今回の話は、すごく難産だった覚えがあります。
銀の歌
第85話
「くそ! 敵が多すぎる……!!」
何十もの死体に囲まれて、絶望的な状況でありながら、それでもシグリアは剣を振るい続ける。
猛者が多いユークリウス班において、シグリアは決して目立つ位置にいたわけではないが、それでもかなりの実力者であった。
シグリアなら何十の相手に囲まれていようとも、自分一人だけであれば、血路を開いて逃げ出すこともできただろう。もちろん手傷は負うだろうが、それでも彼ならかいくぐれる。そう一人なら。
「剣士長……剣士長……」
後ろでは戦いにも参加せず、すんすんとすすり泣くアスハがいた。そして彼女が抱いているのは、大陸一番の英雄ユークリウス・ラーレアン。
憧れの人物を守る盾になれるなんて名誉は、戦士であれば誰もが嬉しいことだ。しかしシグリアは、そんな浮かれた心境ではいられなかった。
自分だけが犠牲になるのなら割り切れる。でも彼には、今後ろで守っている二人以上に、大切な人達がいた。アスハが何をおいても、ユークリウスが大切なのと同じだ。
「貴方達のことを逃すように頼まれているんです! 僕に多くの者を犠牲にさせた上、貴方達にまで死なれたら、文句の一つも言いますからね! アスハ副剣士長……泣いてないで戦ってください! 貴女だったら、これくらいどうにかできるでしょ!!」
シグリアがこんなことを言うなんて、ユークリウス班の誰も想像すらしないだろう。緊急事態だと言うのもあるだろうが、それにしても普段の彼のイメージとはかけ離れている。
見栄も外聞も関係ないのだ。なぜならシグリアにとって、一番大切でなによりも守ってあげたいのは、幼馴染二人だけだ。
ーーミリア! ドルバ!
心の中で二人の名前を呼ぶ。
自分の何に代えても守りたかったが、彼らの生存を半ば諦めてまで、軍規を乱してはならないからと、優先度を考え上官(トーロス剣兵長)の指示に従った。
涙を飲む思いで、ここまで来たと言うのに、どれだけ言葉を尽くしても、アスハは決して動かない。彼女の心境を考えれば、仕方のない部分はある。でも自分の大切なものを、捨てる覚悟で来たシグリアにとっては、許せないことであった。
一緒に振り切って逃げるのが無理でも、今はせめて共に戦って欲しかった。守りながらの戦いでは、自分一人では不可能と理解できるから。
「くっそ! 何が……何が英雄だ! 何が天才だ! くっそ! 僕の大切なものを……くっそおおおおおお!! せめて、せめて生き残って下さいよ!!」
シグリアの剣は腐肉がこびりつき、斬れ味がどんどん悪くなっていく。しかし死体達は、息つく暇もなく詰め寄ってくる。泣きたい思いを必死にこらえ、決死の覚悟で盾に成り続けるシグリアの姿勢は、尊いものであった。
だからこそ、その姿に応えようと、英雄の腕はピクリと動いたのだ。
「……ユークリウス様?」
✳︎
「あっ……」
「トーロスさん!!」
トーロスさんが倒れ込んだのを見て、慌てて駆け寄って手を差し伸べる。ラックルさんに関しても、わたしの背を守るように付いて来てくれる。なので背後は彼女に任せて、トーロスさんの肩に手をかけ、持ち起こそうとする。
その時、パンと大きな音がした。
「えっ……」
わたしの頰は赤くなり腫れ上がっていた。
トーロスさんがわたしのことを叩いたのだ。
「何してるの……?」
「えっ……?」
トーロスさんの言動が、何を考えてのものか、全く分からなくて、二度ほど瞬きした。
「ねぇ。何してるの!? 逃げなくちゃあ……ダメじゃない!!!」
トーロスさんのひやりと冷えた手が、わたしの頰に触れる。
「私の足が動かないのは、当然知ってるわよねぇ! こんなに囲まれていたら、荷物を抱えて逃げられる訳ないじゃない!」
つりあがった眉から、怒りの感情を読み取ることは容易かった。けれどトーロスさんが、怒りからこんな行動を取ったんじゃないのは、彼女の目を見て分かったことだ。
ーートーロスさんの瞳は潤んでいた。
「ラックルだって……正直あんまり強くないのよ……? この状態が続けば、数分と持たないから。でも……今ならまだ……まだ間に合うかもしれない。だからお願い。私に構わないで……逃げて……?」
「ね?」と最後に囁かれた言葉は優しかったが、わたしにとってはあまりにも辛かった。トーロスさんの諦めた顔は、この数時間でたくさん見てきた。でもここまでのものはなかった。
はりさけんばかりの笑顔は、聖女の如く清くて。わたしを憂う瞳は、自分の生存の一切を切り捨てていた。悲し過ぎた。でも周りを見渡せば、トーロスさんがこんな顔になるのも理解できる。
阿鼻叫喚の叫びは墓地一体に駆け巡り、どこからも悲痛な叫び声が上がり、遠くでは甲高い泣き声が聞こえた。地面に倒れる人の数だって少なくないし、そこには死体の群れが集まっている。このままいけば、彼らに噛みちぎられ、最後にはきっと、原型すらなくなる。
そしてその中の一つにはアルトさんも居て。
「……………………………あ」
今更ながらわたしも恐怖心に駆り立てられた。ラックルさんが守ってくれているとはいえ、それがどこまで機能しているかなんて分からない。後ろから風を切る音は聞こえてくるので、最低限生きてはいるのだろうけど、振り返る勇気はない。
「分かってくれた?」
戸惑いは顔にも現れていたようで、安心したようにトーロスさんは呟いた。
「うん。怖いよね……? でもまだ大丈夫。だからラックルと一緒に逃げて……?」
頰に当てられた冷たい手は、いつのまにか暖かく包み込むような手に変わっていて、その感触には覚えがあった。
ーーそう、この手は。昨夜の……。
トーロスさんがどういう心境で言っているのか理解して、涙が溢れた。よく見てみれば、彼女の顔だって昨夜のものを思い出させるものだ。
わたしの大好きで、大嫌いな顔だ。全てを悟ったように諦めて、それでいて希望を託すような、自分の運命を受け入れた顔。
あなたは何度わたしの気持ちを、こんなにも揺らぎさせるんですか?
そんな顔をされたら、言うことに従わなきゃいけない気がしてくる。とてもじゃないが、こんな尊い表情には逆らえない。
自分の気持ちが、トーロスさんを見捨てる方に、傾いているのを感じるからこそ、わたしはきっと……泣いたのだ。いく末を察して。
わたしは彼女に求められた。ーー生きてと。
きっと最期になるだろうから、聞いてあげてもいいのかなと思った。でもその顔があまりにも、諦観の混じったものだったから、許せなくなったんだ。
「……だ」
「何? なんて言ったの?」
聞き取れないからと促してくる。だからいっそのこと、思いっきり叫んでやった。
「嫌だ!!!」
「え………………。…………ば」
「『バカなことを』なんて言わせませんよ」
言いたいことを先取りされたトーロスさんは、驚くとともに押し黙った。
「トーロスさん。トーロスさんは自分の母親のことを、『いい妻であり母だった』なんて言ってましたけど、わたしはそう思いませんよ……」
母親のことを貶すと、みるからに不快そうな顔をしたけど、それでも言いたいことを止めたりしない。
「だって、あなたのお母さんは、あなたに呪いを残しました。自分でもなんとなく分かりますよね?」
問いかけるとトーロスさんは言葉に詰まったようで、反論の言葉が出ないみたいだった。彼女自身がはっきりと『母親になれなかった』と言っていたように、お母さんの存在が、彼女の心に深く楔を打ち込んでいるのは、自他ともに認めるところだったのだ。
母親への憧れと、見捨てたと思っていることによる罪悪感。それが元でトーロスさんは、自己の価値観を大きく歪めさせられてしまっている。
【何をするにもまず自分が負担を負うべき】。それこそがトーロスさんの呪いの正体であるように、わたしは思っている。
「あなたの自己犠牲の精神は素晴らしい。でもあなたの姿勢は……痛々しいです。だから! わたしはあなたに訴えます!!」
パン! 包むようにトーロスさんの頰を両側から叩く。今度はわたしが言い聞かせる番だった。
「あなたは自分のために生きてください! 利己的でいいんだ。やたらめったら犠牲になろうとなんかしなくていいんです……。あなたが、他の誰かが目の前で傷ついた時に傷つくように、わたしやラーニキリスさん、ラックルさん、アスハさん、みんな……みんなだって、あなたが傷つくことに、きっと傷つきます!」
「……でも母は、最後まで、私達のことを」
「わたしにまで呪いを残しますか?」
「……!?」
「たとえこの後、全てが上手くいって、みんなが生き残れたとしても、そこにあなたの姿はいない。だとしたら、みんなあなたの最後の姿を、印象深く記憶に残してしまう。『逃げて』、『生きて』と言ったあなたの姿を。
……わたしは、わたし達は言葉を残してもらいたいんじゃない……! あなたに残ってもらいたいんだ……! トーロスさんもそうだったでしょ?」
記憶が再び始まってから、多くのことを学んだ。一歳にも満たない経験しか積んでいないのだろうけど、それでも自分が考えてきたこと、感じたこと、全部を詰め込んだ、彼女のためだけに贈る言葉だ。
でも結局言いたいことは一つ。
「死なないで……?」
さっきは怒りで我を忘れていただろうから、言えなかった。でもしっかりと目を見て話している今なら、届くのではないだろうか。
けれどトーロスさんが瞳の中に滲ませた感情は、わたしが予想していたものの、斜め上の答えだった。
「わたしが生きてしまったら、あなたが不幸なことになるかもしれないよ?」
よくわからない返答だったので、首を傾けたが、その後に言った一言で全てを理解した。
「ヘテル……君」
背筋が凍った。けれど戸惑いは一瞬だった。
「…………それでもだ!! それでもです!! わたしはあなたに生きて欲しい! この気持ちに嘘はない!!!!」
さっきからずっと泣いている。昨夜のように二人で泣いている。聞こえはしないだろうが、この場には色んな人がいるというのに、今この時だけ、わたしには世界に二人だけしかいないように思えた。
「ね? だから、『逃げて……』なんて言わずに。皆で一緒に逃げましょう? 大丈夫です。あなたはわたしが抱えます。死体は動きが鈍いですし、鎧の人も、さっきわたしが思いっきり蹴りつけてやったから、きっとすぐには動けません。だから大丈夫、逃げられますよ皆で……二人で……」
ーーこの時の言葉を後に思い出して、自分がなんて現実味のない提案をしていたんだろうって、嘲ることになる。
でもこの時は、自分が何も間違ったことを言っているなんて、つゆにも思ってなくて、根拠なく正しいと確信していたんだ。
「あ、ぁぁ。…………あっ! セアちゃん! 死体が! 後ろ!!!」
涙が流れて、ぐちゃくちゃなトーロスさんの泣き顔を最後に瞳に写して、目を瞑る。祈るように彼女の頰に置いた手は、その先で温かな光を放った。瞑った目の奥に、まぶたを貫通して光だけが届く。
眩しくて、まぶたをあけてみれば、そこには。
「…………そっか。セアちゃんも何か不思議な力を持ってるのは分かっていたけど、まさかね……。アルトさんがどうして生きているか分かったよ。あなたの力は、癒しの力なんだと思う。……凄いなぁ。真に他者を想うって言うのは、こういうことなんだ」
両足で大地を踏みしめて、剣を握り立ち上がる姿がそこにはある。周りの死体や、わたしの後ろから迫っていた死体達は、全て斬り伏せられたようで、いくつも肉片を散らばらせて散乱していた。
赤黒く染まった血だまりや、肉片がこびりついた剣は禍々しいが、それでも車椅子なしで立つ、トーロスさんの姿には感じ入るものがあった。
雲の隙間から光が差し込み姿を照らした。その様はまるで、この世界が、彼女の回復した姿を祝福しているようだった。
第85話 終了
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