銀の歌

Goodbye to Fantasy
プチ
プチ

エピローグ 歪に繋がる

公開日時: 2021年9月20日(月) 18:30
文字数:9,718


 昨日は結局、ヘテル君のことが心配で眠れなかった。一睡もしないで朝を迎えるだなんて、初めてだったから、少し頭がくらくらする。

 アルトさんはきっと寝てていいと言ってくれることだろう。けれど焦燥感に駆られどうしても無理だった。いつまで経っても帰ってこなくて、心配で心配で。

 だからこそ明け方、アルトさんにおぶられて帰ってきたヘテル君を見た時、とても安堵した。


 ヘテル君はアルトさんの背で眠っていたから、それを見てようやくわたしも彼の隣で眠ることができた。

 アルトさんはまだやることがあるからと、外に出てしまったが……。とにかくこうしてヘテル君はまた帰ってきてくれた。


 というのがこれまでの振り返り。目を覚ますと、太陽は一番高くまで昇っていた。

 起きてからすぐに真横を見た。そこにはちゃんとヘテル君が居て、昨日のことが嘘ではないのだと教えてくれた。だからほっと息を漏らして、今度はあの人を探そうと、上体を起こした時だった。


「おはよう。といってももう昼過ぎだがな……」


 辺りを見渡すまでもなく、アルトさんの方から話しかけてきた。彼は椅子に座って、例の如く手記を開いていた。

 その手記と今朝出かけたことが、何か関係があるのだろうか?ちょっとだけ気になったが、隣でもぞもぞと動く気配に感づいて、我を忘れた。


 アルトさんもそのことに気づいたようで、予めあったとでも言いたげに、終わらせかけた言葉を続けた。


「お前ら」


 わたしはきっと目尻に涙をにじませた。それでヘテル君を見て「おはよう」と声かけた。

 ヘテル君は寝ぼけ眼で、しばらくうとうととしていた。やがて世界をしっかり認識できるようになると、身を縮こまらせて、周りを伺った。その様が怯えたようで、なんと言ったらいいか分からなかったけれど、だからこそもう一度明るく言ったのだ。


「おはよヘテル君!」


 はにかんでそう言ったら、ヘテル君は頬を赤く染めて、ますます身を縮こまらせた。けれど「おはよぅ」と消え入りそうな声だったが、そう返してくれたのだ。


✳︎


「言いたくないんなら言わなくていい……とは言えない。異業種を治すには、自分のことを話すのが前提として必要だからだ」


 に起きたわたし達は、軽く朝の支度を行った。時間帯は遅いが、起きた後の風景は、いつもと変わらない日常で、普通の毎日が今日も送れそうなことに感謝した。

 しかしそんな感謝も束の間。わたしがぽわぽわした頭で、呑気に鼻歌を歌っていると、ヘテル君とアルトさんが神妙な顔つきで部屋の中に入って来たのである。


 鼻歌を聞かれて恥ずかしい。そんな感情を数秒抱いたが、ただならぬ二人の様子に、これはふざけた受け答えはできないなって、直感的に理解した。

 ヘテル君が「あのぅ」と話しかけてきた。大方昨日のことだろうと想像できたので、視線を彼に合わせて屈んで「なーに?」と問いかけ返した。それから数十秒、二人で見合いあったまま過ごした。


 そしてその事態を苦心げに眺めていたアルトさんが、冒頭の言葉を言ったのだ。


 別にこのまま二人で見合うのでも、わたしはそこまで困らなかった。だってまだぽわぽわした頭だったから。けれどヘテル君の側は、そうも言っていられないらしい。


「なによりヘテル、お前は今回のことでセアに心配をかけさせた。それに報いる必要もある」


 さっきの言葉はともかく、今言った内容に関しては、わたし個人としては別に気にしていないのだが……。どうやらそうはいかないようだ。

 大丈夫ですよ〜という視線を、さりげなくアルトさんに送った時、きっぱりと拒絶されたから、このことは多分大切なことなんだと思う。


 ヘテル君もそれを理解しているからか、辛そうにはしているものの、何かを憎んだりとか、そういった感情はなさそうで、むしろどうやって一歩を踏み出すか、そのことに苦心していた。


 そういうことなら何も言わないで、待つことにした。視線を合わせるために屈んでいたので、膝と足腰に無理な負担がかかったらしく、ずきずき途中から痛み出したが、努めて気にしないようにした。『つぅー。足痛っ〜〜』とかなんとか言って、この雰囲気を壊すのは、流石のわたしでもだめだろう。


 そんなわたしの頑張りもあってか、ついにその時は来た。ヘテル君が重い口を、それでもなんとか開いたのである。


「あの、ぼ、ぼく、僕はぁ」


「うん」


「えっと、あの、えーと」


「うん」


「あの、あのね」


「うん」


「僕、僕……」


「…………うん」


「…………わ、わたし、になりたいんだ。……あっ、でも、違くてね。なんていうか全部そうっていう訳じゃないんだ。多分、分かんないけど、でもね、そうなりたい所も……あって」


「うん」


「えっとね、だから、つまりね。…………僕は」


 ヘテル君は大きく深呼吸をした後に言った。


「女の子がしたくて…………」


 俯きがちにそう言った。一度こちらの表情を伺うためか、上目使いで見てきたが、それだけだ。後はもうずっと、恥ずかしいのか床の木目をなんとはなしに見ていた。


 『女の子がしたくて』ヘテル君はそう言った。女の子がしたい? どういう意味か。言われてもいまいちピンとこなかった。

 でもヘテル君が悩んで悩んで、ようやく吐き出してくれた言葉だということは間違いない。だったらそんな簡単に、理解を投げ出してはいけない。


 だからわたしは考えた。今の言葉がどういう意味だったのかを。今の言葉に込められた意味は、果たして夜に一人飛び出す程のものだったのか。なかなか……なかなか考えるのは難しかった。だけど、ヘテル君の今までの振る舞いを一つ一つ思い返していく過程で、いくつか気づいたことがあった。


 そうだ、わたしはずっと何かに引っかかっていたじゃないか。


 例えばそれは、接し方。アルトさんとの対比ということもあったが、それを抜きにしてもこの子は他者への関わり方が柔らかかった。なんていうか人に対して、下から支えるような振る舞いをよくしていた。

 例えばそれは、動作。この違和感に関しては色々とある。だけど一番記憶に残っているのは、あの【レギオンを倒した日】のことだ。あの後この子は食器洗いをしてくれたのだが、その時の後ろ姿を、わたしは鮮明に覚えている。


 楽しそうだった。でもそれは普通の楽しそうではなくて、やりたかった、ずっとやりたかったものが、解禁されたような、そんな喜びに見えた。食器を洗うのはそんなに楽しいことなのか?


 わたしが不真面目なだけかもしれないが、あの時食器洗いを楽しそうに、綺麗な黒髪を揺らしてする姿に、なんというか……なんというか……少女のいじらしさを感じた。


 でもわたしはアルトさんが食器洗いをしていても、もちろんそんなことは感じない。アルトさんが鼻歌まじりに気分良くやっていたとしても、そんなことは思わないだろう。

 この子だから感じたのだ。


 じゃあアルトさんとヘテル君の違いって何か?


 それはやっぱり単純で……。


「ああ、そっか。アルトさんは必要だからやってたんだ。でも君は……」


 知らず声が出ていた。だからアルトさん、ソフィーちゃん、それにこの子も、わたしをじっと見つめた。

 意図せず出してしまった声なので、まだ言うべきことがそこまで定まっていない。でも、多少は分かったつもりだ。だから萎縮して閉じようとした口を緩めた。そして言うんだ。


「好きなんだね。そういうのが。生きるために必要だからとかじゃなくて、君はやりたいんだ」


 食器洗いも何もかも、好きだからやりたかった。ただそれだけ。わたしが食べることが好きなように、そういう家事をするのが、この子はとっても好きなんだ。


「う、うん。でもそれだけじゃなくってね」


 この子は言う。わたしの理解がまだ間違っていると。でも大丈夫、ちゃんと君を見てきたから、全部振り返ってみて気づいたつもりだから。この子にそう言おうとも思ったけど、わたしはやっぱり甘いし、まだまだ人として未熟なのだ。


 違う違う。この子は話したがっているんだ。アルトさんに強制されているように見える? いや、そんなことはないだろう。これだけ今まで強情に肩肘張って、頑なに黙ってきたのだ。

 仮にアルトさんから脅されていたって、そうやすやすと話したりしないだろう。今、これだけ話してくれているのは、今までの信頼の証だろうし、この子自身が前に進みたいと願っているからに他ならない。


 優しい子だ。わたし達の信頼に応えたいと思っているんだ。

 だからわたしは、また頷くのだ。


「うん」


 この子は驚いたように固まった。何か言う気配を感じ取っていたのだろう。人の気持ちに敏感な君は、そうやっていくつ傷ついてきたのだろう。賢い君はずっと言うことすら出来なかったのだろう。自分のためにも、そして人のためにも。


 話された方にも【重さは】乗っかるもんね。


 トーロスさんのあの泣き顔が思い浮かぶ。そして同時に、あの手紙の内容も。


 きっと今度は泣かせない。あんな悲しい涙見るもんか、わたしが君の話を、苦しみ、努力を聞くから。


「…………」


 わたしの顔を見て、意表を突かれたように固まっていた。けれどその硬直はどうにか解け、この子は言葉を続けた。


「うん。僕ね。家事手伝いが好きなだけじゃなくってね。それに絶対じゃないんだけど……まだ分からないんだけど。でも、でもね、【わたしは】」



「貴方とおんなじなんだ!」



 声はかすれていた。言葉を言うために、いくつ葛藤を乗り越えてくれたのか。それを考えただけで……ああ、もうダメだ。そんな顔もしちゃいけないって分かってるけど、分かってるけど。


「うん、うん、そうだね」


 泣き崩れるこの子を知らず抱きしめていた。泣かせたくないって思っていたのに泣かせてしまった。そうだ、わたしがこの子を泣かせた。今にして思えば、この子がわたしの顔を見て戸惑った時、わたしは既に泣いていたのだろう。


 本当にごめんね。貴方よりもわたしが先に泣いてしまって。


 でも、でも、君の悲しみを、女の子に間違われた内心の喜びを、それらを想像すれば、泣かずにはいられなかったんだ。


 今、この子が言ってくれた言葉は、そうだ、間違いない。


 君が他と違うことに気づいて、君がそのことを考えて、賢い君はためらって、その異質さが受け入れられるか君は恐れて、最後に君は隠すことを選んで、ずっとずっと自分の心の中にだけ封印してきた。君が思い悩んだ大切な、自分の話なんだ。

 その思い全てが凝縮された一言、『貴方とおんなじなんだ』…………なんだね。


 手をこの子の後頭部に回して、ぎゅっと強く抱きしめる。かける言葉なんてもう決まっている。


「はなしてくれて、ありがとう」


 わたしの言葉はどれだけ震えていたのか。この子を抱きとめる手が、そのまま答えな気がした。ああ、もぅぶるっぶるっだ。格好悪いったらありゃしない。


 思い上がりかもしれない。けれど、なんだろう。それでもこの子は満たされたように見えたんだ。


✳︎


 そのまましばらく泣き続けたが、ほとほと時間が経った頃には、もう涙は収まっていた。

 泣いた後特有の妙な倦怠感はあったが、何かを乗り越えた後の気晴らしさもあった。


「さて、だ。ヘテル。これからはもう逃げ出さなくて大丈夫だ」


 落ち着きを取り戻してきた所を見計らって、アルトさんが声をかけた。

 腕の中に収まっていたこの子は、アルトさんに呼ばれたのを理解するとすり抜けて、彼の方を見た。そして『心配をかけてごめんね』そう言いたげな瞳で彼を下から見上げた。

 対してアルトさんは、何か憂慮したように口を開きかけたが、それらを呑み込む動作を見せた後、「……別にいい」としょうがなさそうに言った。


「……セア、創生魔法は次の段階に入る」


 今度は一転、気迫のある真面目な音調で、アルトさんが諭した。


「え、ええ、ああ、まぁはい」


 鼻水とか涙をずびとすすった後、未だ明瞭としない頭で答える。するとため息をついたアルトさんが、小綺麗な四角い布を一枚くれた。

 そのまま視線を移すと、「ヘテルは……」と問いかけるように促す。


「うん、大丈夫。ちゃんと話せるよ」


 何を聞かれているのか、しっかり理解して頷いた。ただその表情には、やはりまだどこか緊張があって。


「いや、何も今からって訳じゃない。それに自分のことなんて、自分でも分からんよ。何度かセアや俺達と会話して、最後に正しい理解をセアに伝えるんだ」


 「だから一回で全てが終わるわけじゃない」アルトさんは言って、泣いた後の興奮のためか、視界が狭くなっていることを暗に指摘した。すると『ああ、そうか』と、混じり気なく頷いた。痛い所を指摘されて、怒り出したり、ふてくされたりしないのは、この子が賢いことに他ならない。


「そうだ。それからセア。もう一つ」


「え、あっはい」


 『もう一つ』言われて身構えたが、アルトさんの向かう先は、わたしではなかった。膝を曲げて屈むと問いかけた。


「ヘテル。お前はどうだ? 結局どうしたい。まだ……分からなさそうか?」


 話している内容が見事に主語が抜かれていて、何を言ってるのか分からなかったが、なんだろう、意図的にしている風にも見えたから、何も言わないことにした。


「……うん」


 いじらしそうに脚衣を掴んだ。その動作を見て腹が決まったらしく、アルトさんがまたこちらを振り返った。そして話す内容には、多少なりとも驚かされた。


「セア。さっきのこいつの話は聞いていたな?」


「ええ、それはもちろん」


「そしたらだがセア。お前はこいつのことを、今まで通りに扱ってやれ」


──どういうことだろうか?


 最初に抱いた言葉はそれだった。だが詳しく話を聞いていけば、その内容は納得のいくものだった。

 というか自分でも理解していた。この子は先程の話の中で、女の子であるということと、でもそればかりじゃなくてといった内容を主張していた。そこから考えられることは実際一つだ。

 まだ迷っている。そういうことだろう。だから今まで通りに【男】として扱う人も必要という話なのだ。


 じゃあいったいわたしが何に、少なからず驚いたのかというと。


「なるほど。分かりましたけど、その役割はアルトさんじゃだめなんですか?」


 思いやりはあると自負しているわたしだが、細かい気遣いなどは、残念ながら苦手である。今までも可愛い可愛い言ってきた訳だし、絶対どこかでボロが出る。そういったことからも、アルトさんがそっちの役割をした方がいいんじゃないかな〜っと思った訳だが。続く彼の言葉は、わたしの知っている彼の人物像を覆すもので。


「……んん、ああ、何もそこまで徹底しなくてもいいと思うから。お前でもいいだろ」


「じゃあ、尚更なぜわたしが」


「それはーー。まぁ簡単に言えば、俺が、もうこいつを男扱いする気がないからだな。色々と話して、俺の理解の中では、こいつは女としか数えられなくなった。でもお前はこいつを、【ヘテル】として見てるだろ。だからだ、そんだけ」


 そんだけと締め括ったが、そんだけの内容だったか? アルトさんという人間を考えた時に、今日の日の出来事は、確実に異端のものとして見えるはずだ。だってようするに今のって、自分はこのことに関して、【感情の制御】が出来ませんと言ってるようなものではないのか?


 理性的で冷静なアルトさんが、そんなことを言うのは本当に驚いた。でもそれが、彼の偽らざる本心であるならば、応える必要がある。それに先程から、わたし達の会話を心配そうに覗き込むこの子も、それを望んでいる。極端に男扱いしなくても、今までと同じ接し方でさえあればいいと言うし。……であれば断る理由は何もない。


「分かりました」


 わたしは頷いた。別に反対するようなことを言うつもりはなかったが、それでも自分が、首を縦に振るまで時間をかけたのは事実だし、それを見てこの子──ヘテル君がどぎまぎしていたのもそうだ。

 余計に心労をかけさせたかもだ。でも謝るのも変な話なので、代わりに表情をわざとらしく困らせた。するとヘテル君が、緊張を解いて「えっと……気にしないで」とわたしの頬に触れてくれた。


 その動作が愛おしかったのでまた抱きしめた。ああ、やっぱりわたしも男扱い出来そうにない。


✳︎


 ぎゅうぎゅうヘテル君を抱きしめて、顔をうりうりこつりつけていたら、何故かアルトさんに部屋を追い出された。「入れてくださいよ!!」どんどん扉をぶったたいて、訴えるものの、「うるさいから少し待っとけ」その一点張りで取りつく島もなく……。


 わたしは部屋の前で黄昏ていた。


──なんで追い出されたのかなぁ?


 理由なんか考えないでも分かりそうなものだが、わたしのことを追い出しやがったアルトさんを恨んで、扉の外で呪いの言葉を吐き続けた。


「くたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれくたばれ」


 言い続けていたら、閉ざされていた扉が不意にガチャリと開いて、アルトさんが何食わぬ顔で出てきた。


「おーい。セアいいぞ。待たせたな。

 ……お前まじかよ」


 最初こそいつもの何考えてんだが分からない、無感情な瞳だったが、わたしが白装束で頭にろうそくを巻きつけて、呪詛を唱えているのを理解すると、すぐに絶句した。


「まぁ、お前が頭おかしいのはいつものことだから、もういいか」


 アルトさんは何か諦めたように、『アルトさんくたばれ』と書かれた紙を持つわたしを、部屋の中に招き入れた。

 一体全体なぜわたしは部屋を追い出されたのか、どんな正当性ある理由でも、今後一生、このことは根に持って生きるぞ! そう決めていたわたしだったが、部屋の中にいるその子を見た時、すべての考えが吹き飛んだ。


 それでずるいって思ったんだ。こんなの見せられて、どうやって今まで通りに、この子を扱えばいいって言うんだ。おもちゃの蝋燭を頭から外して、ポトリと手から落とすと、目の前の人物に目を奪われた。



 その子、ヘテル君は白のワンピースを着ていた。ワンピースにはこれといって装飾はなく、至って単純で、胸の辺りに青の✳︎(アスタリスク)の刺繍が入れられている程度であった。

 でもそんな単純な装いでも、その服は紛れもなく女の子が着るもので……ああ、綺麗だった。可愛かった。女の子として愛らしかった。

 語彙の貧弱なわたしでも、今のヘテル君を前にすれば、褒め言葉なんていくらでも湧いて出てくる。でも言葉を積み重ねる方が稚拙な気がした。


 これはそう、だって君がずっと夢に見た姿なのだろうから、それをただ手にしただけなのだから、変に修飾する方が失礼だと思った。


「アルトさんこれは?」


「んーー。まぁ、なんだ。前さ、服屋行ったろ? その時欲しそうにしてたから、買ってきた」


 相変わらずこの人は粋なことをする。


「えっと……ね。どう、かな?」


 ヘテル君は自分の顔の前で、照れ臭そうに両の指を絡ませて、尋ねてきた。だから『可愛いよ』と答えようとした。

 けれどふと気づいた。ヘテル君が指を絡ませているということに。彼の左手は異業と化していて、手としての機能は使えないはずなのに。

 何故だ? そう思ってもう少し注視……するまでもなく、彼の左腕に、透明な手袋のようなものがついているのに気がついた。それは昨夜、ギーイさんが渡してくれたものだった。


 あからさまな違いに気付けなかったことに、落胆からちょっと思考を奪われたが、目の前にいるヘテル君を見たら、そんなのは気に止むことではないと思えた。……少なくとも今は。


「ええ、よく似合ってるよ。ヘテル君」


 頭を撫でながらに言う。するとヘテル君は、垂れ下がっている耳を、さらにぺたりと垂れさせて、頬を赤く紅潮させていた。

 顔を伏せているからあまり見えないが、もしヘテル君にソフィーちゃんのような長い尻尾があったなら、ぶんぶん振り回していたことだろう。


「ねぇ、アルトさん。どうして急に服を?」


 ヘテル君を愛する手は止めないで、横目に見た。


「んん、あーー。明日には、もうこの街を発とうと思うからな。今日くらい、遊びに行ってもいいんじゃないかってな……。異業のことなら、ギーイのくれたその手袋と、付与でインビジブルをかけてるから、自分からばらしたりしない限りは大丈夫だろ」


 と、危険を嫌うアルトさんにしては珍しく、本当に珍しく、そんなことを言う。

 わたしだけでなくヘテル君も目を丸くさせていた。彼もなんの事情説明もなく、着させられていたらしい。そのことに色々思うことはあるが、だとしても今日のアルトさんは、本当に、いやに優しい。


 何か思う所があるんでしょう。

 打算をすぐするアルトさんだが、わたし達に恩を売ったって何にもならないことなんて、彼が一番知っている。だからこれは純粋な思いやり。粋な計らいというやつで……。


 もしかしたら打算があるかもしれないが、そんな風に回収の見込みは少ない。だから変に勘ぐるのは嫌だなと、わたしはその思考を放棄して、アルトさんの好意に思いっきり甘えることにした。


「……わっかりましたぁ!! それは嬉しい!! ヘテル君、街に出よう! 見せつけてやろぉぉーーぜ!」


 一緒に出かけようと言うとヘテル君は、やはり強張ったが、それでも身体はそわそわと揺れていて、出掛けたがっているように見えた。

 そりゃそうだ、せっかく着たのだから、その格好で出歩きたいと思うのは、ヘテル君の心情を思えば当然だろう。でも一歩踏み出していくのは難しい。誰かが背中を押してやる必要がある。


 それはわたしがやれることでもあるし、それはーー。


「俺は出かける気なんて、正直ねーんだけどな。やることがいっぱいあるから。でも、流石にこれで俺だけ行かないのはまずいよなぁ」


 ヘテル君の背中をぽんぽんと叩いて、おっきな人影がさっさと通り抜けてしまう。そして扉前で言うのだ。


「ほら、行こうぜ。なんかあったら、俺が助ける。だから大丈夫だ」


 『なんかあったら、俺が助ける』、異業種がばれた時のことを言っているかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。

 アルトさんはよく格好つける。意図してかは知らないが、その頻度はなかなかのものだ。けれど今回、そのヘテル君に向けた笑顔は……。


──ああ、いい格好付けだよ。


 思わずにはいられなかった。アルトさんが歯を見せて笑った所なんて、今までわたしは一度も見たことがないぞ。今の彼の姿は、わたしの瞳に焼き付いた。

 わたしでもこれだ、当然その笑顔を向けられた本人はというと。


 なおのこと、照れ臭そうに俯いてしまったが、しかし足の動きは軽かった。

 それを見てわたしも少しだけ微笑んで、ヘテル君の手を取った。


「行きましょう!」


「……うん!!」


 ぐいっと引っ張る必要なんてない。今のヘテル君を支えるには、隣に立てばそれだけで十分なようだ。


「ソフィーちゃんも行こう!」


 わたしが落とした蝋燭をぺちぺち叩いていたソフィーちゃんに言う。すると彼女は面倒くさそうに「ワフ」と一度欠伸をしたが、それでも付いてきてくれた。


 この日は夜遅くなるまで出歩いたのだ。


✳︎








「ねぇ」


「なーに、ヘテル君?」


「えっとね、そのね。僕ね上にお兄ちゃんがいるんだ」


「へぇ、そうなんだ」


「聞いたな」


「アルトさんだけ、ずるいですねぇ!」


「……えっ、えっと」


「ほら、困ってんじゃん」


「……ちくしょう」


「それでどうしたのヘテル君?」


「うん、あの。その、ね。呼びたくて」


「うん、うん……? 何を?」


「あのお姉ちゃんと……お兄ちゃんって……」


「ほうほう。……ん?」


「なんで分かんねぇんだよ! ほんとお前は!」


「ああ、そういう……!」


「セア、まったくお前は……」


「えっと、ダメ?」


「……いいよヘテル。呼びたいんならそう呼べ」


「あら珍しい。アルトさん理由とか聞かないんですか?」


「……聞いて欲しいかヘテル?」


 ぷるぷるぷる。


「ほら、首を横に振ってる」


「………………朝を迎えるまでは家族だ。普通普遍の完成した景色に、皆憧れたんだ。いずれ普通の景色に立ち会えなくなるとしても、今、無邪気に笑うくらいは……な。してもいいだろ」


 アルトはヘテルの左手をとって、セアはヘテルの右手をとって、街道を並木道に沿って歩いた。目的地を見つけるまでは、そうやってどこまでも。

──そんな彼らの後ろ姿を、アクストゥルコが見つめていた。

 今章終わりです。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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