「なあヴェセル、俺は本格的におかしくなったのかも知れない」
「いや、お主がおかしくなかったことなど一秒たりともないが」
ヴェセルのあんまりな返しに、こいつ本当に俺の副官なのかな?と疑問が浮かぶがいつものことだ、気にしても仕方ない。
広縁に置かれた応接セットに腰を下ろし、湯上りの体を冷ましつつ降り始めた小雪の中庭を眺める。
戦場や王室との諍いで疲れた心身に染み渡る光景だ。
アルノとカレンは本館の庭園が雪景色に合わせて作られているとのことで、わくわくしながら出て行った。
年明けには王都へ行き、謁見しなければならない。
この年末が最後の穏やかな時間になるだろうはずなのに、ハルはどこか収まりの悪い気持ちを抱えていた。
「前から言っておろう。別に問題ないと。なんじゃったか……お主の言うびーえるとやら。勇者たちも百合やら薔薇やらと言っておったが、何組かいるらしいではないか。異界では当たり前なのじゃろ?」
お茶を啜りながら言うヴェセルに、
「いや、俺も別に同性がダメとは思ってないんだがな。こう、自分がそうなると思ってなかったから頭では理解できてても心が追いつかないと言うか」
「何を童貞みたいなことを。あ、童貞じゃったか」
「童貞ちゃうわ!」
「済まんな、間違えたようじゃ。素人童貞じゃったな」
「違……くないけどさぁ」
浮きかけた腰を下ろすと、がっくりと項垂れる。
「だってしょうがないじゃんよ。生きるだけで精一杯で娼館以外じゃ発散しようがなかったんしさ。ようやく余裕できてきたと思ったら人外認定されてるし」
ヴェセルも、まあ正直哀れだとは思う。
この世界で軍人として歩むことにしたのも、小隊長だったヴェセルが最初に彼を拾ったからでもある。
とは言え、市井の一般人として暮らしたとしてもいずれ年をとらないことはバレていたはずだから結果は同じだったろうが、戦場より余裕がある間に結婚のひとつもできていたかも知れない。
それが年を取らず置いて行かれるハルと、普通に年をとってハルを置いて行く妻とでどのような結末に繋がったのだろうかということはわからないが。
「そもそもじゃな。男だから好きになったなら同性愛者じゃろうが、好きになった相手が男だった、は少々趣が異なるのではないか」
うんうんと悩むハルに、こいつ面倒臭ぇという本心を適度に隠しつつ説得にかかる。
というか、アルノが女とわかっているヴェセルにしてみれば、女性を好きになった男の親友に、相手が男であると騙されている前提で女性であるのに男性でも良いじゃないかと説得をするという、完全に意味不明な事態だ。
カノ王女の教師まで勤め上げた優秀な頭脳が、これほど混乱させられたこともない。
「お主はアルノ殿が気になるのであろう?殺しあう相手であるということは脇に置いて、男というターゲットの中からアルノ殿を『選んだ』のではなかろう」
「そりゃな」
「例えばの話じゃが。アルノ殿が実は女だった、としたら嫌いになるんかの?」
「ないな」
「ではハルはアルノ殿が好きなだけで、男色とは関係ない」
「そう……なのか?」
くっそこいつ面倒臭ぇ!
ヴェセル魂の叫びであるが、そこは大人だ表情に出したりしない。
たぶん記憶がないことに関係しているのであろうが、ハルは自分の立ち位置を定めることに慎重で真面目だ。
自分の所属する人族に対して真面目であろうとするが故に、敵である魔族に対する虚構や欺瞞などえげつない手を平気で用いる。
だがそれも、曖昧でこの世界のどこも踏みしめることができない自分に対する不安からなのだろう。
それこそ軍で功績を上げ始めた当初は王族貴族に財界からも引く手数多だったのに、その誰にも手を出さず挙句に人外扱いされてしまったのもそんなハルの事情からも同情すべき点である。
と、限界まで抑えていたのだが、
「……だからさ、こう、俺としては自分がどうしたいかを突き詰めて」
「だああ!やっかましいわこのこじらせクソ童貞め!」
さすがのヴェセルもぶち切れた。
「うおっ?!ヴェセル、どうし」
「どうしたもこうしたもあるか!いいからさっさと押し倒せ!」
「んなっ?!ば、バカ言うな、あいつ相手じゃ俺が押し倒される方だし、何ならそのまま物理的に捕食されるわ!」
「アホか!犯ること犯ってさっさと幸せにならんかこの馬鹿者が!」
「ちょっ、表現、表現!賢者とか言われてるジジイらしくねぇぞ!」
ヴェセルの叫びにそこはかとなくハルに対する友情が含まれているが、ヒートアップしている二人は気がついていない。
ここに来てハルが急激にアルノを意識し始めたのは、湯上り姿にどきりとしたとかそういった甘酸っぱいことではなく、単にアルノの方が自覚したことで無意識下の精神魔法が緩んでいるからだろう。
箍が外れてしまえば元来アルノが好みど直球のハルであるし、その上で自分と同じ存在なのだから行くところまで行くのは豪速球レベルのはずだ。
が、アルノが自らの意思で解除し明かすまで、ヴェセルとカレンの口から何かを言う訳にもいかない。
もどかしい、というよりイラつくこと限りないがこればっかりは仕方ない話だ。
「うがぁっ!ほんっとこのクソ童貞は!まったく!まったく!」
「おいぃヴェセルぅ!キャラ崩壊してるから、マジでヤバイから、ていうか血管切れてぽっくり行くぞ!落ち着け、落ち着け」
「誰のせいと思っとるんじゃ!」
小雪が石木にうっすらとかかる静かな庭園に、はぁっと白い湯気を含みながら吐き出すアルノの声だけが染みる。
「ねぇカレン」
「はい、お嬢様」
「私、最近おかしくない?」
「むしろ、おかしくなかったことがあるのでしょうか?アルノ様だけに」
「え、今なんて」
「ご自身で何がおかしいのか、わかっていらっしゃるなら私の出番はございません。それはお嬢様が確認したいだけであって、お嬢様であれば私の手など借りず自力で事をなされるでしょうから」
「あ、うん、あの、それで今なんか駄洒落を」
「ですがもし気付かれていないのであれば、私でお役に立てることもあるかと」
「うん、ありがとう。で、今なんて」
「とは言えお嬢様のことです、もう答えは出ていらっしゃるのではないかと愚考いたしますが」
暖簾に腕押しなのはいつものこと、それでもカレンが心底ではアルノのことを想いアルノにとって不都合になるようなことをするはずもないし、常にアルノ第一で考えてくれていることはわかっている。
ただそう、ちょっと言葉が過ぎるだけだ。
それがたまたま、割と、稀に、深くアルノの心に刺さるだけで。
「阿呆の考え休むに似たり、という言葉があるそうです」
「ねぇカレン、それを今ここで言うのはどんな意図があるのかしら。私を表現したのよね?」
「他意はございません」
一言多いのも、アルノのことを思うが故だ。
決して揶揄って楽しんでいるとか、おちょくるのが趣味だとか、そういったことはないのだ、マジで。
多分。おそらく。きっと。
主のふわりとした栗色のショートカットに落ちて水になった雪を、ハンカチで軽く吸い取るとカレンはふと真面目な表情をした。
「お嬢様は吸血鬼です」
「え、うん。そうね」
「血を吸う訳ではなく、存在のかけらを取り込んでいるというのが正しい表現です」
「うん」
眷属であるカレンは当然のことながら知っていることだ。
彼女たちにとって今更確認するまでもないそれをわざわざ口にする理由がわからず、首を傾げながらアルノは庭園にゆっくりと進めていた足を止め、彼女より少し背の高い侍女を見上げた。
「私は眷属でしかありませんので食事で代用することは可能ですが、お嬢様はむしろ食事は嗜好品であり必須ではありません」
赤い目に見つめられたカレンは表情を変えることなく淡々と続ける。
真意がよくわからないままに、アルノも黙って耳を傾ける。
「逆に存在を吸血することは必須です。その存在の在り方が深ければ深いほど濃縮された血は美味かつお嬢様の生存に必須なものとなります」
つまり、と。
「お嬢様ご自身の血は不味くて不要なものということですね。ぷぷぷ」
「ねぇカレン。何度も言うようだけど、私ちゃんと眷属化できてるよね?大丈夫だよね?」
吸血鬼としての特性に自信がなくなってきたアルノが不安げに尋ねる。
が、もちろんカレンはそれに答えることなくすっと目を逸らす。
小さな太鼓橋へ続く飛び石から、橋のある池を眺める……フリをして。
「え、ちょっとマジで不安になるんだけど。カレン?」
「そんな当たり前の事実を踏まえまして」
「どこからどこまでがカレンにとっての事実なのかな」
「踏まえまして」
「あ、はい」
なんだかちょっとだけ切なくなったアルノは、勢いに押されるまま頷いた。
「お嬢様は『夜に鳴く鶏亭』で、お食事だけをされている訳ではありませんね」
「あー……うん」
気まずげに俯いてしまったが、よく考えてみればそれ自体は吸血鬼である自分の種族特性であって責められるようなものではない。
もちろんカレンの言葉にそういった含みはないが、どうしてか気が引けてしまった。
ハルに黙って吸血している後ろめたさというだけではない気がする。
カレンの吸血は文字通り血を吸う行為に近く、体内を巡るその存在を象る大元たる血液に接触することを要する。
そのため、ナイフで傷つけた指先などから血液を介して食事をするのだ。
が、アルノのそれは存在を感じ取るだけで可能だから、基本的には接触する必要すらない。
もちろん物理的な距離が近ければ近いほど良いし、カレンと同様に血を介すればより効率的に摂取できるのだが、そんな面倒なことを敢えてする必要はない。
だから「夜に鳴く鶏亭」でハルの存在を吸血していることに、おそらくハルは気付いていない。
アルノの吸血行動が隠密であるということもそうだが、存在の在り処を探られ吸われるわけだから多少なりの脱力感や虚脱感があるものなのに、ハルの存在が深すぎて吸われている彼自身が、多少の吸血行為では気づかないということの方が理由としては大きい。
他者の存在を取り込んで自らの実在をより確かなものにする。
それが吸血鬼の吸血行動であり、アルノが強大な存在であることの理由だ。
魔族の血を少しずつ啜っていただけでも魔王に次ぐ力を持つのだから、戦場に出た百年前、そしてハルと出会った五十年前からはより甚大な存在感を持つ吸血鬼となっており、そしてはそれは、そんなアルノを以ってしても殺せないハルの異常性にも繋がる。
だからハルの血を欲するのだろうか。
数ヶ月吸血しない程度では、何ら飢餓感を覚えるようなこともない。
確かにカレンの言う通り、眷属と違って真祖であるアルノは必須の食事として吸血する。
とは言え、それほど頻繁に吸う必要はないし、そもそも非効率とは言え、ハルではなく敵である人族から戦場で吸血すれば済む話だ。
ほぼ脳筋で構成された単純な魔族よりも深い存在質を持つ人族は、十分に足しにはなるのだから。
「それほどまでに美味しいのですか?」
「え」
足元で苔に染み込んでいく雪を見ながら考えに耽っていたアルノは、カレンの言葉に顔を上げた。
そこにあったのは、執務中に控えている時のような無表情でも、からかう時のにやけた顔でもなく。
「……なんか、カレンが見たことない優しげな顔してる」
「失礼な。それでは私が生まれて初めて優しい顔したようではありませんか」
「あ、ごめん、間違……ってはいなくない?」
「……間違ってはおりませんね」
主従どころか主と眷属の会話としてはひっどい会話だなあ、と心中で苦笑しつつカレンの言葉を反芻する。
「美味しいかどうかはわからないわ。だって、カレンと違って血液そのものを飲んで趣味嗜好を考えたことはないもの」
「あのお嬢様?私は血に飢えたように貪っている訳ではありませんよ」
わかってるわよ、とささやか過ぎる意趣返しが成功したアルノは笑った。
「ハルを吸血してると、うーん、こう、穏やかな気持ちになれるって言えばいいかしら。『夜に鳴く鶏亭』でハルと飲むのは戦いの後ばかりだから尚更なのかも知れないけど、荒々しい気持ちが静まる感じがする」
「なるほど、滾って火照った躰、荒々しく蹂躙したい気持ち、それをハル様を飲むことで鎮める、と」
「だから、言い方!」
なんかそれだけ違う意味に聞こえる、と否定するが魔族にしては賢しい眷属は薄く笑っているだけだった。
どうやらささやかな意趣返しは、とんでもない恥辱で返されてしまったらしい。
むう、と唇を尖らせるが、
「お年を考えなされませ。拗ねた表情が愛らしいのはせいぜい百歳まででございます」
このメイド、本当に口が減らない。
「ですが」
頰を膨らませて抵抗を示しても何か言われそうだ、そう思ってぐぎぎと唸っていたアルノに、カレンが持っていたカバンからマフラーを取り出して首に回しながら言う。
「お嬢様にとってハル様からの吸血が、ただの吸血でないことはわかりました」
「……うん」
「例えばもし、ハル様からの吸血を禁じられた場合、もう『夜に鳴く鶏亭』に行くのはやめますか?」
「やめないわ」
明言するアルノに、カレンは笑った。
「でしたら、それこそもう私の出番はございませんね」
そんな侍女の言葉にアルノも笑う。
そうだ。
まったくもってカレンの言う通りだった。
もう自分が何でおかしかったのか、わかっているのだから。
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