今夜もいつも通り手記を開き、頁をぺらぺらとめくっていく。それでこの後は、ペンにインクを付けて、白紙の頁に書き込んでいくのだが。最近手記を開くのは、日記を書くためだけではない。自分が何を書いて来たのか確認する、そういうのも増えた。だから今頁をめくっている手記も大分前のもの。白紙なんてありはしない。
見返していると思った。数ヶ月前は何を書くか逡巡することが、多々あったなと。今となっては遠い記憶だ。最近は書くに困ることはない。
ではなぜ、今になって過去の日記を読み返しているかと言うと、それは隣で、俺と同じように手記を読み漁るこいつの案のためだ。
椅子に座る俺とは違い、壁面に身体を預けて、アクストゥルコは立っていた。蝋燭一本の薄暗がりの中、目を擦って文字を追う彼女は、なんともやりにくそうで、頁をめくる速度は目に見えて遅かった。彼女は活字慣れはしていないのだろう。
そんなことを考えながら、アクストゥルコの姿を、手を止めてついぼんやりと眺めてしまった。そのために不審に思わせてしまったらしい。彼女は口を尖らせた。
「何だ? 何か分かったのか?」
「いや、何も」
慌てて自分の担当分の手記に目を落とす。そしてそれがまずかったらしい。耳を立てたアクストゥルコは、俺の考えを察知したらしく、見るからに不快そうに顔を歪めた。
「しょうがないだろ! あたしは人間じゃない! 人間の文化なんか知らない!」
「分かってるって。何も言ってないだろ」
「でも考えただろ。アルト!」
そう言われると辛い。何度か会話して分かったことだが、こいつ人の心を読むのが抜群に上手いのだ。時々何も分かっていない風でもあるのだが、何というか周囲を警戒している時のこいつは、やたらと察しがいい。
そんなだから、誤魔化しが効かないのは分かっているので、下手な言い訳はせずに、黙して沈んだ。それでもアクストゥルコの気は晴れないようで、まだまだ責めてくる。
「第一お前これ暗号じゃないか!! 人間の言葉が分かんない上に、こんなややこしい書き方されたら、たまったもんじゃないぞ!」
「いやでも、暗号の方は読み方教えたし」
「黙れ! 自分で書いたんだから、自分は出来るだろうさ! でも相手が必ずしも出来ると思うな! 馬鹿が!
そもそもだ! なんで暗号で書いた!」
「だって、誰かに勝手に読まれたら嫌じゃん」
「黙れ!!」
なんか言い分を聞いてたら、10:0で自分が悪い気がしてきた。何故だろう、不思議だ。
提案をしたのはアクストゥルコだし、手伝うと自発的に言ったのも彼女だ。まぁでもしかし、彼女の好意に甘えていることは明白だ。下手な反発はせずに、やはり黙して沈むことを選ぼう。
言い返したら言い返したで正論を言われるが、黙っていても察しのいいアクストゥルコは、俺の態度が気に食わないらしい。心を読みやすい奴って面倒だな。
そんな煽りが、やはり届いてしまった。苛立ちからだろう目を細めたアクストゥルコは、妙に近いなと感じる位置で、甲高い声音でキャンキャン言った。
「こっちだってびっくりだぞ! セアと出会った日の日記を、置き忘れているんだもん! せっかく過去の日記を読んで、何か引っかかる点がないか探しているって言うのに、一番肝心の物がないじゃないか!」
正論が痛い。手伝ってもらっている上に、自分の失態を知られた上で、俺は目の前のこいつを、さっき蔑んだ。客観的に聞かせられると、確かに俺にしか非がないことが、自分でもよく分かる。だから言い訳のように言うのだ。
「仕方ないだろ。置き忘れちゃったんだから。今もスズノ山の、あの小屋ん中にあんのか……ぐぁああああ」
頭を抑えて嘆く。その様があまりに無様だったのか、アクストゥルコの怒りは大分収まったようで。その証拠に、先程まではピンと立てられていた耳も、なだらかなカーブを描いている。
「……嘆いてる暇があるなら、少しでも多く出来ることをやった方がいいんじゃないのか? 頑張れよ」
「それは、その通りだな」
思ったよりも冷静で、建設的な意見に、言い返すことなんて出来なくて、ひたすら自分の非を認めた。
あれだけ声をがならせていて、よく瞬時に冷静になれるな……。
思いながら、自分の耳に触れたら、キンキン声が全く耳に残っていなかったのに気づいた。
いや待ってくれ。というか、そもそも────。
✳︎
その後は簡素なやり取りだけが続き、特に新しい発見もないまま、時間だけが過ぎていた。
そんな折だ。アクストゥルコが口を開いた。
「セアの花が、神話に繋がってるかもって話。まだ言ってなかったんだなー」
「……ああ」
何を言われてるか、一瞬分からなくて、返事に迷った。でもだらしない顔で寝ているセアを見たら、すぐに夕飯時のことを思い出したーその際、妙にニタニタしたおっさんの顔がちらついて、腹が立ったがー。
「それに、なんであのおっさんに任せたんだよ」
こっちの心情を知ってか知らずか、言いにくいことをずけずけと、耳をぺたんと倒したアクストゥルコは、あどけなく訊いてきた。
「俺以外の奴からも、知識を得るのは大切だからな」
「それは、そうかもしれないけど……」
歯切れ悪くしか言えなかった。そんなだからアクストゥルコの声音も、段々音階が下がっていき、終わりにはすっかり意気消沈させてしまった。
でもどうしろって言うんだ。俺が言える内容は限られてる。アクストゥルコに関することで、彼女に隠し事はしないようにしているが、今訊かれているのはセアの、それも奴との情緒的な関係性にも繋がる話だ。それを話すのが、カリナの考えを探る上で、無意味と言うつもりはないが、にしたって密接でない。
だいたいなんでアクストゥルコは、そんなことを訊いたんだ。
どうとも反応できない問いかけに、一人頭を悩ませた。頭の中では、あまり非もないのに、アクストゥルコのことを責めたりして。……どうにもばつが悪い。
逃げるように視線を文字に這わせたら、その内にまた、アクストゥルコの問いかけ……というよりは独り言に近い言葉が、聞こえてきた。
「それにしても現実を元にした神話か」
さっきの今で、なんだこれ? 話の脈絡が繋がっていないような気もするが。
アクストゥルコの真意が何なのか関心を惹かれて、彼女を見てみれば、その耳は辺りを警戒するようにピンと立っていた。
それから気になったのが、やたら表情が白けていたことだ。俺から視線を向けられたというのに、こちらに意識を向けるつもりはないようで、手記に視線を落としている。
「……」
あからさまに不自然な振る舞いに、つい言葉を失くした。
でも落ち着いて、今の状況を考えてみたら、あることに思い付いた。考えてすぐはありえないと思ったけど、シスターやセアの話を思い出せば、その思い込みの方こそ、むしろ違うのではと思った。俺が抱いていたアクストゥルコに対する印象は、見当違いなことが多かった。
だから警戒心を外して、アクストゥルコがそうするように、俺も何の気なしに会話に臨んだ。
「疑わしいのは分かる。俺だってこんなとんでも話、はっきりそうとは思えない。でも落ち着いて、気になった点を一つ一つ見直すと、やっぱりこの結論に落ち着くんだ。
それにおま……アクストゥルコを説得出来る材料が、大森林の中で見つかるかもしれない」
セアやヘテルに話すように、俺の悪い所も堂々と取り入れながら、素顔で話す。
そうしたらアクストゥルコは、どこか安心したように、ほっと息を吐いていた。
「そうなのか?」
「今はまだ、何とも言えないがなー」
「森の精霊の集落の中に、何か手がかりがあるってことか?」
「いや違う。そこじゃない」
「?」
「その先にある光景が、俺の想像した通りなら、カリナの謎は解ける」
アクストゥルコはいつの間にか手記を閉じて、身を乗り出すように俺と話をしていた。
こっちは相も変わらず、手記を手放していないっていうのにな。
彼女は自分が内心でどう評されているかも知らずに、眼を生き生きとさせながら、口元を満足そうに歪める。それで言うのだ。
「お前の言ってることって、ほんとよく分かんないな」
……と。セアやヘテルが、【日常】で口にするように。
「なぁ神話に書かれてあることは、どれくらい真実だと思う? あたし達は皆、神話の時代を生きていないぞ」
色々と思う所はあるが、取り敢えず今は読まれていないようだから、質問に対する回答を考えるのと同時並行で、アクストゥルコのことをこう評した。──きっと自分で気づいていないんだろうなと。
「双子の片割れたる永遠の蛇、世界を繋ぎ止める世界蛇(せかいじゃ)【ダ】。例えばそいつの存在は嘘だろう。神話によれば、世界を何千周してもまだ余る程の大きさだと言う。
そんなに大きいのなら、死んでるにせよ、まだ生きてるにせよ、痕跡一つ見つからないのは、おかしいからな」
それっぽい例えを出して、アクストゥルコの興味を惹く。彼女は案の定ふんふんと頷きながら聴いていた。両腕を組んではいるが、それはもう形だけ。
いや、あるいはだいぶ前から形だけだったのかもしれないな。俺がありえないと否定して、気づこうとしなかっただけで。
「だが、それを産んだとされる神隣花の存在は、今日でもまことしやかに囁かれている。なにせ教会が、長年探し求めている物だ。
噂ならいくらでも耳に入る。曰く銀色の花を見た。曰く七色の花の在処を聞いた。曰く絶世の花を摘んだ。
一つ目は神話になぞらえて、二つ目は騎士団になぞらえて、三つ目は人になぞらえて。誰も見たことのない幻の花、各々が好き勝手に姿を想像し、それを見た聞いた取ったと声高に言っている。その多くが間違いだろうが……中には」
それっぽい話は、やろうと思えば延々続けられる。何せ俺の得意分野だ。長年独自に調べて来た内容を、一人喋ればいいって言うだから、こんなに楽なことはない。
ただそんな話にも、アクストゥルコはふんふんと、傾聴して聴いてくれるのだ。
「じゃあ余計に、なんでまだ説明してないんだ。最初はセアが持っていた花を、不思議だな程度に思ったとしても、その後、幾らでも話す機会はあっただろう。なぜ言わなかった」
「それはまぁ、だからな。俺も見たことがないから、確信がないというか」
「だとしてもだ。
カリナとは別件になるが、アルトは保護者なんだろ? そして曲がりなりにも、記憶を探す手伝いをしている訳だ。明日にはウェンの大森林にだって、危険を冒して入っていく。
なんかお前の行動って変じゃないか? こいつらのことを大切にしてるのは分かるが……」
アクストゥルコは言っていいのか悪いのか、計りかねていた。思い返せば、何度かこうゆう場面があった。そうやって逡巡する所も、こいつの人格が、よく現れている部分だったんだ。
と。こんな風に俯瞰して考察もしているが、実際アクストゥルコから言われている一言一言、耳が痛かった。
特に次に言われる言葉は、一連の言葉の中でも、強く響いた。
「回り道だ」
その言葉は致命だ。
回り道……している自覚はある。でも、それを自覚したからってどうしようもない。
何も返せず、反射的に前髪をいじくる。するとアクストゥルコはどうだ。
いや……もう見なくても分かる。きっと耳を立てて、困ったような表情をしているのだろう。それで言うはずだ。こちらを助ける一言を。
「まぁ言いたくないなら、言わなくていいけど」
アクストゥルコはふっと顔を背けた。その振る舞いを見て、逃げ道を作ってくれたのを、今度は【最初から】察した。
ただ今回はあえて乗らなかった。いい加減はっきりさせたいことがあったから。
アクストゥルコの考えでは、さっきと同じように、なんとなく気まずくなって、俺もついに顔をそらして。それで仕切り直し。というような所だったんだと思う。
でも俺は顔を背けないで、かといってむっと怒るようなこともせず、アクストゥルコへ視線をずっと送っていた。それも、きっと寂しげな視線だ。その内に彼女は、何か変だと気づいた。それで叱られた仔犬のように目を震わせた。
アクストゥルコは言った。
「あたし達は……種族として相手の想いが分かるようになってる。俗っぽい言い方で嫌なんだけどぉ。心が読めるんだよ」
「そうか。やっぱりか」
「突拍子がないか? でも事実だ。つまり……。えっ、納得したのか!?」
俺がすぐに頷くと、否定されるとでも思っていたのか、アクストゥルコはおおげさに驚いた。でも今度も耳奥はキンとならなかった。声量は、当たり前だと言うように、ちゃんと抑えられていた。
「まあ、これまでを思い返せば……」
心を読める。それを否定する材料よりも、肯定する証拠の方が多かった。
心が読めることを前提に、改めて過去を振り返ると、多くのことで辻褄が合ってしまった。分かりやすい答え合わせだと思った。
そして、だとするなら。アクストゥルコという人物の人間性は、俺が想定したものとは、はっきりと違うのが分かってしまう。
あの水辺で、最初の出会いの時に自分が言った言葉が、まさにそのまま答えだった。こういう風な人物だと言うなら、確かにあの時の物言いじゃ、悪意にも気づけなかっただろうな。
そんなことを思ってたら、ふいに言われた。
「そうか。でもじゃあ、分かったろ? 嫌だったんだ。アルトの考え方がすっごく」
頬を膨らませる。不満げに、とっても不満げに。けれどその顔にあるのは、見た目通りの幼い少女の顔で。とても世間一般が言うような、恐ろしくて残忍な殺人鬼の顔には、俺にも全く見えなかった。
「ああ。悪かったよ」
だからここで視線をそらしたんだ。【いい加減はっきりさせたくて】。
ぽつりと言葉を漏らした。
「何でそんなに協力してくれるんだ? それに……言いにくいことにも、立ち入ってこないし。心が読めるんなら、俺が内心で何を考えてるか分かるだろ」
「それは……でも全部じゃない。あたしの心を読むは、そこまで万能じゃない。
後、協力した理由は簡単だ! アルトがあんまりにも情けないからだ」
「そうか……」
「そうだ!」
妙に強い語調で返される。元々気が強いタチなのは分かって来たが、それにしたって鋭い。まるで、これから俺が言おうとしていることが分かっていて、それを牽制するような、そんな意図が感じられる。
いや、心が読めるんだから、明らかに意図してだよな。
馬鹿なことを考えたと、自嘲気味にほくそ笑んで、ピンと立った彼女の耳をなんとはなしに見つめた。
「なぁ」
「なんだ?」
厳しい視線が突き刺さる。こちらの領域に足を踏み込むなと、警告されているようだった。
こいつが気を使うか使わないかで、雰囲気が全然違くなるじゃないか。
アクストゥルコが言うように、彼女の事情に好んで深入りはしなくていい。考えることもやることも多くて、もうずっと、休む暇すらないほど大変だ。そんな時に、わざわざ自分から面倒事に首を突っ込むなんて馬鹿げてる。
心を読めようが読めなかろうが、相手に深入りしないことは誰だって出来る。他者に入れ込まないなんて、特別難しい技能じゃない。むしろ俺の対人技能的には、数少ない得意分野の一つと言っていい。
俺はセアと違う。人に言葉をかけるのは疲れるし、基本的に独りで生きて来たから、相手のことで頭がいっぱいになったりもしない。
ヘテルを説得した時の精神的疲労だって残っている。誰かの痛みに踏み込めるほど、心は回復していない。
言わなければいい。アクストゥルコはまだ、心を読んだだけだ。言わなければ、この後来るだろう彼女の膿んだ苦痛は、孵(かえ)らない。
──でも膿んでるんだよなぁ。
「殺人鬼なんてやめてしまえよ。おま……アクストゥルコには向いてない」
決して強い口調じゃない。責めるような物言いではなく、【今日アクストゥルコがそうしてくれたように】、立場を組んで配慮に配慮を重ねた。
その結果が……。
「あたしが……あたしが笑ってる内に、その言葉を取り消せ」
アクストゥルコは瞬きすることなく、こちらを一心不乱に見つめていた。彼女の口の端はヒクヒクと痙攣していて、その様から、彼女が怒りを、意識的に抑え込んでいることが分かった。
実力はどうだっただろうか。もう逆転されてしまっただろうか。アクストゥルコが、本来の力を三割でも使えようものなら、俺は敵わないだろう。
これ以上下手を打ちすぎたら、殺されるかもしれない。見えてる機雷魔法なんて、わざわざ触れたくもないから、言わないにこしたことはない。でも……ここまで来たらな。
それに逆を言えば、下手を打ち過ぎなきゃいいだけの話だ。ギリギリを攻めよう。
「おま……。
アクストゥルコは、人を殺すのに向いてない。お前のそれは、ただ自分を痛めつけるだけのものだ。俺とは違って良心がある。優しいんだ。愛しい者の命を奪うのは、辛いだろう」
その後は気づいたらというやつだった。まさか、小説でしか使われないような表現を、自分がすることになるとは思わなかった。
俺は床に仰向けで倒れていた。そしてアクストゥルコは馬乗りの姿勢で、俺の腰上辺りに跨っていた。両手が抑えられ、身動きは取れなくて、出来ることと言えば、身体を僅かにくねらせる程度だった。こんな無力を味わいながら狼に喰い殺されるなんて、とっ捕まった小動物はさぞ怖かっただろう。
だが彼らが何より怖かったのは、きっと眼だろうな。
アクストゥルコは俺を見つめていた。瞳孔を開ききったケモノの眼で見つめていた。金色の瞳の中にある、細長い瞳孔は、綺麗だとも思った。──でもやっぱり恐ろしかった。
一番の感情は、何より感じるのはそれだった。
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