官に見惚れてしまったのは事実なのじゃろう?」
「いや見惚れたって言うか……ほらあいつ、絶対ローブ姿でフード被ってるじゃん。何と言うか、こう、完全に脱いだ姿って見慣れてなかったって言うか。だからほら、ちょっと変な気になっちゃってつい口走ったって言うか何て言うか……」
「美少年の脱いだ姿に欲情したのか、変態じゃのう」
「だから言い方!」
こいつに言うんじゃなかった、とハルはげっそりしたが彼以外に何でも話せる相手がいないというのも事実。そしてローブを脱いだアルノの、繊細な線やほっそりとした手足、白い肌に見惚れてしまったのも事実だ。
勇者軍参謀という立場から、貴族や商人たちからの縁談や色目を使ってくる女性がいなかった訳ではない。
見た目もアルノが口にしたほど不細工ということもなくごく平均的だし、この世界では年齢の割に若く見える。頭の回転も悪くはないし、営業職だった経験からコミュニケーション能力にも問題はない。
貴族からしてみればこれから国の柱石となるであろう優秀な人材を確保できるし、財力のある商人からすれば軍参謀という政治的な繋がりのきっかけとなり且つ面倒な背景のない好物件だ。それこそ引く手数多だったし、実際にお試し程度の付き合いでいくらかの関係に至りそうになった女性だっている。
無論、高位貴族や影響力のありすぎる商人の関係者ではないが。
そんな彼だったが、十年、二十年と経過してまったく変わらない容姿であることが明らかになってくると話は違ってくる。
国や軍としては、「劣化しない優秀な駒」だが娘の相手として見繕うとなると「生涯を共にできない化物」だ。
そんな訳で、この三十年近くは娼館にしかお世話になっていない。
それも最後に足を運べたのは一体いつのことやら、だ。
「玄人に飽いてきたか」
頭を抱えるハルに、ヴェセルが「わかる、わかるよ」みたいな視線を投げかける。同情かつ憐憫を含んだ視線がうざいったらない。
「だがまあ」
が、続いてかけられた声には別の温度があり、ハルは顔を上げる。
「お主の特異な在り方もよくわかっておるからの。儂としては……お主と共に歩めるのであれば、それが魔族であろうと妖族であろうと、まして男女の性別にすら何も言わんよ」
あの時若かったヴェセルも、もう八十を超えた。
当時ハルを囲んでいた軍属は残っていない。誰も彼もがハルを残して戦場の露となるか、老衰で天寿を迎えている。変わらないハルだけがいつまでも戦場に立ち、彼らはそんなハルを置き去りにしたまま自分たちだけは全うな人生を歩んだのだ。
罪悪感ではない。
が、初めてハルと接した人族として、また気の合う仲間として放っておけなかったヴェセルだけがこうして彼の側にいる。
それももう残り僅かだろう。
平均寿命はとっくに超えた。
人族と魔族の争いの行方にも、王国の将来にも興味はない。
ただハルの今後だけが心配だった。
誰も一緒に歩いてくれない彼に、彼の望む者が隣に立ってくれるのであれば人種も性別もどうでも良かったのだ。
そんなヴェセルの考えは、長年共に過ごしてきたハルにはもちろんわかっている。
だから、久方ぶりに見せる穏やかな笑みでこう言うのだ。
「ありがとな、ヴェセル。お前がいてくれて本当に助かってるよ」
「……いくら素人日照りでも、儂に色目を向けるなよ」
「台無しだよ!」
枯れジジイに興味なんぞあるか!とハルの魂の叫びが響いた。
「そもそもお嬢様」
「何よ」
軍務のない日は、人族のようなワンピース姿が気に入っている。
数少ない魔族の縫製職人では質の高いものはできないので、これも人族のものを妖族の街で購入したものだ。
濃い緑色に白の差し色が、黒髪に白い肌のアルノには似合っていてお気に入りのものだ。カレンの。
「ハル様のことをどう思っておられるのですか」
「ぶふっ!」
傾けていた紅茶を吐き出し、慌てて服にかかっていないかチェックする。
幸いなことに被害はテーブルの上だけで済んだようだ。
「そんなの決まってるわ。敵の……」
「敵の参謀。力押しで陥とせると思っていた砦を搦手で守り抜いた面倒くさいやつ」
「……そうよ」
「脳筋魔族相手にも、弱っちい人族相手にも、膂力だけの勇者相手にも飽きていた頃に現れた、力も知能も全力でぶつけられた上で後腐れなく飲み明かせる面白い人族。お嬢様の認識はこれで正しいでしょうか」
「まあ、間違ってはいないわ」
「戦場で一進一退の全力攻防を楽しめる、敵軍の前線トップ」
「ええ」
「ならば、女として見られなかったとしても問題ないのではございませんか」
「……そうね」
「ではつるぺたで男と思われていても関係はございませんね」
「そう……ん?ねぇ、カレンは本当に私の眷属なのよね?」
ぺたぺたと自分の胸を触りながら横目でカレンを睨みつける。
が、当のメイドはすました顔で言い放った。
「ただのライバル、敵、勇者軍の参謀。これに相対するのにご自分の性別をどう捉えられていたとしても、何かしらの影響を与えるとは思えませんが、いかがでしょう」
「いかがでしょうと言われても……まあそれはそうなんだけど」
全くもってカレンの言う通りではある。
魔王軍司令官と勇者軍参謀、それがただの敵同士というだけでなくたまに飲み交わすような仲ではあるが、それぞれの肩書きがそうである以上そこに性別などは関係ない。
……はずだ。
性別が関係してくるのは、それに何かしらの意味を持たせようとしている時だけなのだから。それがどちらからなのか、はわからないが。
「カレンだって悔しくないの?あなたが一生懸命磨き上げてる主が、男だと思われてるのよ?」
だから最初にそうしたのはお嬢様でしょうに、と言いたくなるのを賢明で優秀なメイドはぐっと抑えた。
その理屈で言うならば、折角磨き上げてるのに男のフリをするなんて苦労を台無しにする気か、と憤慨の矛先が最初に向かうのはアルノに対してであるはずなのだから。
「くっそぅ……あいつ次に戦場であったら絶対ぶっ殺す」
ぐぬぬ、とカップを噛み砕かんとするようにその尖った歯を剥き出しにする姿では、カレンが作り上げた愛らしい雰囲気も台無しだ。
アルノ自身が最もカレンの努力を無駄にしているということには、やはり気づいていないらしい。
それより何より。
もう二百年も生きているのに浮いた話ひとつ出てこない主が、自分のことを女として見てもらいたいという気持ちを無意識にでも持つ相手なんて今までにいなかった。
脳筋かつ種族によっては到底彼女たちと同じ族であると思えないような魔族の男にも、それなりに容姿が近く見目が麗しい者もいたと言うのに。
それはそれでチャンスなのでは、と一瞬だけ思い浮かんだカレンだったが、戦場で平時の屈辱を晴らすと意気込んで牙を煌めかせる主にため息しか出なかった。
「違うんだ……違うんだ、俺はBLなんかじゃないんだ。て言うかそもそもボーイですらないんじゃないか?」
「お主は何を言っているのか、相変わらず理解できんのう」
何じゃい、びーえるって。
そう尋ねるヴェセルにハルが嘆く。
「やめて、マジやめてお願いします。枯れたジジイに真顔でそんな単語言われると結構きついっす」
「何を言っとるんじゃ。それよりほれ、王都から次の作戦指令書が届いておるぞ」
ばさっと放り投げるように執務机に置かれた封筒に、ハルはげんなりとした目をした。もちろん仕事である以上、ヴェセルはそんな目線を完全スルーする。
「なあ……これ見なくてもわかる気がするんだが」
「知らん。それを開封するのはお主の役目じゃ。言いたいことがあるなら確認してから言え」
はあ、と大きくため息をつくと卓上のペーパーナイフを取り開封する。王室の封蝋があった時点で嫌な予感はしたが、中の書類末尾に記されたサインでその予感が的中したことを悟りがっくりと項垂れる。
「なあ、そうまでして俺を排除したいならさっさとお役御免にしてくれないかな。正直この国に受けた恩なんて返し切ったと思うんだよ」
「それこそ儂は知らん。王室に直接奏上してみたらどうじゃ」
「いやいや、GI☆RO☆CHI☆N待ったなしじゃん。そこから助かるようなチートなんて俺持ってないし」
「安心せい、首は拾ってやる」
「そこは骨にしといてくれよ、生々しいなおい」
どうやら王都では相も変わらず統帥権を奪い返したい王室と、ハルの戦友たる軍務省との間の駆け引きが激しいようだ。
作戦指令書、とヴェセルは言ったが正確には王室からの勅令であって軍としての作戦指令ではない。彼の下に置かれている王室直轄近衛第三連隊への指示という形式を取って、彼に司令官として作戦を遂行せよとの王室命令だ。
「俺の直轄で軍が二系統あるのも面倒なんだよなあ。近衛の連中も可哀想……とはあまり思わないけど」
由緒ある貴族の子息たちで固められた部隊長たちに、その門閥貴族や陪臣で埋められた近衛は選民思想が強く、異界人とは言えこの世界では平民でしかないハルをあからさまに蔑んでいる。
辛うじて指示には従うものの、使いづらいったらない。
「こりゃ次の戦闘は荒れそうだなあ」
窓の外を見ながら呟く。
まさしく大荒れにするために、遥か河向こうの魔王軍拠点でアルノが今まさに大荒れになっていることを、彼は知りようもなかったけれども。
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