「おばあちゃん、おばあちゃん!」
樹上に作られた集落、中でもこじんまりとした家に向かって、明るい声が響く。
子ども特有のキンとした高さがあったので、家の中にいた人物は、外から呼びかけてくるのが誰か、すぐに察しがついて。玄関ではなく縁側の方の戸をガラリと開ける。
「どうしたんだいヘテル」
凛とした顔つきの、背筋をピンと伸ばした妙齢の女性は、戸を開けて言った。
彼女の予想は当たっていて、【ヘテル】と声をかけられた人物は、にんまりとした笑顔を作り、何かいたずらっ子のようにふふと笑った。
「あのね、あのね。ほら、見て!」
「これは……?」
手渡された物を受け取って、目を離したり近づけたりして、妙齢の女性は、それが何であるかようやく理解した。
「お人形さん編んだの。ね、凄いでしょ!」
あ、うんの呼吸とでも言うのか。何の合図もなかったというのに、手渡された物の正体を理解した、ちょうどの瞬間に、子どもはネタバラシをした。
いたずらっ子みたいな顔で、漏らし笑いをしていた子どもだったが、今は表情が変化していて、今度は純粋な好意と期待を募らせていた。何を期待しているかは、子どもの発言を追えば分かること。
当然妙齢の女性は、何を欲しているかを察して。
「おや……凄いねぇ」
ゆったりとした語調でそれだけ言った。
たったそれだけの言葉だったが、子どもはとってもうれしくなって、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。それから妙齢の女性の側に寄ると、また懐から取り出した物を押し付けるように手渡した。
「でしょでしょ! それから、それから。ほら香水!! 僕が自分で作ったんだよ! 大好きなおばあちゃんにも分けてあげる!」
「ありがとうヘテルや」
妙齢の女性は、子どもの喜びように少し気後した様子を見せたが、すぐにそれを自分の胸に抱き抱え、子どもの好意に感謝した。
ここまでのやりとりだけでも分かるだろう。子どもは……ヘテルは祖母のことが好きだったし、祖母は、孫であるヘテルを愛しく思っていた。だけどこの日を境に、二人の関係は歯車が合わなくなってしまう。
どうしてか、それは呼びかけたこの言葉から始まった。
「ヘテル……」
「どうしたのおばあちゃん」
祖母の隣に座り、嬉しそうに足をぶんぶん振っていたヘテルだったが、彼女の語調が変わったのに気づくと、足を振るのをやめて、覗き込むように尋ねた。
その様子を見て、祖母は言いかけた言葉を一瞬詰まらせたが、それでもヘテルのためを思い訊いたのだ。
「友達とは上手くやれるているのかい?」
なるべく声音は尖らないように気をつけた。
「えっ……うん。喧嘩はあんまりしないよ」
祖母の言葉を訝しんで、小首をちょんとかしげる。祖母の聞きたいものはそういう類の事ではなかったが、踏み込んで聞いてもいいのかという迷いがあった。だから、これならこれでいいかと、頷こうとした。しかしヘテルが、「ただ……」と言葉を続けたのだ。
だから祖母は、恐る恐る聞き返してしまった。そこからのヘテルの言葉は、長い人生を生きてきた祖母であっても、何と言っていいのか分からないものだった。
「変だ……っていうの。僕のすること」
ヘテルは寂しそうに言う。否、実際寂しいのだろう。彼は積極的な交流をするタイプではないが、一人で孤独に過ごしたいという性格でもない。友達も家族も好きだ。だからこそ自分のすることに、理解を得られないのが凄く悲しかったのだ。そういった想いを募らせていたから、長らく話さなかった自分の胸の中の想いを、大好きな祖母に【打ち明けてしまった】。
「どうしてなのかなぁ。好きなことをしているだけなのに」
独白。祖母に訊いているはずなのに、ヘテルの言葉は指向性を持たず、宙に浮いていた。
それからすぐにはっとなって、彼は節目がちに尋ねる。
「おばあちゃんはどう思う?」
その動作や所作が、子ども特有の可愛さだけではない、他の何かも混ざっているように見えて、祖母はまた言葉をつまらせた。
何を言うのが正解か、あるいは何も言わないのが正解だったのかもしれない。けれど、この子のためを思って、祖母は断腸の思いで言ったのだ。
「ヘテル……それは、それは……な」
妙齢ながらも普段凛としている祖母が、ここまで気弱な態度を見せたのは、後にも先にもこれが最後だった。
✳︎
目を閉じると少し思い出したことがあった。懐かしくて温かくて、それでいて冷たい記憶。
あの後おばあちゃんに言われたことはなんだっただろうか? 確か────。
思い出そうとした時、雑音が入った。
「よ、ヘテル。いい夜だな」
その人は夜間には陰る、橙の髪を靡かせて、こちらまで近づいてきた。その歩みは確かなもので、セアさんの時みたいに拒絶しても、意味がないだろうことは予測できた。
ただ歩いて近づいて来ているだけだというのに、いつも見ている同じ人の顔だというのに、今この時の彼の全ては、鮮烈に映った。
こんな風にいつもとの違いを感じるのは多分、無意識のうちに今の状況を重ねているからだ。おばあちゃんと話したあの時の記憶と。
これから先何度も思い返すことになるほど、強い痛みを経験するだろうことを予感していた。
「隣いいか?」
僕の返事を待たないで、アルトは僕が座る長椅子とはまた別の、横に置いてある、誰も座っていない長椅子の真ん中に腰掛けた。
✳︎
「どうして逃げ出したんだ?」
アルトはこちらも見ずにそう言った。なんの捻りもない単純な問いかけ。答えることは簡単だ。理由なら明白だ。いくらでも言える。でも…………。
「…………」
返事をすることができない。
迷惑をかけている自覚はある。だから、それを本当に苦に思っているなら、ちゃんと言うべきなのだ。自分の感情、自分の思い、自分の話。だけど、どうしてか上手く口が動かない。
ただ目元が濡れる。
「……ぅ。……う」
声は抑えている。だけどこんな静かな夜だ。どうやってもすすり泣くこの声は、アルトの耳に届いてしまっているに違いない。
無言で泣かれる。こういうのをされると困る人はいっぱいいる。どころか嫌う人だっている。だから何か、何か言わなきゃいけない。この状況を苦に思うなら、何か……!
「ヘテル」
毅然とした声が届く。先程同様、こちらの方へ身体は向いていない。だけど意識がこちらへ向いているのが、よく分かる。
「待つから」
そうしてアルトの口から出た言葉は、今の停滞を許してくれる、僕の心を気遣ったものだった。
アルトはそう言った後、本当に何も催促することはしないで、そういう素振りも一つも見せないで、僕の方は見ないで、ただただ気怠げに夜空を眺め続けていた。
「…………」
これは……無駄な時間だ。何も産むことをせずに、人の時間を奪い続ける無駄な時間だ。ううん、奪っているのだから、ただ無意味に息をするよりも、もっと罪深い時間かもしれない。
でも、でも、アルトは。僕の方を見なかった。どれだけ時間が経っても、顔色一つ変えなかった。時折聞こえてくる人の足音以外、なんの音もしない静謐(せいひつ)さ。彼は僕が喋り出すまで、本当に何もしないつもりなのだ。
それが分かってしまい、申し訳なさが募った。だけど、アルトがそうしてくれるなら、少しだけ時間をもらおうと思った。
幾ばくかの時間が過ぎた。それなりに長かった気がするけれど、本当の所は全然分からない。長椅子にもたれかかったのが、既に夜だったから、そこから更に過ぎたなら、もう眠気もやって来ていい頃なんだけど。でも全然眠くもならない。
深夜、特別な何かもなしに起き続けているのは、自分にとって非日常だ。きっとここにお母さんやお父さんがいたら叱られてしまう。でも家族はここにいない。代わりにいるのは、少し人が悪くて、少し優しくて、こっちの気持ちを察して黙る人。
実の親には、実の親だから話せないことかもしれない。そしてもちろん全く知らない人や信頼できない人にだって、好んで話すようなことじゃない。でもこの人はどうだろうか?
セアさんには酷いことをした。嫌われるのが怖いと思ったから、拒絶した。優しいあの人だったら、嫌といえば、引き下がってくれるのが分かっていたから。だからあんな風な態度を取ったのだ。でもこの人はどうだろうか?
アルトは優しい、でもそれだけじゃない。嫌うことも嫌われることも経験してきただろう。そういうのが彼の立ち振る舞いから、容易に想像できる。
そんなアルトだったら信用はできるだろうか? 嫌われてもいいだろうか? そう割り切れるか。どれも分からない、でも、もうきっと、ここが限界点。そういう気持ちも持っている。異業化の治療を助けてもらっておいて、優しいセアさんにはああいう風に言ってもらえたが、分かっている。結局の所、自分は何もしていない。
家族がいなくて寂しい、そういった辛さももちろんあるけど、今自分が抱えている、張り詰めて張り詰めて、弾けそうになっている感情は、今まで誰にも癒されたことはない。
だから、だから、だから────。
「僕は変なのかな?」
口を動かした。
「変……。何を指してるのか分からんから、それだけじゃなんとも言えないぞ。もし宿屋を飛び出したことを指して言っているのなら、困りはするが変ではない。お前にとっては嫌なことだったんだろう? 何より悪意を込めて言っていたし、あれはあいつが悪い」
いつもと変わらない口調で、飄々と言う。
一見こちらを気遣ったものに聞こえるが、でもその言い方は困ってしまう。人の心情を測るのに長けていない人だって、僕が何を考えて逃げ出したか、きっと想像できてしまうだろうから。
心情を測るのに長けているこの人が、僕が逃げ出した理由を分からないはずがない。
「……」
ぎゅっと身体を丸める。また黙ってしまいそうだ。許してくれる態度を見せてもらえても、それを信じきることができない。何を言っても、否定されるのではないか。祖母のことを思い出せば、そういった想いが否応にも出てしまう。
あれやこれやと言い訳をつけて、このまま黙ってしまいそうな時だった。アルトが独白をし始めたのは。
「俺は、俺はな……。人の心情を測るのが確かに得意だ」
細めた目。どこかに思いを馳せる目。過去を見つめる目。色んな感情が透けて見える。
でも長椅子の上に置かれたアルトの手は、握り込まれていて、一番大きな感情は悔しさである気がした。
「だけどな。最近色々言われててな〜。その中で気づいたことがあったんだ。
俺は人の心情を測れるが、そこには思いやりなんてものはなかったんだって。俺の測るは、そのままの意味なんだ。共感して理解した訳じゃない、測れるから測っただけ。俯瞰して見るから勝手に分かっただけ。だから痛みに気づけても、痛みに関心が向かない。それよりも他のことを優先する。
ほらルスク街の宿屋で、お前が聖騎士団の奴と話して泣いて帰って来たことがあったろう」
「あの時、お前の痛みを、状況や積み上げられた背景から、俺は測れていた。だけど真っ先に向かった関心はそこじゃなかった」
笑い話だと。自分を卑下したように両手を広げる。
「俺はあいつ……トーロスの次の行動や、洞察力にばかり目を向けていた。目の前のお前の感情は無視して。あん時、セアには怒られたな」
そこで長い話を一度区切り、しばらく間を開けた。十分辺りが静かになった頃、アルトは再び話し出した。
「つまりまぁ、何が言いたいかって言えば……俺はお前の感情をきっと理解してやれていない。察してはいるがな。でもどれだけ辛いのか、どんな接し方が欲しかったか、今も分からん。だから……教えてもらえるのなら教えてほしい」
『教えてほしい』。その言葉はこちらを信頼してのものだって、凄くよく分かった。何より、この人がここまで、自分の真実を語ったことがあっただろうか。
秘密を知るための代金として、誠意を支払っていた。
いや、もちろんこんな考え方は間違っている。僕は許してもらう立場だ。上から物を考えるのは間違っている。
でも、なんでだろう。そういう風に振る舞われてしまうと、話すための障害が、少しだけ低くなってしまう。
「僕は、僕は」
まだ、まだ、口は流暢に動かない。
でも、たしかに言えた。言えてしまえた。
「女の子だったと思います」
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